五代の浮気?
作 高良福三
序 自転車
黒目川は音もなく静かに流れる。川原は緑の草叢(くさむら)が例年になく繁茂している。万緑叢中紅一点(ばんりょくそうちゅうこういってん)。柘榴(ざくろ)ならず野薊(あざみ)の花が一輪、人のこころを動かさんばかりに可憐(かれん)な紫を際立たせている。とにかく今年は暑い。まだ5月だというのに、夏のような猛暑が続く。草花が元気なのはそのせいなのかもしれない。しかし、西武鉄道はそんな季節には関係なく、今日も定刻どおりに走っている。
その鉄橋から少し上流に遡(さかのぼ)ると、都立久留米高校がある。中学生だった春香が学力テストを受けに行き、苦し紛れに第一志望に記入した高校だ。しかし、春香は隣町にある都立清瀬高校に通うことになった。担任の教諭から、春香の成績なら他の都立を受けたらどうかとの指導を受けたからだ。春香としては、近所の高校の方がいいと思っていたが、五代も響子も清瀬高校を勧めたので素直に従うことにした。憧れの周くんは私立の進学校に行ってしまったし、親友の七夏(なのか)ともバラバラになってしまった。当面の課題は、高校での新しい友人づくりだろう。
「行ってきまーす!」
春香は今日も元気に一刻館を出た。空は一面の青天。時計坂から見下ろす東久留米の街は、なぜか春香の気持ちをうきうきとさせてくれた。
東久留米と清瀬は西武線で一駅のため、春香は自転車通学をしていた。高校通学のために五代から買ってもらった自転車は、春香の大のお気に入りだ。雨の日は濡(ぬ)れないように管理人室裏の庇(ひさし)の下に駐(と)めているし、晴れた日はサドルに塵埃(ほこり)がつかないようにスーパー”デリシャス”の買い物袋を被(かぶ)せてある。
今でこそ春香は自転車を気軽に乗りこなしているが、乗れるようになるまでが大変だった。何せ中学生まで自転車に乗ったことがなかったからだ。去年の秋、清瀬高校に第一志望を変更してから、春香の自転車特訓が始まった。特訓は坂のない近くの公園で行われてた。その昔、五代が響子に”三年待って”と言ったあの公園だ。
「きゃー!!」
「ほら、春香。怖くない怖くない。パパがちゃんと後ろを持ってるから」
小さな子供たちが遊んでいる中、響子と体格的には変わらない春香は、五代と自転車の練習していた。
「パパ、ちゃんと持ってるの? あたし、この歳でこんなことするの、すっごく恥ずかしいんだから」
「大丈夫だよ。ちゃんと持ってる。春香は変なこと気にしないで、真面目に練習すればすぐに乗れるようになるって」
そう言いながら、五代は片手で軽く押さえているだけだった。自転車はよろよろと危な気に蹣跚(よろけ)ながら進んでは倒れた。
「痛った〜」
「春香。自転車っていうのはな、倒れる方向にハンドルを切るんだぞ」
「そんなこと言われたって、怖いんだもん」
「大丈夫だよ。ほら、あの子を見てごらんよ」
公園の外を小学生くらいの男の子がサーっと自転車で通り過ぎるのが見えた。春香は頬(ほお)を脹(ふく)らませた。
「だってあの子は、きっともっと小さいうちから練習して乗れるようになったんでしょ? あたしは先週から始めたばかりだもん。乗れっこないわよ」
「そんなことないぞ。あの子だって最初は春香と同じだったんだ。一に練習二に練習!」
「は〜い」
「そうだ。いい返事だぞ。お前はママに似てけっこう運動神経いいんだから」
五代との練習は平日は五代の帰宅後1時間、休日は午前中いっぱいに行われていた。
「もうそろそろお昼だな。今日はこの辺にしておくか」
「はい!」
「なんだ、お前。練習が終わるときは妙に返事がいいな」
「そんなことないわよ」
「まぁ、いいか。それじゃ春香。パパが自転車漕(こ)ぐから後ろに乗りなさい」
「は〜い☆」
春香にとって自転車の練習で何が楽しいかといえば、公園までの往復(いきかえり)だった。それは、大好きな五代の漕(こ)ぐ自転車の後ろに乗せてもらえたからだ。春香は自転車の後ろに横座りになり、体を捻(ねじ)って軽く五代に抱きついた。
「じゃぁ、行くぞ」
ふたりは一刻館に帰っていった。
一 セクハラ!
春香はいつものボストンバッグを背負(しょ)って自転車で高校に向かっていた。去年の特訓のお蔭(かげ)で、高校に通うころまでには、春香はちゃんと自転車に乗れるようになっていた。
一刻館を出るとき、春香は響子から手荷物の点検を受けていた。
「ちゃんと着替えは余分に持ったわね?」
「はい」
「それから念のため、これ持って行きなさい」
「ん? なに?」
ラップに包まれて渡されたのは梅干だった。
「なに? これ」
「何って梅干よ。あなた長距離の車に乗りなれてないでしょ? 気分が悪くなったら舐(な)めなさい」
「え〜。なんかダサいわ」
「これ。そんなこと言うもんじゃありません。これは新潟のおばあちゃんが送ってくださった梅干よ」
「え? 去年戴(いただ)いたの、まだあったの?」
「もうこれで最後よ。またきっとお盆過ぎたら送ってくるんじゃないかしら?」
「あのさ〜、どうせ梅干戴(いただ)くんだったら、今年は家族で新潟に行こうよ」
「そうねぇ。去年はあなたの受験があったからね。今年は行きましょうか」
「ホント?」
「まだ分からないわよ。パパが何と仰(おっしゃ)るか伺(うかが)ってみないと」
「分かった! あたしもお願いしてみる☆」
「じゃぁ、それは遠足から帰ってからお願いしましょう」
「はい☆」
「じゃぁ、先生の仰(おっしゃ)ることはよく聞くんですよ」
「はい」
「車に気をつけてね」
「はいはい。春香はもう中学生じゃないのよ、ママ」
「”はい”は一回ね」
春香はちょっと哂(わら)った。
「はい」
「じゃ、気をつけていってらっしゃい」
「いってきま〜す」
清瀬高校では、新入生を対象に遠足という名の親睦旅行を行っていた。一泊二日の日程で山梨に行くという。友人作りにはまたとないチャンスだった。
一刻館から清瀬高校までは凡(およ)そ2kmほどの道程だ。交通量の多い野火止(のびどめ)の用水道路を進み、「八軒」バス停を曲がって住宅街を抜ければ高校はすぐだった。
「おはよう!」
「おはよう!」
春香は、気の合うクラスメートと軽く挨拶(あいさつ)を交わした。クラスメートは、思い思いに春香よりずっと大きなバッグを肩から提(さ)げていた。春香は思わず声を漏(も)らした。
「わ〜…みんな凄(すご)い荷物ね」
「え? そう?」
クラスメートは、それぞれ自分の荷物を顧(かえり)みながら春香のボストンバッグと比べた。確かに、クラスメートのバッグは春香のボストンバッグの優(ゆう)に2倍はあった。
「あ、ホント。五代さんの方がちっちゃいわ」
「ね?」
クラスメートは感心して春香のバッグを見回した。
「五代さんって着替えとか持ってこなかったの?」
「あら、失礼ね。あたし、これでも綺麗(きれい)好きなんだから」
春香はわざと少し怒って見せてから、得意気にバッグの中をクラスメートに披露(ひろう)した。
「あたし、こういうパッキングには自信あるのよ。例えばね、下着とかTシャツとか、ちょっとくらい皺(しわ)になっていいものは、こういう風にくるくるっと丸めちゃうの」
「へぇ〜。なかなか巧(うま)いものね」
「でしょ? これ、前TVでやってたのよ」
「ねぇ。どうやって畳(たた)むの? 教えて」
「それはね…」
春香がクラスメートに実演していると、いつの間にか他の女子も春香を遶(かこ)んでいた。
「こうやって、こう。こうすると出来上がり」
「あ、ちょっと。五代さん、もう一回やって」
「いいわよ。あたしが横でやるから、同じようにやってみて」
「うん。分かった」
そんな遣り取りをしながら、女子はわいわいと騒いでいた。そうすると、今まで向こうの方で駄弁(だべ)っていた男子も春香たちのことが気になったのか、集まってきた。
春香たちはTシャツの畳(たた)み方が終わり、次に下着を畳(たた)んでいた。
「なぁ。五代さんたち、なにやってるの?」
「キャー!!!」
女子は一斉に畳(たた)んだ下着に覆い被(かぶ)さった。いきなりのことに驚いたのは、下着を見られそうになった春香たちよりも、寧(むし)ろ男子の方だった。
「な、何なんだよ。いきなり」
すると、春香たちの中から一人の女子がしゃしゃり出てきた。
「ちょっと! なんで女の話に男子が首を突っ込むわけ? セクハラよ!」
「そうよ! あっち行ってよ、変態!」
「へ…変態?」
男子は悲鳴を浴びせられた上に、変態扱いされてしまった。こうなっては、男子はすごすごと引き揚げるしかないかった。
「ふん! 何だよ、あいつら」
男子はポケットに手を深く突っ込み、肩で風を切って遠吠えを吐いた。
春香は一難去って取り敢(あ)えず安堵(あんど)した。
「ふ〜、ビックリした。ホントにありがとう。もうちょっとで見られちゃうとこだったわ」
啖呵(たんか)を切った女子は、春香に忠告した。
「五代さん。遠足だからって浮かれてちゃ駄目(だめ)よ。気を付けてね」
「うん。気を付ける」
春香は、その女子の突慳貪(つっけんどん)な態度に当惑しながら、畳(たた)んだ衣類をボストンバッグに戻した。そこへ、担任の教諭が教室に入って来た。
「おーい。D組は各班に分かれてバスに乗ること。そして班長は私に人数を報告すること。いいな」
「は〜い」
バスは一路、山梨へ向けて出発した。
二 こずえの帰京
ここは都内某所の社宅。
段ボールの山に囲まれて、こずえはひとり荷解(にほど)きに追われていた。
「わー!」
周りではふたりの男の子が荷物の間を元気に走り回っていた。こずえの息子たちだ。こずえは思い余ってふたりに注意した。
「あなたたち、さっきから遊んでないで、自分の荷物は自分で仕舞いなさい」
「え〜!」
「”え〜”じゃないの。”はい”でしょ?」
「は〜い」
ふたりは不承(ふしょう)不承返事をした。しかし素直に荷解(ほど)きをするつもりはないようだ。段ボールを自分たちの部屋に運んだものの、またふたりで小突き合いを始めた。
「さてと。私も頑張(がんば)らなきゃ」
こずえは結婚以来、夫の仕事の都合で名古屋、福岡など地方の主要都市を転々としていた。しかし銀行員の夫は、相次ぐ銀行の統合で多忙を極めていた。近く、UFJ銀行との統合が予定されている関係もあり、夫は仕事で連日午前様になることが多かった。そのため、こずえはとても引越しの作業を手伝ってはもらえる状況になかった。引越し屋の手配から区役所への手続き、その他雑多なことまで全部ひとりでこなした。こずえは、山のように積まれた段ボールを見上げ、溜(ため)息を吐(つ)いた。
《こんな筈(はず)じゃなかったのに…》
結婚から17年。初めは夫と恋人のように愛を語らい、将来の家庭像なども熱心に話し合っていた。しかし、夫は多忙に次ぐ多忙を極め、一緒にいられる時間が極端に少なくなっていった。それに連れて、夫婦の会話も減っていった。長男が生まれたのは、結婚から5年が経ったときだった。次男は更にその4年後に生まれた。家事に加え子育ても総(すべ)て、こずえがひとりでやった。知らない土地での子育ては不安も多かったが、そこは持ち前の明るさで何とか乗り切った。ときには辛くなって東京の母親に泣きつくこともあった。そんなとき、こずえの母親は優しい声援を送ってくれた。ここまでやってこれたのも、母親のお蔭(かげ)といっても過言ではない。
こずえは取り敢(あ)えず、台所と寝所の片づけを優先させた。時計を見ると、もう19時を回っていた。
「お母さん、ご飯まだ?」
さっきまで元気に走り回っていた長男は、次男を連れて居間の戸口から顔を覗(のぞ)かせていた。
「あら、ごめんなさい。お母さん、ちょっと疲れちゃって全然用意ができてないの。今日はどこかに食べに行きましょうか」
「え? ホント?」
子供たちは外食ができると知ると、途端に元気を取り戻した。
「ぼく、ハンバーグが食べたい!」
「ぼくも!」
弟は、兄に負けじと元気に主張した。こずえは少し気が楽になった。
「はいはい。じゃぁ、出かける準備をしなさい」
「はーい!」
三人は連れ立って社宅を出た。
五代はその日、幼児教育の研修で平河町に来ていた。一連の講義が終わり、帰途、麹町の駅に向かっていた。
「あ〜、やっぱ一日研修っつうのはホント疲れるんだよな」
そんなことを独りごちると、いつものショルダーバッグが益々(ますます)重たく感じられた。五代はバッグを背負(しょい)い直すと、疲れた足取りで新宿通りに向かった。新宿通りは居酒屋や飲食店で賑(にぎ)わっていた。
《そうだな。こんなときは、ちょっと一杯引っかけていくってのも乙(おつ)だな》
五代は少し気を良くしたが、気が付いたように思い直して頭(かぶり)を振った。
「いかん、いかん。気を抜くとすぐこれだ。帰れば、響子も子供たちも待ってるんだ。もうちょっとの辛抱(しんぼう)辛抱」
五代は、足早に駅に向かった。
新宿通りのレストランでは、こずえたちが食事をしていた。一心不乱に食べる子供たちを余所(よそ)に、こずえは窓の外を眺めていた。
《!》
家路を急ぐ人込みを何となく眺めていたこずえは、意外な人を見た。五代だ。
《五代さん!?》
こずえは、思わず窓に貼り付いたが、五代はこずえに気づく由(よし)もなく通り過ぎていった。
《五代さん…》
こずえは店を出て声を掛けたかったが、子供たちの手前、そうすることもできなかった。こずえは、五代の後ろ姿をいつまでも目で追っていた。
「お母さん。どうかしたの?」
長男はこずえの異変に気づき、声を掛けた。
「え?」
こずえは驚いて振り向いたが、次の瞬間笑顔で答えた。
「ううん。何でもないのよ」
「でもお母さん、あんまりご飯食べてないみたいだよ」
「これから食べるのよ。どう? お母さんのこれ、あなたちょっと食べてみる?」
こずえは自分の分の肉を長男に差し出した。
「え! いいの?」
長男は喜んだ。しかし次男は不服だった。
「お母さん。ぼくにもちょうだい」
「はいはい。ふたりで好きなだけ食べなさい」
「やったー!」
こずえは、付け合せのグリルドベジタブルをおかずにご飯を頬(ほお)張った。
「ここのご飯は美味しいわね」
「ホントうまいよな」
三人は舌鼓(つづみ)を打った。
三 沢登り
春香は、山梨でハイキングをしていた。予定では、宿の裏手の渓谷を沢伝(づた)いに登り、峠で宿の人が用意してくれた弁当を食べてからまた戻ってくることになっていた。全行程は10km程になる。春香は気の合う女子三人組でお喋(しゃべ)りに花を咲かせていた。
「でねでね、私、カッコイイ外人の男の人に会ったのよ〜」
「え〜。小林さん、ズルイ」
「そんなこと、どうでもいいのよ。それより聞いてよ。その人ね、日本語がプリントされたTシャツ着てたんだけど、それがおっかしいのよ。ねぇ、何て書いてあったと思う?」
「そんなの分かんないよ」
「あのね。前はね、筆で書いたような荒々しい字で”倒産”って書いてあったの〜」
「何それ。ちょーウケル!」
「でしょでしょ? それでね、私もすっごく気になって、その人のこと目で追ってたの。そしたらさぁ、Tシャツの後ろにね…」
そこまで言って小林はひとりで笑い出した。聞いている方は、そんなに笑われてはすごく気になる。
「ねぇ、小林さん。Tシャツの後ろがどうしたの? 笑ってないで教えてよ」
春香も興味津々(しんしん)で耳を傾けていた。小林は漸(ようや)く笑いが治まり、薄っすらと浮かべた涙を拭(ぬぐ)いながら言った。
「それがね…Tシャツの後ろにね、小さな活字体で”小麦粉で出来てます”って書いてあったの!」
「くー!」
「ははは。バッカじゃないの、その外人」
「ダサダサ」
周囲の女子と同じく、春香も大いに笑った。小林は更に続けた。
「でもねでもね、その人すっごいカッコよかったのよ。でもそれがさ…くくく…”小麦粉で出来てます”だって!」
「ははは」
渓谷は新緑に包まれ、空気が爽快(そうかい)だった。思い切り笑った春香は、とても清々(すがすが)しい気持ちになった。
「よー! お前たち、何だか楽しそうじゃん」
春香たちの笑い声を聞きつけた男子が寄ってきた。
「何よ、田口くん。あんた、あっちの男子と一緒じゃなかったの?」
田口は空々しく言い訳をした。
「いいんだよ。どうせあいつら、話すことは猥談(わいだん)ばっかなんだからさ」
「何それ。サイテー」
「この高尚な俺(おれ)様としてはだな、そんな話より君たちと話している方がいいのさ」
「よく言うわよ」
田口は女子たちと駄弁(だべ)りながら、ちらちらと春香のことを瞥見(べっけん)していた。しかし、春香はそんな視線には全く気づいていなかった。
宿を出てから3時間ほどで春香たちは峠に着いた。峠から見える周囲の山々は九十九(つづら)折に重なり合い、翠(みどり)の屏風(びょうぶ)のように広がっていた。その所々には山桜の濃い桃色が点在し、新緑を強調しているようだった。
「あ〜! いい気持ち」
春香は荷物を下ろして思いっきり伸びをした。
ぴーちーぴるぴる…。
どこからかミソサザイの寮喨(りょうりょう)とした長声が聞こえてきた。
「こんな所でご飯が食べられるなんて、ホント幸せよねぇ」
春香は仲間とそんな会話を楽しみながら、宿の人が用意してくれた梅干入りの握(にぎり)飯を頬(ほお)張った。
「ねぇ、五代さんってさ、彼氏とかいるの?」
弁当を食べ終わると、女子はそんな話で盛り上がっていた。春香は周くんのことを思い浮かべながら、はにかむように誤魔化(ごまか)した。
「そうねぇ。彼氏っていえるほどの人は…」
「何か怪しいわね〜」
「あ! それってもしかして片思いってこと? 五代さんって純情一途(いちず)なんだ」
「そういうんじゃないよ〜」
「いいのいいの、そんな隠さなくたって」
翠巒(すいらん)を渡る風が心地よく春香のツインテールを撫(な)でた。春香は呟(つぶや)いた。
「ホントいい天気よね」
「ねぇ、五代さん。話をはぐらかさないでよ」
「ははは…」
女子たちの会話は、延々と続いた。
「班長は点呼を取って担任に報告するように」
遠くから担任の教諭の声が聞こえてきた。
「五代さんたち、そろそろ集合だからね。お喋(しゃべ)りしてないで急いで出発の準備してちょうだい」
班長が忙しそうに点呼を取りに来た。
「は〜い。小林さん、行こ」
「…うん」
春香たちは班毎(ごと)に集合して宿に戻ることになった。
往路(いき)に比べて復路(かえり)は、何かもが早い気がした。あんなに苦労しながら登った長い坂道も、渡るのに躊躇(ちゅうちょ)した早瀬も、往路(いき)ではとても遠かったように思えたが、復路(かえり)は然(さ)して歩かないうちに辿(たど)りついた。春香は、思ったより実際は距離を歩いていないのだと思った。そんなことより、春香には気になることがあった。往路(いき)にあれだけ話に夢中になっていた小林が、先ほどから黙ったままなのだ。春香は初め、他の女子と話していて気づかなかったのだが、どうも小林ひとりが話の輪から外れたようになっていた。春香は思い切って小林に話しかけてみた。
「ねぇ、小林さん。どうかしたの?」
「…ん?」
小林は元気のない返事をした。顔が蒼白だった。
「ちょっと! 小林さん、顔色が悪いわよ。大丈夫?」
春香のことばを聞いて、他の女子たちも小林の周りを取り囲んだ。小林は懸命に笑顔を作りながら言った。
「ゴメン。大したことないの。ちょっと座っていいかな?」
小林は、春香たちの返事を待たずにくず折れるようにしてその場にへたり込んだ。
「ねぇ、ホントに大丈夫なの? 小林さん」
小林の額には脂汗が滲(にじ)んでいた。
「どうしよう…」
女子のひとりが不安げに呟(つぶ)いた。そのことばによって、周りの空気は一気に落ち込んだ。春香は焦(あせ)った。
《何とかしてあげないと…。でも、どうすればいいの?》
春香は、考えれば考えるほど周章(おろおろ)するだけだった。
「そうだ! あたし、先生に連絡してくる」
「でも、五代さん。どっちに行くの?」
その女子が言うように、学年全員が狭隘(きょうあい)な渓谷沿いに長蛇の列をなしているので、引率の教員がどの辺にいるのか見当もつかなかった。上流に行くべきか下流に行くべきか。そんなことを悩んでいるときだった。
「あれ? 五代さん、何やってんの?」
田口が通りかかった。
「あ、田口くん。小林さんが急に具合悪くなっちゃったの。それで、先生を呼ぼうと思うんだけど、どっちに行けばいいのか分からないの」
「ふ〜ん」
「田口くん! ”ふ〜ん”はないんじゃない?」
春香のことばを聞いてか聞かでか、田口は徐(おもむ)ろにポケットから携帯を取り出すと、別の組の友人に電話を始めた。
「あ、北村? うん、俺(おれ)。あのさぁ、その辺に誰か先公いねぇ?」
「ん? 大庭がいる? どの辺?」
「あぁ、さっき通った大きな岩んトコね。分かった。サンキュ」
春香は驚いた。
「ちょっと、田口くん。遠足で携帯は禁止でしょ?」
「そうだったっけ?」
「そうよ。だって、学校でバスに乗るとき、携帯は先生が預かるからって、荷物検査してたじゃないの」
「あ〜…そんなこともあったっけ」
「”あったっけ”じゃないわよ。なに考えてんの?」
「なぁ、五代さん」
「え?」
「そんなことより、小林さんが苦しんでんだろ? 大庭んとこに行ってこいよ」
「あ、そうか!」
「俺(おれ)は、こいつ負(お)ぶって先に宿に行ってるから、ちゃんと大庭に伝えておいてくれよな」
「…うん」
春香は躊躇(ためらい)がちに頷(うなず)くと、一目散に沢を遡(のぼ)っていった。田口は小林に手を差し伸べた。
「さ、小林さん。ちょっとの辛抱だ。俺(おれ)の背中に乗れよ」
小林は、力なく言われるまま田口の背中に負(お)ぶさった。
四 五代の浮気
遠足は全日程を終了し、バスは清瀬高校に向かっていた。春香はバスの中で田口を観察していた。田口は相変わらず男子と馬鹿話をしていた。それに飽きると女子にちょっかいを出した。実に、軽佻(けいちょう)浮薄な感じだった。そんな姿を見ていると、その田口が毅然として急病の小林を介抱したとはとても思えなかった。それに引き換え、周章(おろおろ)するだけで何もできなかった自分を、春香は愧(は)じていた。
《田口くんって、一体どんなひとなんだろ? もしかして、小林さんの彼氏だったりして。じゃなきゃ、普通あんな介抱なんてしないわよね》
春香は、それとなく中学時代の田口について周りの女子に訊いて回った。その結果分かったことは、田口と小林は同じ中学の出身で、三年生のときはクラスも一緒だったということだった。しかし、彼らが付き合っていたかどうか知る者はいなかった。ただ少し気になった情報は、田口は中学二年生のとき、田口の浮気が因(もと)で当時付き合っていた彼女と別れたそうだ。
「男って、ホントなに考えてんだか分からないわよね〜。まぁ、男っていうか、特に田口の場合?」
春香に教えてくれた女子は、そんなことを言っていた。春香は少し寂しい気持ちになった。それと同時に、中学のとき憧れていた周くんのことが春香の脳裏を過(よ)ぎった。
《周くん、今ごろ学校で何やってんだろ? 彼女とか、もうできちゃったのかな…》
周くんは、東大合格率が高いことで有名な都心の男子校に通っている。彼の性格からいっても、女の子に現(うつつ)を抜かすようなタイプではない。そんなことは分かりきっているのに、春香は殷々(いんいん)とした胸騒ぎを覚えた。
春香たちを乗せたバスは、中央自動車道の国立府中インターチェンジから甲州街道、新小金井街道、鈴木街道、小金井街道へと北上していた。春香は、田口について訊き回るうちに、去川という女子と仲良くなった。元気のない春香に去川が声を掛けた。
「五代さん。っていうかさ、”春香”って呼んでいい?」
「うん。別にいいけど、去川さんって下の名前なんだっけ?」
「久美子。”久美子”って呼んでね」
「分かった。”久美子”ね」
「それで帰りさ、マックでお茶してかない? あの子たちも一緒なんだけど」
久美子の指差す方向を見ると、数人の女子が春香に向かって手を振っていた。
「うん。いいよ」
バスは清瀬高校に到着した。校庭では一年生全員が整列し、引率の学年主任から指導を受けていた。
「え〜…これは、君たちが小学校の頃から、あ〜…耳に胼胝(たこ)ができていることばとは思いますが、あ〜…遠足は家に帰るまでが遠足です。帰りに、い〜…道草などは食わないように。以上」
春香は、そのことばにちょっと不安になって久美子を見た。久美子は親指を立てて春香に笑いかけた。春香も微笑(わら)って親指を立てた。
解散後、春香たちは清瀬駅南口にあるマクドナルドに行った。話すことといえば遠足のことは勿論(もちろん)だが、それよりも寧(むし)ろ遠足で見つけた男子の品定めに話が移っていった。春香は18時過ぎに久美子たちと別れて家路に着いた。
マクドナルドでの話は楽しかった。しかし、男子の品定めに至っては、誰々はあの子を狙っているのではないかとか、誰々は中学のときに誰々と別れたとか、そういう類(たぐい)のものばかりだった。そんな話を聞いているうちに、春香は段々不安を募らせるようになっていた。
《周くんにお手紙でも書こうかな…》
春香は一刻館には直行せず、いつも行く東久留米のファンシーショップへ向かった。そこで30分ほど悩んだ末に、可愛らしいレターセットを購入した。
春香は駅前の雑踏(ざっとう)の中を自転車を押していた。時間は19時過ぎ。都心で仕事を終えたサラリーマンのラッシュアワーと見えて、駅から溢(あふ)れ出た大勢の人々が足早に家路を急いでいた。
《あ、そういえば、パパもそろそろ帰ってくる時間よね。もしかして、ばったり遇(あ)っちゃったりして☆》
春香はそんなことを考えながらひとり笑った。
「おっと! おねえちゃん、ゴメンよ」
スタジャンを着た中年の男が春香に接触した。春香は大きく蹣跚(よろけ)て喫茶店のウィンドウに手を突いた。
《!》
春香は驚きのあまりことばが出なかった。そこには、知らない女性と楽しそうに話をしている五代の姿があった。その女性は響子よりもずっと年下に見え、ショートヘアで活発そうな感じだった。優しそうに話す五代のことばに、女性はオーバーなリアクションで笑っていた。しいの実保育園の保母や園児の母親でないことは、火を見るより灼(あき)らかだった。春香は、驚きを通り越して哀しくなってきた。
「パパまで…どうして?」
春香はボストンバッグを背負(しょ)い直すと、自転車に跨(またが)り一目散にその場から立ち去った。
五代は女性と店を出ることになった。席を立つとき、女性は言った。
「五代さん。今日は本当にありがとう。主人の愚痴(ぐち)を聞いてもらっただけで、もうすっかり元気になっちゃった」
「いいんだよ、こずえちゃん。今日は実家なんだろ? 送っていくよ」
「ううん、いいの。私、イトーヨーカドーで買い物するものがあるから」
「そう? じゃ、気をつけて」
「五代さんもね」
五代はこずえと別れると、家路を急いだ。
五 讒言(ざんげん)
「ただいま〜」
春香は一刻館に帰ると、そう言い残して5号室に向かった。
「おかえりなさい」
響子が玄関に出たときには、既に春香の姿はなかった。
《どうしたのかしら?》
響子は少し怪訝(けげん)に思ったが、かといって穿鑿(せんさく)する必要もないだろうと、管理人室に戻っていった。
「はー!」
春香はボストンバッグを投げ出すと、電器も点(つ)けず5号室に寝転がった。暗い天井が圧(の)しかかってきた。春香は暫(しばら)くそのままでいた。次第に目が慣れてくると、天井板は隙(すき)間だらけで、その木目は不気味な文様を呈(てい)していた。
《男の人って…分からない…》
春香は力なく寝返りを打った。ツインテールが頬(ほほ)にぺったりと付いた。
ドタドタドタ…。
階下(した)から乱暴な跫(あし)音が近づいてきた。
「おねえちゃん、おかえり!」
冬樹だった。春香は不機嫌そうに言った。
「冬樹。入ってくるときはノックくらいしなさいよね。もしあたしが着替えてたらどうするの?」
「あ、ゴメンゴメン。それよりさ、おねえちゃん、おみやげは?」
冬樹はニコニコしながら両手を差し出した。春香は吐き捨てるように言った。
「そんなもんないわよ。あたし、別に遊びに行ったんじゃないんだからね」
「でも遠足だったんでしょ?」
「…まぁ、そりゃぁそうだけど」
「だったら、おみやげ」
春香は一気に起き上がって怒鳴った。
「五月蝿(うるさ)いわね! あっち行ってよ!」
しかし冬樹は動じなかった。
「ママが”ごはんできた”って言ってたよ」
「ご飯? もしかしてパパ、もう帰ってきたの?」
「うん。さっき帰ってきた」
「あ、そう…」
春香は暫(しばら)く黙っていたが、思い直して冬樹に答えた。
「分かったわ。じゃ、あたし着替えるから、あんた先に行っててちょうだい」
「うん」
冬樹は元気に階下(した)へ降りていった。
《パパと…どういう顔して会ったらいいんだろ?》
春香はのそのそと着替えると、管理人室へ向かった。
「春香、遅かったじゃないの」
管理人室では響子が明るい声で言った。今日の夕食は”あれ”だった。その昔、在りし日の惣一郎が毎日でも食べたいと言った料理、そして郁子が一刻館に遊びに来たときも、五代が同じように誉(ほ)めた料理だった。この料理は、五代家にとって何か良い事があるときに食卓に並ぶ。響子にとって、今日は何か良い事があったらしい。五代はいつもと変わらない様子で食卓に着いている。しかも、珍しく晩酌までしていた。
「いや〜。やっぱ我が家で飲むのが一番だよな」
そんな白々しいことを平気で言ってのける五代を、春香は赦(ゆる)せなかった。
《ママは何にも知らないの? パパは今日、駅前の喫茶店で知らない女の人と楽しそうに話してたんだよ。それでもいいの? ホントにいいの?》
春香は、いつもなら大好きな五代と学校の話や友人の話をするのだが、今日はとてもそんな気分にはなれなかった。五代に対して非常に疑心暗鬼になっていた。
「あら、どうしたの? 何だか元気がないみたいだけど」
心配する響子に、春香はできる限りの笑顔を作った。
「そんなことないわよ。遠足、すっごく楽しかったんだから」
それを聞いた五代が春香に話しかけた。
「ほぉ。どんなことがあったんだ?」
「……」
春香は五代のことばに反射的に黙ってしまった。
《?》
五代は、春香にいきなり黙られて戸惑った様子だった。
「おねえちゃん、どうしたの?」
冬樹も怪訝(けげん)な顔を隠せなかった。
「え? ううん。何でもないの」
春香は狼狽(ろうばい)しながら、”あれ”を口に運んだ。
「ママ。今日のご飯も最高よ☆」
「あら、そう? 春香に誉(ほ)めてもらえると、ママも嬉しいわ」
「ううん。ママの料理ってホントに美味しいんだもん」
春香は食事を済ませると、早々に5号室に引っ込んでしまった。管理人室では、五代、響子、冬樹がTVを観ていた。五代はもみあげを掻(か)きながら響子に尋ねた。
「なぁ、響子。春香の奴、何かあったのか?」
「それが…きょう帰ってきてから、いきなり部屋に籠(こ)もったっきりだったんですよ。食事のときやっと出てきたと思ったら、あの有様で…」
「遠足で何かあったのかな?」
「さぁ、どうでしょう?」
「あのさ、もし何か気づいたことがあったら、教えてもらえないか? あいつにしては様子が変だからさ」
「そうですわね。何か分かったら報告します」
「宜(よろ)しく頼むよ」
そんな夫婦の会話を、冬樹はじっと聞いていた。五代は言った。
「冬樹。今日はお姉ちゃんと一緒じゃなくて、ここで寝なさい。いいな?」
「うん」
冬樹は何の屈託もなく返事をした。
次の土曜日。五代は、しいの実保育園の春の運動会の準備で出勤した。休みを持て余した春香は、管理人室でずっとごろごろしていた。響子は館内清掃に余念がなかった。冬樹は友達の家に遊びに行って留守だった。
「は〜ぁ」
春香は寝転びながら大きな溜(ため)息を吐(つ)いた。
ちり〜ん…。
今年は暑いからといって五代が早めに出した南部風鈴が、涼しげな音を出して揺れた。
暇、暇、暇。春香は何の気力もなく、ただ寝そべっていた。それを見兼ねた響子が小言を言った。
「春香。何にもすることがないんだったら、ママのお仕事でも手伝ってちょうだい」
「……」
「春香。聞いてるの?」
「え?」
「”え?”じゃないわよ。ちょっとはママのお仕事を手伝ってよ」
春香は物憂気(ものうげ)に身を起こして響子に尋ねた。
「ねぇ、ママ。パパのこと知ってる?」
「え? パパのことって?」
春香は躊躇(ためら)いがちに響子の顔色を窺(うかが)った。
「春香。どうしたのよ? パパのことって何なの?」
「うん…」
春香は響子から視線を逸(そ)らした。
「ううん。やっぱ何でもない」
響子は半ば呆(あき)れ半ば苛(いら)立ちを覚えながら言った。
「春香。あなた、そこまで言っといて”何でもない”はないんじゃないの?」
「…うん。そうよね」
春香は横座りにしていたのを座りなおした。響子は優しく言った。
「ママは怒らないから、言ってごらんなさい。パパがどうかしたの?」
「あのさ…」
春香は人差し指で畳(たたみ)に円を描くようにして視線を落とした。
「五代さーん! 宅急便でーす」
「あ、はい!」
響子は、春香にそこで待っているように一瞥(いちべつ)すると、慌てて席を立った。響子の姿が見えなくなると、春香は居た堪(たま)れなくなって縁側から外に出てしまった。
六 一の瀬の穿鑿(せんさく)
時計坂の街が夜の眠りに就いた。管理人室では、五代と響子、そして冬樹が川の字になって寝ていた。春香は今日もひとり5号室で寝ていた。その夜、春香はなかなか寝付けなかった。五代が知らない女性と楽しそうに話をする姿が脳裏から離れなかったからだ。春香は初め、女性のことを響子に話してふたりで五代を追及しようと思っていた。しかし、響子に話すのは容易(たやす)いが、それを聞いた響子がどのような気持ちになるか。それを考えただけでも、春香は話すべきではないと思い留まった。その一方で、何も知らずにいる響子のことが不憫(ふびん)でならなかった。
《あたしはどうすればいいの?》
春香は自問した。自問すればするほど、何故か五代の屈託のない笑顔が頭に過(よ)ぎるのだった。
《パパは、ママに申し訳ないと思わないわけ?》
春香は蒲団(ふとん)に頭まで潜り込んだ。
《分かんない…》
翌朝、春香は殆(ほとん)ど睡眠も取れず起床した。
トントントン…。
管理人室からは、響子が朝食の仕度(したく)をしている音が聞こえてきた。
「おはようございま〜す」
春香は制服に着替えてちゃぶ台に着いた。
「あら。おはよう」
響子はいつものように明るい表情で配膳を始めた。五代もいつものように新聞を読んでいた。普段と何も変わらない朝の情景だった。
「っふー」
春香は大きな溜(ため)息を吐(つ)いた。響子は何も知らない顔で春香に食事を勧めた。
「春香。時間がないんでしょ? 早く食べちゃいなさい」
「は〜い」
春香はもそもそと朝食を摂(と)りはじめた。春香はおかずを摘もうと箸(はし)を伸ばしながら、五代の方を盗み見ていた。五代の方も、新聞を読む振りをしながら、何気ない様子で春香の様子を具(つぶ)さに観察していた。
「行ってきま〜す」
五代が出勤した後、春香と冬樹が家を出た。響子は食事の後片付けをしながら思った。
《あの子、ちょっと思いつめてるみたいね。それも、やっぱり何かパパに関係あるみたい…》
コンコン…。
そこへドアをノックする音がした。
「おはようさん」
「あら、一の瀬さん。おはようございます」
「ちょこっと邪魔していいかい?」
一の瀬は響子の返事を待たず上がりこんできた。
「あ、どうぞどうぞ。まだ散らかってますけど」
響子は座蒲団(ざぶとん)を勧めた。一の瀬は何を話すともなく、莨(たばこ)を吹かしはじめた。響子はその様子を見て、後片付けを再開した。ひと通り作業も終わり、響子は一の瀬に茶を淹(い)れた。
「どうぞ」
「あ〜、あんがと」
一の瀬は茶を一口啜(すす)った。
「管理人さんさぁ」
「はい」
一の瀬はまた茶を啜(すす)った。
「あたしゃ知ってんだよ。何かあったんだろ?」
「”何か”って何ですか?」
「ま〜たまた惚(とぼ)けちゃってさ。春香ちゃんのことだよ」
「あ…」
響子はことばを失った。
「まぁ、何だね。ありゃぁ、あたしの推測では男絡みだね」
「え? 男絡み…」
「そうだよ。あんた、見てて分からないのかい? 最近、春香ちゃんさ、男ができたんじゃないかねぇ?」
一の瀬の興味津々(しんしん)な顔を余所(よそ)に、響子は考え込んでしまった。
「なに? あんたのその顔。男じゃないってのかい?」
「いえ、そんな。男絡みかどうかは分からないんですが、どうも最近、春香が主人に対して余所(よそ)余所しい気がするんですよね」
「え? 春香ちゃんが五代くんに?」
「ええ。主人からも、”春香が何か悩んでいるみたいだから気をつけて視(み)てくれないか”とは言われてるんですけど」
「ふ〜ん。で、何か分かったのかい?」
響子は頭(かぶり)を静かに振った。一の瀬は残念そうだった。
「そうかい。あたしゃ、てっきり五代くんが春香ちゃんに悪さでもしたのかと思ったんだけどね」
「そんな! 異常なこと言わないで下さい」
一の瀬は莨(たばこ)を灰皿に潰した。
「あ〜、分かった分かった。あんたを揶揄(からか)って悪かったよ。そうかい。あんたも何も知らないのかい…」
一の瀬は詰まらなさそうに肩の凝りを解(ほぐ)すと、茶を飲み干して立ち上がった。
「まぁ、春香ちゃんもお年頃だからね。男って線は間違いないと思うけどね」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。んじゃ、あたしゃ、そろそろお暇(いとま)するわ。ご馳走(ちそう)さん」
そう言うと、一の瀬は勝手に出て行ってしまった。
「んもう!」
響子は一の瀬の身勝手な態度に気分を損ねたが、少し思い直した。
《男って、周くんのことかしら? それともホントにパパと何か?》
そう考えると、響子は居ても立ってもいられず、出掛ける身支度(みじたく)を始めた。
七 周くんの天体観察
学校が終わり、春香は自転車を走らせていた。
《……》
春香は、直接一刻館へは帰らず、東久留米の駅前駐輪場に自転車を駐(と)めた。
「えっと、しいの実保育園は何駅だったっけ?」
春香は切符を買い、しいの実保育園へと向かった。しいの実保育園では、子供たちが元気に遊んでいた。
「ごだいせんせい☆」
五代は主任から園長代理にまで昇進していたが、子供たちのことが大好きらしく、事務の合間に子供たちと一緒に遊ぶことが多かった。
《あ、パパだ…》
春香は、五代のを姿を発見した。五代は楽しそうに子供たちと遊んでいた。春香はその様子を観察していた。
《こうやって見てると、パパはやっぱりパパなのよね…》
しいの実保育園の垣根に春香が立ち尽くして1時間あまりが経った。漸(ようや)く最後の子供が保護者に引き取られ、五代が保育園から出てきた。
「お疲れさまー」
そう言って五代は駅に向かっていった。
《あ! 後を跟(つ)けなきゃ》
春香は五代に気づかれないように、そっと電柱の陰に隠れながら五代の後を跟(つ)けた。五代はそんな春香に気づく由(よし)もなく、いつもと同じように漫(そぞ)ろに歩いていた。
「あ〜。何だか今日は普段より大分疲れたな〜」
五代は時々そんなことを独りごちて駅前のロータリーを歩いていた。
− おでん −
ちょっと寄りたくなるような暖簾(のれん)が下がった屋台があった。五代は屋台を一瞥(いちべつ)すると、何となく吸い込まれるように近づいていった。
《あ! パパが屋台に入る!》
春香は意味もなく俄(にわ)かに緊張した。ところが、五代は屋台の様子をちょっと覘(のぞ)いただけで、思い直したように駅の改札へ向かった。春香は尾行を続けた。
「東久留米〜東久留米〜」
西武電車は五代と春香を乗せて東久留米に到着した。春香はずっと五代の周りに注意を払っていた。
《またあの女と待ち合わせてないかしら?》
五代は、駅の階段を降りてから辺りを見回し始めた。春香は階段の柱の陰に隠れた。五代は春香の尾行に気づく様子もなく、書店へ向かった。
《え? 本屋さん?》
春香は他の客に紛れて五代の後から書店に入った。五代は書店の中を逍遥(ぶらつ)き、或(あ)る書棚のところで足を止めた。それは育児や教育に関する書籍が収めてある棚だった。五代は何か子育ての本を立ち読みしはじめた。
《パパ、なんであんな本読んでんだろ? 保育園関係かな?》
五代は15分くらい立ち読みし、本を閉じて書棚に仕舞った。
《……》
五代が書棚から立ち去った後、春香は五代が手にした本を検(あら)めた。
『思春期の子を持つ親の本』
春香は目次を眺めた。
「第2章 娘を持つ親の五箇条」
《何これ?》
春香は本を斜め読みした。そこには、思春期の娘の執(と)る行動に対する対処法などが事例研究されていた。
《パパ…、もしかしてあたしのこと、気にしているのかしら?》
春香は書店を出た。駅前の雑踏を歩いていると、例の喫茶店の前を通りかかった。
《もしかして、またあの女と会ってたりして》
春香は店を覗(のぞ)いたが、五代らしき人陰はなかった。
「ただいま〜」
春香が一刻館に帰ると、五代は既に帰宅していた。
「何だ。春香、今日は随分遅かったな」
五代は部屋着に着替えながら言った。
「うん。ちょっとね…」
春香はことばを濁してちゃぶ台に着いた。
《ほぉ。あいつ、今日は俺(おれ)に口を利いたな》
響子はいつもと変わらぬ様子で台所仕事をしていた。そして振り返りもせず春香に言った。
「春香? 着替えたらお台所、ちょっと手伝ってちょうだい」
「は〜い」
春香は響子のことばに素直に従った。
ジャッジャッ…。
響子が炒め物をする横で、春香はサラダを作っていた。響子は問わず語りに話を始めた。
「周くん…」
「え?」
春香は思わず手を止めて響子の方を向いた。響子の発言があまりに突飛だったからだ。
「学校で天文研に入ったらしいわよ」
「へぇ〜そうなんだ」
「お母さんに訊いたらね、天体望遠鏡持って毎日のように家の物干し台で観察しているみたいなの」
「ふ〜ん…いつの間にか、そんなに星が好きになったんだ」
春香はサラダの盛り付けを再開した。
「そうねぇ。いつも9時頃から観察しているらしいわよ」
「知らなかったわ」
「春香。あなたお食事終わったら、周くんがどんな風に観察しているか、見に行ってみたら?」
春香は響子のことばに反発した。
「ちょっと、ママ。何か勘違いしてるんじゃないの?」
「え? 勘違い?」
春香は興奮気味に言った。
「そうよ。あたし、別に周くんのことでどうのこうの悩んでるんじゃないのよ」
響子は意外に思った。
「あら。そうなの? でも別にいいんじゃない? 周くんが天体観察している姿を見に行っても」
「あたし、そんなんじゃないから!」
春香は出来上がったサラダを持ってちゃぶ台に向かった。響子は五代に目配せして小首を傾(かし)げた。五代は苦笑していた。
「ご馳走(ちそう)さまでした」
「ご馳走(ちそう)さん」
食後、響子と春香は洗い物を始めた。五代と冬樹はふたりでTVを観ていた。五代は冬樹に言った。
「冬樹。お前、学校楽しいか?」
「う〜んとね…」
冬樹は少し考える素振りをしてから、急にはにかみだした。
「ん? 冬樹、どうした?」
「ううん。何でもない」
五代は意地悪く冬樹を質(ただ)した。
「”何でもない”はないだろう? もしかしてお前、好きな女の子でもできたんじゃないか?」
「え!?」
冬樹は驚きを隠せなかった。
「パパ、どうしてわかったの?」
五代は余裕の表情で冬樹に諭(さと)した。
「どうしても何も、お前の顔を見てればそんなことはすぐ判るよ」
「そうかな…」
「それで? どんな子だ?」
「うんとね…」
冬樹はもじもじしながら五代に耳打ちをした。
「ふんふん…。優ちゃんっていうのか? その子」
「しーっ!」
冬樹は五代の口を塞(ふさ)ぐように押し留めた。五代は笑いながら謝った。
「あ、ゴメンゴメン。もう言わないから」
「ゼッタイだよ!」
「うん。言わない」
春香は響子と台所仕事をしながら、冬樹と五代の会話に聞き耳を立てていた。五代は冬樹を揶揄(からか)いながら、春香の様子に気づいていた。
「いいよな〜。冬樹も意外と色男だったんだ」
「え? ”色男”ってなに?」
「ん? まぁ、色男ってのはだな、何にしても頼り甲斐(がい)のある男ってことだ」
「”タヨリガイ”?」
「そうだ。頼り甲斐のある男っていうのはな、女の子が困ったときは、いろいろ相談に乗ったり助けたりするんだぞ」
五代は春香の反応を窺(うかが)った。春香は素知らぬ顔で皿を拭(ふ)いていた。冬樹が訊(たず)ねた。
「”ソウダン”ってどんな?」
「お前はまだそんなこと分からなくてもいいよ。とにかく優ちゃんと仲良くすることだな」
「そりゃぁ、モチロンだよ」
「そうだよな。そりゃ”勿論”だよな」
そう言うと、五代は大いに笑った。
八 好い湯だな〜♪
次の日の晩、春香は食事を終えて部屋に籠(こ)もっていた。籠(こ)もっていたからといって、別に勉強をするわけでもなく、ただ窓の外をぼんやりと眺めているだけだった。5号室の窓からは、坂の途中の辻(つじ)を曲がった所にある周くんの家が見下ろせた。時計は20:50を指していた。
「もうすぐ、9時か…」
春香は文机(ふづくえ)に突っ伏した。
《周くん、そろそろ天体観察するんだよね…》
そんなことを考えている中に、時間はだらだらと過ぎていった。
管理人室では、響子が考え事をしていた。きのう五代とふたりであんな強引に誘導したのに、春香は、昨日はおろか今日になっても、周くんに会いに行く気配がなかった。
《どうも変だわ…》
響子は春香と直接話し合おうと思った。
コンコンコン…。
響子は5号室のドアをノックした。
「は〜い」
春香の声が近づいてきた。
「春香? ちょっといいかしら?」
「どうぞ」
春香は響子を文机(ふづくえ)に招いて座蒲団(ざぶとん)を出した。
「春香…」
「なに?」
「あなた、周くんの所には行かないのかしら?」
「え? 周くん? 別に…」
春香は何の屈託もなく答えた。予想外の反応に、響子は少なからず驚いた。
「”え?”って、あなた。周くんの所へは行かないの?」
春香は響子のことばに些(いささ)か要領を得ないようだった。
「あたしが行ったからって、周くんに何かあるの?」
「いえ。別に何かあるわけじゃないんだけど…」
ふたりの間に沈黙が流れた。
「響子〜」
階下(した)から五代の声が聞こえてきた。春香が気がついた。
「ママ。パパが呼んでるみたい」
「あら。そう?」
響子が席を立とうとすると、五代の声が続いた。
「そろそろ銭湯(ふろ)に行かないか? 冬樹の仕度(したく)もできてるぞ〜」
「はーい! いま行きます」
響子は春香を誘った。
「あなたも一緒に行きましょ?」
「え? うん。いいけど…」
「そうと決まったら、早く早く」
響子に急(せ)かされて、春香は銭湯に行く準備を始めた。
「じゃぁ、一の瀬さん。留守番、宜(よろ)しくお願いします」
「あぁ。一刻館(こっち)のことは気にせず、ゆっくり行っといで」
「いつも済みません」
「行ってきます! おばさん」
五代一家は、四人並んでねざめ湯に向かった。響子は春香の様子を視(み)ていた。五代と冬樹はじゃれていたが、春香が五代に絡むことはなかった。どこか春香は五代に対して余所(よそ)余所しいような気がした。
「じゃぁ、ここに10時集合な」
ねざめ湯の下足場で五代は響子と春香に確認した。
「はい」
五代はそっと響子に目配せした。
「宜(よろ)しくな」
「はい」
響子は得心したように胸を張った。
かぽ〜ん…。
21時を過ぎていたので、銭湯の客は疎(まば)らだった。
ばしゃばしゃ…。
響子と春香は片膝(かたひざ)を突いて湯を浴びた。
「春香。ママがお背中流してあげましょうか?」
「え? いいよいいよ。そんな悪いわ」
「いいからいいから」
恐縮する春香の背中を、響子は優しく流していた。
「こうしていると、あなたが小さかった頃のことを思い出すわね」
「小さい頃のことって?」
「あなたがまだ小学生の低学年のときだったかしら? ママが一緒にお風呂に入ろうって言ったのに、あなたはパパと一緒に入りたがってね」
「あら。そんなこともあったかしら?」
「あったわよ」
「そうだったかな」
「それでね、無理やり女湯に連れてきたら、あなたがもうわんわん泣いちゃって…」
「え〜、全然憶えてないわ」
春香は少し頬(ほお)を赧(あか)らめた。響子は春香の背中に付いた石鹸(せっけん)を流しながら言った。
「そのとき、こんな風に背中を流してあなたのご機嫌を取ったのよ」
「へぇ〜。あたしってば、結構困ったちゃんだったのね」
「そうねぇ」
響子は高い天井(てんじょう)を見上げるように目を細めた。
ざっぱ〜ん…。
「いやぁ。極楽(ごくらく)極楽…」
「ゴクラク、ゴクラク!」
男湯では、五代と冬樹が湯船に浸かっているようだった。五代たちのご機嫌な鼻歌を聞いて、響子は思わず笑った。
「さぁ。あたしたちも入りましょうか」
「ええ」
響子と春香は並んで湯船に浸かった。
「あ〜。気持ちいい…」
春香は顎(あご)が浸かるまで体を沈めた。
「ホントね」
春香が天井を見上げると、湯気がいっぱいに充満していた。
「よっこいしょ」
響子と春香の傍(そば)にお年寄りが入ってきた。ふたりはお年寄りのために少し場所を空(あ)けた。春香は呟(つぶや)いた。
「あ〜ぁ。何だかいろいろ悩んでることが馬鹿らしくなってきちゃった」
「…春香は、何を悩んでいたのかしら?」
「あのね…」
春香は男湯の方を一瞥(いちべつ)してから響子に囁(ささや)いた。
「パパのことよ」
「”パパのこと”って、そういえばあのとき、あなた何か言いかけたわよね」
「うん」
「悩んでることって…」
「そう。パパのこと」
「パパがどうかしたの?」
「実はね、あたし偶然見ちゃったの。パパが知らない女の人と楽しそうにお茶をしているとこ」
「知らない女の人って…」
「あれは保母さんや園児のお母さんって感じじゃなかったわ」
春香は確信に拳(こぶし)を握って響子に訴えた。響子は落ち着きを払って言った。
「それって、もしかしたらこずえさんのことじゃないの?」
「え…」
春香は刹那(せつな)に挙措(きょそ)を失った。
「”こずえさん”って?」
「やっぱりね…」
響子は優しく呟(つぶ)いた。春香は響子に詰め寄った。
「ママ、知ってたの? っていうか、こずえさんって誰?」
「こずえさんはね、パパの大学時代のお友達よ」
「お友達…」
「そう」
「っていうことは、あれは浮気じゃなかったんだ」
「浮気ですって?」
響子のことばに、春香は愧(は)ずかしそうに俯(うつむ)いた。
「だって…そう思っちゃったんだもん」
「パパは大丈夫よ」
「でも、なんでママは、パパがこずえさんと会っていたことを知ってたの?」
「あぁ。それは、こずえさんから一刻館(うち)に電話があったから」
「電話が…」
「そう。こずえさんはね、ご主人様のお仕事の関係であちこちにいらしたんだけど、最近東京に戻ってきたのよ。それでね、東京で偶然パパを見かけて、懐かしくて電話してきたの」
「なんだ。そうだったんだ…」
春香の顔に笑顔が戻ってきた。
「今ではね、こずえさんもふたりの男の子のお母さんなのよ。偶(たま)には息抜きもしたくなるでしょうね」
「へぇ…」
春香は響子の話を聞きながら、男湯の方を晴れがましい顔で見ていた。
「よし! 冬樹、もう上がるぞ」
五代の声が聞こえてきた。春香は響子を急(せ)かすように言った。
「ママ。あたしたちも早く上がろうよ」
「はいはい」
春香は意地悪く哂(わら)った。
「”はい”は一回よね? ママ」
「あらあら。これは春香に一本取られたわ」
「うふふ…」
響子と春香が下足場に出ると、冬樹は五代に肩車をしてもらっていた。春香は五代に甘えるような声で言った。
「パパ〜。遅くなっちゃってゴメンね」
「おや。もっとゆっくりしてくれば好(よ)かったのに」
五代は春香の表情の変化を感じていた。響子は五代に目配せをした。五代は響子に近寄って囁(ささ)いた。
「ママ。有難う」
その様子を見た春香は、申し訳なさそうに五代に近づいた。
「あのね…パパ」
五代は冬樹を肩から降ろした。
「春香。明日は周くんと天体観察でもしたらどうだ?」
「パパ…」
春香は五代に抱きついた。
「おいおい。どうしたんだ?」
「ありがとう…」
春香は五代の胸に顔を埋めた。
「ははは…。お前の顔を見たら、周くんもきっと喜ぶぞ」
「うん☆」
春香は最高の笑顔を見せた。四人は仲良く一刻館に帰った。
「ただいま〜!」
1号室から一の瀬が四人を出迎えた。
「おや。あんたたち早かったね〜」
「そうでもないわよ、おばさん」
「一の瀬さん、有難うございました」
一の瀬は春香の表情の変化に気づいた。
「春香ちゃん、何か良い事でもあったのかい?」
「おばさん、分かる? とっても良い事があったのよ☆」
「へぇ〜。そりゃ良かったね」
一の瀬は響子に目配せした。響子は、軽く頭を下げた。
「それじゃ、冬樹はもう寝なさい。春香、冬樹を頼むぞ」
「は〜い」
春香と冬樹は5号室へ向かった。春香はふたり分の蒲団(ふとん)を敷き、冬樹を寝かしつけた。
「じゃ、電器消すわよ」
「うん」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
春香は静かにドアを閉めて管理人室に向かった。5号室の文机(ふづくえ)の上には、開封されてないレターセットが置かれていた。(完)