それぞれの秋
作 高良福三
序 敬老の日
土曜日の朝は静かだった。前日からの雨で路面は黒く濡(ぬ)れ、家々はひっそりと静まり返っていた。道行く人の姿も疎(まば)らで、たまに傘を差しながら犬を散歩させているひとが通るくらいだ。音無家の庭では、酔芙蓉(すいふよう)の大きな花が薄い桃色に色づき始め、黒く濡(ぬ)れた板塀(べい)と好対照をなして、その色を鮮やかにしていた。
音無老人は二階の自室で着がえをしていた。階下(した)から郁子の母の声がした。
「お父さん、用意は出来たの?」
「うん。まぁ、こんなもんだろう」
音無老人は最後に紋付を羽織った。昨日から陰干ししていた室内は、禿(ち)びた樟脳(しょうのう)の匂いが漂っていた。
「郁子、遅いわねぇ」
郁子の母はそう言って、音無老人の部屋に上がって来た。
「まぁ、郁子だっていろいろあるんだろ」
「でも…」
「いいよいいよ。わしはここでゆっくり休んどるから」
「そういうわけにもいかないわよ。時間だってあるんだし…」
郁子の母は、困ったように少し考えてから、電話をするため部屋を出かけて振り向いた。
「じゃぁ、お父さん。今からタクシー呼びますから。いいですね?」
「ん? あぁ」
音無老人は今年で88歳を迎える。敬老の日の今日、中野区長から米寿のお祝いを受けるのだ。音無家から区役所までは目と鼻の先だが、音無老人は近ごろ足腰がめっきり弱くなり、ひとり徒歩で行くことは困難になっていた。かといって、雨なので車椅子(いす)で行くのも面倒だ。そこでけさ早く電話して、郁子に車で送ってもらうことになっていた。
郁子の母がタクシーを呼ぼうと、電話の受話器を取り上げたとき、玄関の戸が開いた。
ガラガラ…。
「おじいちゃん、来たわよ」
郁子がやって来た。それを見た郁子の母は小言を言った。
「あら、郁子。遅かったじゃないの。あなたが来ないから、今タクシー呼ぼうと思ってたとこよ」
「ぎりぎりセーフね」
郁子の母は諦(あきら)めたように溜(ため)息を吐(つ)くと、階段を昇りかけて振り向いた。
「じゃぁ、お父さん連れてくるから、車はそのままにしといてちょうだい」
「は〜い」
郁子は家に上がらずに車に戻り、車のエンジンをかけなおした。郁子の母は二階へ上がり、音無老人の介添えをしながら、階段を降りて来た。
「ほら。お父さん、そこ。手摺(す)りにちゃんと掴(つか)まって下さい」
「うん」
音無家の階段は、音無老人のために滑(すべ)り止めと手摺(す)りが設けられていた。
「よいしょ、よいしょ…」
郁子の母と音無老人は、階段を一段いちだん確かめるように降りて来た。
「はい、お父さん。草履(ぞうり)ね」
郁子の母は、音無老人の手を取って玄関を出た。郁子は運転席から助手席の窓を開けた。
「おじいちゃん、乗って乗って」
音無老人は郁子の労をねぎらった。
「やあ、郁子。よく来てくれたな。有難う」
「ほら、お父さん」
音無老人は、郁子の母に支えられて車に乗り込んだ。
「じゃ、郁子。お父さんお願いね」
「任せて」
音無老人を乗せた車は、鈍(にび)色の雨の中を霞(かす)むように消えて行った。
一 イモと電話
一刻館では、響子が恨めしそうに空を見上げていた。
「あぁ。毎日まいにち雨。ホントやんなっちゃうわ」
響子は溜(た)まった洗濯物を5号室で干していた。5号室は五代家の箪笥(たんす)部屋になっており、雨の日の部屋干しも専らこの部屋で行われていた。
「雨のときは嫌な臭いがするのよね」
響子はパンパンと洗濯物を伸ばしながら呟(つぶや)いた。
バタン…。
「ただいま〜」
階下(した)から元気な声が聞こえた。冬樹だ。冬樹は春から時計坂小学校に通いはじめていた。学校が面白くて仕方がないらしく、響子と話をしていても、いつも学校の話しかしない。響子は、慌てて最後の洗濯物を干すと、冬樹を出迎えに階下(した)に降りた。
「お帰りなさい」
「ただいま! ママ、おやつ!」
「はいはい。じゃぁ、手を洗ってらっしゃい」
響子は空になった洗濯籠(せんたくかご)を持って、先に管理人室に入った。今日のおやつは、響子特製の大学芋(いも)だった。乱切りにした一口大の薩摩芋(さつまいも)は、絶妙な醤油(しょう)加減で飴(あめ)色に輝き、塗(まぶ)された黒胡麻(ごま)が食欲をそそった。
「わ〜♪」
冬樹が手づかみで食べようとしたので、響子は慌てて止めに入った。
「待って! お箸(はし)使わないと、手がベタベタになっちゃうわよ」
「あ、そうか」
冬樹は照れ隠しに笑った。そして冬樹がまさに食べようとしたとき、響子は何を思ったのか、いきなり大学芋(いも)の入った皿を取り上げた。冬樹は突然オアズケを食らって腹を立てた。
「ママ〜!」
「ちょっと思い出したのよ」
そう言うと響子は、大学芋(いも)の入った皿から、適当な量を別の小皿に盛りなおして冬樹に渡した。
「はい。これ、冬樹の分」
「え〜! すくないよ」
響子は清(す)ました顔で言った。
「それでいいんです」
「なんで? きょうはおねえちゃん いないのにさ!」
冬樹の言うように、春香は修学旅行で暫(しばら)く帰って来ないのだ。春香がいない分、たくさん食べられると思っていた冬樹は、響子の仕打ちに不平をこぼした。
「駄目(だめ)よ。いっぱい食べたら、あなたお夕飯食べられなくなるでしょ?」
「たべれるよぉ」
「食べられません」
「大ジョウブだよ」
「駄目(だめ)です」
そう言って響子は、大学芋(いも)の入った皿を冷蔵庫にしまってしまった。
「ママのけちー!」
「何とでも言いなさい」
冬樹は仕方なく我慢することにした。
冬樹はふと窓のサッシを見上げた。雨は止む素振りも見せず、辺りは気だるい靄(もや)が垂れ込め、時折ひゅーひゅーと虎落(もがり)笛のような音が聞こえた。
「きょうね、ドッジボールできなかったんだよ」
大学芋(いも)を頬(ほお)ばりながら、冬樹はさっそく学校の話を始めた。
「そうね。雨が降ってるからね」
「でもね、カズくんがゲームボーイアドバンスもってきてさ。すごいんだぜ、マリオがさ、車にのってキキーって」
冬樹はマリオカートのことを話しているらしい。盛んにハンドルを切る真似をしては、爛々(らんらん)と輝かせた目で身を捩(よじ)っていた。
「そう。それはよかったわね」
「こんど やらせてもらうやくそくしたんだ」
冬樹は楽しそうだった。しかし冬樹は、響子にゲームボーイを買ってくれとは、一言も言わなかった。「ウチは貧乏なんだからね」という、五代と響子の日ごろの教育の成果かもしれない。
「あぁ、いいな。マリオカート、かっこいいな」
冬樹は大学芋(いも)を平らげると、ごろんと仰向けになって遠い目をした。
「冬樹。食べてからすぐ横になると、牛になりますよ」
「ならないよ〜」
「なるんです」
「ならない!」
響子は小皿を片づけて、流し台で洗いはじめた。
「とにかくお行儀悪いことは止めなさいよ」
「もう!」
「ほら、牛になった」
冬樹は、響子から些細(ささい)なことを注意されて、やりきれない気持ちだった。しかし冬樹は飄(ひょう)然としているので、響子から見ると、冬樹がそんな気持ちだというのは、全然分からなかった。響子は口煩(うるさ)く冬樹に尋ねた。
「そんなことより、あなた今日は宿題ないの?」
「え?」
「宿題よ」
「うん ないよ」
「あら、そう」
冬樹があっさりと否定したので、響子はあえて穿鑿(せんさく)しなかった。響子は小皿を洗い終わると、掃除道具を持って冬樹の方に振り向いた。
「じゃぁママ、お掃除してくるから、静かに遊んでなさいね」
「は〜い」
そう言って、響子は館内の清掃に出かけた。冬樹は、なに食わぬ顔をして響子を見送ったが、響子が廊下の角を曲がるのを確認すると、悠(ゆう)然と黒電話に向かった。
ジーコロロロ…。
「えーっと、76の…」
冬樹はカズくんの家に電話しているようだ。
プルルル…。
「はい、奥村でございます」
「もしもし。ぼく五代ふゆきですけど、カズくんいますか?」
「あら、五代くん?こんにちは」
「こんにちは おばさん」
「和宏ね? ちょっと待ってくれる?」
冬樹が待っていると、電話の向こうで母親がカズくんを呼ぶ声が聞こえた。
「和宏〜。五代くんから電話よ〜」
「は〜い」
カズくんを待っている間、冬樹は、ときどき管理人室のドアを開けては、響子がいないことを確認していた。そのうちにカズくんが電話に出てきた。
「五ダイくん、なに?」
「あ、カズくん? これからウチにあそびにこないか?」
「え〜 いまから? 雨ふってるよ」
「いいじゃん。ウチにうまいものがあるんだよ」
「ホント? じゃぁ いく」
「じゃぁ まってるぜ」
「うん」
そこまで言ってから、冬樹は失念していたかのように付けたした。
「あ それからさ しゅくだいやった?」
「うん やったけど」
「じゃぁ ついでにそれももってこいよ」
「え? べつにいいけど…」
「じゃぁな。きっとだよ」
「うん。じゃぁね」
チン…。
電話が終わると、冬樹は何事もなかったようにTVを観はじめた。
二 冬樹の悪知恵
雨は殆(ほとん)ど霽(や)んでいた。響子はまだ館内清掃から戻って来ていなかった。冬樹は食器棚(だな)の上の赤いデジタル時計を見た。
《まだかな?》
冬樹はカズくんを待ち侘(わ)びていた。しかしカズくんが来て最初の何分かは、響子にカズくんが来たことを知られたくなかった。鈍(にび)色の空はだんだん明るくなってきていた。冬樹は手持ち無沙汰(ぶさた)だった。
バタン…。
「五〜だいく〜ん♪」
カズくんがやって来た。管理人室でTVを観ていた冬樹は、響子に気づかれないように、静かに玄関に向かった。
「よぉ おそかったな。まぁ 上がれよ」
「うん」
冬樹は、響子が降りて来ないかと、階段の方を一瞥(いちべつ)した。その期待を裏切るかのように、響子が二階から降りて来た。
「あら、カズくんじゃない。いらっしゃい」
「おばさん こんにちは」
「こんにちは」
響子は、カズくんに微笑(ほほえ)むと、冬樹を突ついて耳打ちした。
「冬樹。カズくんが来るなら来るって、言ってくれなくちゃ駄目(だめ)じゃないの」
「なんで?」
「こっちだって、いろいろ用意ってものがあるんだから」
「あぁ。いいのいいの、そんなもん」
「駄目(だめ)よ」
冬樹は強がりを言ってみせたが、内心は非常に焦(あせ)っていた。何とか響子とカズくんを引き離す手段はないものかと考えていた。そうでないと困るのだ。
「ママはいいから。ぼくたち てきとうにやってるからさ」
「んもう。そんなわけにはいかないじゃない」
来てしまったものは仕方がないので、響子は、取りあえずふたりを玄関に待たせて、管理人室の中を簡単に整頓(せいとん)した。
「どうぞ。散らかってますけど…」
「おじゃまします」
カズくんは、冬樹と一緒にちゃぶ台に着いた。冬樹は気が気ではなかった。何とか響子を排除する方法はないかと考えていた。
「さぁ、どうぞ」
響子は、先ほどの大学芋(いも)をカズくんに振舞った。
「いただきま〜す♪」
カズくんは、響子の大学芋(いも)がいたく気に入ったようだった。
「うまいなぁ」
「だろ?」
冬樹は追従(ついしょう)した。カズくんは、大学芋(いも)をひと口、またひと口と頬(ほお)ばった。その姿を見ていて、冬樹は自分も大学芋(いも)がまた食べたくなった。
「ママ、ぼくのぶんは?」
「あなたはさっき食べたでしょ?」
「え〜! ぼくもたべたい」
「あなたの分はありません」
「ほしい!」
「駄目(だめ)です」
「ちぇっ」
それを聞いたカズくんは優しかった。
「五ダイくん ぼくのすこしあげるよ」
「ホント?」
冬樹は喜んで相伴(しょうばん)に与(あずか)ろうとした。
「カズくん、いいのよ。冬樹はさっきいっぱい食べたんだから」
そう言って響子は、冬樹を冷たく突き放した。カズくんはふたりの対処に困って、話題を替えようとした。
「あ…と、おばさん。このおイモ とってもおいしいです」
「そう? それ大学芋(だいがくいも)っていうのよ。よかったわね」
冬樹は、大学芋(いも)が貰(もら)えないことが分かると、響子の存在が急に疎ましく思えてきた。
「ママ。そうじはおわったの?」
響子は、ふたりにほうじ茶を淹(い)れていたが、冬樹に言われて俄(にわ)かに慌てだした。
「あ、そうそう。まだお掃除が途中だったわ。カズくん、ゆっくりしていってね」
響子はにっこり微笑(ほほえ)むと、また館内清掃に戻って行った。響子が去った後、大学芋(いも)に舌鼓(つづみ)を打っているカズくんをよそに、冬樹は、管理人室のドアをそっと開けて、響子が廊下の角を曲がるのを窺(うかが)った。
「どうやら いったみたいだな」
「え?」
カズくんは、大学芋(いも)を頬(ほお)ばりながら、冬樹のことを怪訝(けげん)そうに見た。
「なにやってんの?」
冬樹は、詰(つ)まらないものを見たかのように、廊下から目を逸(そら)した。
「あ いや なんでもないよ なんでもない」
「ふうん」
冬樹はカズくんの鞄(かばん)に目を遣った。
「そんなことよりさ しゅくだい もってきたか?」
「うん もってきたよ」
カズくんは鞄(かばん)から算数ドリルを出した。
「サンキュ♪」
冬樹は、カズくんから算数ドリルを受取ると、もう一度廊下の様子を窺(うかが)った。カズくんは怪しんで再び尋ねた。
「ねぇ さっきから なにやってんの?」
「ううん。なんでもない」
冬樹は、自分のランドセルから算数ドリルを出し、その場でカズくんの答えを一気に丸写しした。
「これでよし、と」
冬樹は自分のドリルをしまい、何事もなかったかのようにほうじ茶を飲んだ。
「さぁ なにしてあそぼうか? TVでもみる?」
冬樹はTVのスイッチを入れ、ガチャガチャとチャンネルを回して見せた。するとカズくんは、宿題を入れてきた鞄(かばん)の中から、ごそごそとある物を取り出した。
「じゃっじゃじゃ〜ん♪」
冬樹の顔が明るくなった。
「ゲームボーイアドバンスだー♪」
カズくんは、誇らしげにゲームボーイを冬樹の目の前に翳(かざ)した。
「すげぇ」
冬樹は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。
「カズくん マリオやろうよ。マリオ」
「あぁ、マリオカート?」
「そう! マリオカート」
「いいよ」
「やりー!」
ふたりはマリオカートに興じた。空は晴れ、すっかり日が傾いてきた。響子は館内清掃を済ませ、洗濯物の乾き具合を確認してから、管理人室に戻って来た。管理人室では、冬樹とカズくんがまだマリオカートに熱中していた。
「な〜に? あなたたち、ゲームなんてやってるの?」
冬樹は得意げにゲームボーイを見せた。
「ほら ママ。マリオカートだよ。さっきいってた」
響子はゲームに全く興味がなかった。
「はいはい。もうそろそろ日が暮れるから、カズくんはお家に帰りなさい」
「え〜」
カズくんは響子の提案に不満の声を漏(も)らした。
「もうすこしやろうよ。このコース まだクリアできてないんだからさ」
冬樹もカズくんに加勢した。
「駄目(だめ)です。お家のひとが心配するわよ。ママ、これからお買い物に行くから、カズくんも一緒に帰りましょう、ね?」
響子にそう言われては、冬樹とカズくんもゲームを諦(あきら)めざるを得なかった。
三 郁子の昔話
敬老の日の式典は、さほど時間もかからず終わった。初めに中野区長の挨拶(あいさつ)があり、来賓(らいひん)の祝辞と記念品の贈呈があったくらいだった。郁子も音無老人に付添って式典に参列した。帰りの車の中で郁子が言った。
「おじいちゃん、おめでとう。米寿なんてすごいわよね」
「ん? まぁな」
音無老人は物思いに耽(ふけ)るように、窓の外を見ていた。
大正3年、音無老人は音無家の長男として生まれた。翌年の大正4年、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)に東久留米駅ができたのを契機に、音無老人の父は、久留米村の広大な土地を買収した。急成長が見込まれる北多摩地方の開発と投機が目的だった。その一環として建設されたのが一刻館だ。一刻館の上棟式のときには、当時少年だった音無老人の写真が残っている。音無老人は、府立十中、官立一高を経て、東京帝国大学に進学した。卒業後は、学問の道を志そうとしたが、4年後の大東亜戦争の勃発とともに徴兵された。郁子の母は音無老人が従軍中に生まれた。そして待望の長男、惣一郎は、戦後5年経った昭和25年に生まれた。戦争のため学究の道を絶たれた音無老人は、それから教育の分野を開拓し、高校の教諭をして生計を立てた。その後、都の教育委員会に招聘(しょうへい)され、教育長にまで上り詰めた後、現在は桜ヶ丘高校の理事をしている。足腰は弱ったが、この歳になってもまだ現役だ。
「記念品、何かしらね?」
「さぁな」
音無老人は記念品の包みを軽く振ってみた。
「何だか、硬い物じゃなさそうだよ」
運転中の郁子は、後部座席を振り返らずに言った。
「まぁ、しょせん区がくれる物だもん。そんな大した物じゃないわよ、きっと」
音無老人は、後部座席から乗りだして記念品を助手席の上に置いた。
「これ、郁子にやろう」
郁子は驚いた。
「え? いいわよいいわよ。別にそんな意味で言ったんじゃないんだから」
「いや。やるよ」
「駄目(だめ)よ。私が貰(もら)うわけにはいかないわ」
「いいよいいよ。この歳になるとね、物欲ってものがなくなるんだ」
「ホントにいいのよ」
「まぁ、とにかくそこに置いておくよ」
ふたりを乗せた車は、ほどなく音無家に到着した。
「お帰りなさい」
郁子の母がふたりを出迎えた。
「稔さん、もう来てるわよ」
郁子が式典に参列している間に、稔は娘の万梨子を連れて音無家に来ていた。きょう音無家では、郁子一家と一緒に米寿の祝賀パーティをするのだ。
「万梨子、いい子にしてた?」
郁子は万梨子の前で蹲踞(しゃが)むと、両手で万梨子の肩を揺らしながら尋ねた。
「まりこ いいこだよ」
万梨子は今年で4歳になる。女の子ではあるが、元気な盛りだった。
「さっきから縁側を走り回って大変だったんだ」
稔は久し振りに万梨子の面倒を看て疲れたようだった。
「あなたは週末だけだからいいけど、私なんて毎日なのよ」
郁子は稔に口を尖(とが)らせた。
「まぁまぁ、いいじゃないの。稔さんだってお仕事でお忙しいんだから」
郁子の母は茶と茶菓子を持って現れた。
「万梨子ちゃん、どうぞ」
郁子の母は鳩(はと)サブレを万梨子に手渡した。
「おばあちゃん ありがとう」
「はい、どういたしまして」
万梨子は鳩(はと)サブレの包装を剥(は)がして、ばりばりと食べだした。
「万梨子。こういうときは、こうやってちゃんと割ってから食べるのよ」
郁子は鳩(はと)サブレを包装紙の中に戻すと、一口大に割って万梨子に食べさせた。その様子を見ていた音無老人は、懐かしそうににっこりと何度も頷(うなず)いた。
「いやぁ、こうして見てると、郁子が子供のときを思い出すな」
「え?」
稔が乗りだした。
「郁子って、昔はこんなだったんですか?」
「あぁ。こいつはよく食ったよ」
郁子は頬(ほお)を赤らめた。
「止めてよ、おじいちゃん」
「ん? だって本当なんだからしょうがないだろ?」
郁子は、救援を求めて母の方を訴えるように見た。
「ホントねぇ。懐かしいわ」
「んもう! ママまでそんなこと言って」
「そうそう。こんな話もありましたっけ」
郁子の母は昔話を始めた。
「郁子がまだ幼稚園のころだったかしら?みんなで釣りに行ったことがあってね」
郁子は母親の話を遮ろうとした。
「ママ、もういいでしょ!」
「あら、いいじゃないの」
音無老人も懐かしそうに遠い目をした。
「あぁ。そういえば、そんなこともあったあった」
郁子の母は続けた。
「狭い防波堤の上で、郁子とお父さんがふたりでお昼を食べたのよ。」
「うん。あそこは確かに狭くて、弁当を置く場所が殆(ほとん)どなくてね」
「そのときはお稲荷さんだったんですけど、ちょうどお茶とお稲荷さんが一直線に並んでて…」
「へぇ、そうなんですか」
稔は、鳩(はと)サブレに夢中な万梨子を膝(ひざ)の上に座らせながら、相づちを打った。
「郁子はね、ちゃんと自分のお稲荷さんを食べてたんですよ。でもそのときお父さんがお茶を飲もうとして手を伸ばしたら…ホント面白いんですよ、郁子はいま食べてるお稲荷さんをいきなり口に押し込んでね…」
音無老人は高らかに笑った。
「そうそう。あのときわしは、お茶を飲もうとして手を伸ばしただけなんだよ。お稲荷さんを取るつもりはなかったんだ。そしたら、郁子は何を勘違いしたんだか、お茶の隣にあるお稲荷さんをいきなりさっと鷲(わし)掴(づか)みにしてな。そのときの顔といったら、全く傑作だったな。いやぁ、笑った笑った」
「かっかっか…」
郁子は、稔と目を合わせることもできず、母親に向かって小さな声で叫んだ。
「止めてよ、ママ! 稔さんの前でそんな昔の話」
「ははは…」
稔は大きな声で笑った。郁子は穴があったら入りたい思いだった。
四 富山にて
春香は修学旅行の一環で禅寺に来ていた。最近は京都や奈良に行くよりも、体験学習として地方に行くことが流行になっている。春香の学校でも、旅行先の富山でいくつかの体験コースが組まれており、春香は一日禅寺体験コースを選択した。春香たちを乗せた観光バスは、深い緑が続く山間(やまあい)の、緩やかな田舎道を走っていた。周囲の家々は、赤や青に塗られたトタン屋根ばかりで、瓦(かわら)屋根はちらほらと見かけるだけだった。ときおり茅葺(かやぶ)き屋根の家があって、車窓の春香たちを色めき立たせていた。木造の家屋はみな古びれていて、都会育ちの春香たちにも、どこか懐かしさを感じさせるものだった。
「あ、ポストだ!」
誰かが窓の外を指さした。その先には、丸型のポストがぽつんとあった。赤いペンキが何度も塗りかえられたようで、そうとう年季が入っていた。他にポストらしきものを見かけないところから、恐らくまだ現役なのだろう。バスは更に集落の曲がりくねった道をゆっくりと登って行った。家々の裏手には棚(たな)田が垣間(かいま)見られた。稲はもうすっかり刈り取られ、きれいに束ねられてハザ掛けされていた。誰も見かけない集落の中に、生活の営みを見た気がした。
目的の禅寺は、その集落の一番上にひっそりと佇(たたず)んでいた。体験学習を受け入れる禅寺といっても、特に山門が立派だというわけではなく、また建物が素晴らしいというわけでもなかった。どこにでもある普通の寺という風で、敢えて違いは何かといえば、東京で見る寺より境内(けいだい)が少し広いということくらいだった。春香は寺というものに親近感を覚えていた。五代家では、惣一郎の墓参りに行くことが習(ならわし)のようになっていて、しかもそれが春香にとっては数少ない楽しい「お出かけ」だったからだ。春香たちはバスを降り、暫(しばら)く本堂の前で屯(たむろ)していた。すると本堂に隣接した住居と思(おぼ)しき家屋から、作務衣(さむえ)を着た住職が出てきた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
春香たちは担当の教諭から2,3の注意事項を受けて、寺側に引き渡された。春香たちは取りあえず今晩泊まる部屋に荷物を置いた。
「では境内(けいだい)をご案内しましょう」
住職はまず本堂を案内した。鈍(にぶ)く黒光りする薄暗い廊下を進むと、住職は中央の障子(しょうじ)を開けた。部屋の中は更に暗く、祭壇の奥は、漆黒(しっこく)の闇がどこまでも続いているようだった。春香たちは恐る恐る本堂に足を踏み入れた。すると祭壇の奥の闇からぼんやりと本尊が目の前にその姿を現した。
「こちらのご本尊はお釈迦(しゃか)さまです」
本尊は優しい表情をしていたが、それとは裏腹に、古びた蓮台や祭壇は、妖しい雰囲気(ふんいき)を醸(かも)しだしていた。また周りに並んだ夥(おびただ)しい位牌の群れが、春香たちに不気味な感覚を喚び起こした。春香たちは誰ひとり声を立てなかった。住職は静かに続けた。
「毎朝のお勤めはとても重要なことですので、皆さんには明日ここを掃除してもらいますからね」
「……」
春香たちは、魂を抜かれたように誰も返事をしなかった。列の一番後ろにいた引率の教諭が春香たちに返事を促した。
「ほら、みんな返事は?」
「はい…」
春香たちが返事をすると、その声は途端に本尊の闇に吸い込まれるような気がした。その後、住職は襖(ふすま)絵や欄(らん)間の意匠を説明し、春香たちは本堂を後にした。
「ここは?」
春香は不思議な部屋を見つけた。部屋の縁(へり)が畳(たたみ)1枚の幅で一段高くなっていて、中央には鉦(かね)や太鼓(たいこ)のような物がたくさん置いてあった。
「変な部屋だね〜」
みんなが口々に囁(ささや)いていると、住職はその答えを教えてくれた。
「あぁ、ここは座禅をする部屋です。後で皆さんにも座禅を組んでもらいますよ」
「げ〜!」
「マジで〜?」
周りからは不満の声が聞こえたが、春香は黙っていた。なぜなら、春香が禅寺体験コースを選んだ目的のひとつに、座禅があったからだ。春香は、どういうわけか、座禅に興味があった。一刻館でも、たまにひとりになりたいとき、5号室に行って静かに座ることがあった。そういうときは正座が殆(ほとん)どで、座禅を組むことはなかった。ひとりでこころ安らかに座っていると、気持ちが落ち着くに連れて、その日にあったことや忘れてしまった昔のことが、風に揺れるこもれ日のように、春香の胸の中に去来した。そんな不思議な感覚を、春香は楽しんでいた。釈尊は座禅によって悟りを開いたという。春香は、座禅を組むことによって、もっと不思議な体験ができるのではないかと期待していた。
食事が済んだ。食べ終わった食器は、住職の指導によって各自が分担して洗った。
「では、皆さんお待ちかねの座禅を行います」
住職は春香たちを連れて、先ほどの部屋に向かった。
「これは…」
部屋に行ってみると、中央にあった鉦(かね)や太鼓(たいこ)のような物は、種類も数も増えていた。やはりこれらは、何か座禅に関係するアイテムのようだった。
「壁際に小さい座蒲団(ぶとん)が置いてあります。それをお尻(しり)に当てて、壁に向かって座ってください」
春香たちは、言われたとおり、三々五々と壁に向かって座った。
「座り方は結跏趺坐(けっかふざ)といいます。まず右足を左の腿(もも)に乗せます。そして左足を右の腿(もも)に乗せて…」
「いててて…」
「できな〜い」
生徒の中には、うまく座れない者が何人かいた。
「そこの君、足が逆です。禅宗では、降魔坐(ごうまざ)といって、こういう座り方をします。左足が下になるのは、吉祥坐(きっしょうざ)といって、別の座り方になります」
「済みませ〜ん。足を組めない場合は、どうするんですか?」
思いあまった生徒が手を挙げた。
「足が組めない人は、普通の胡坐(あぐら)で結構です」
「よかった〜」
「おれ、骨が折れるかと思ったよ」
そんな声を聞きながら、春香は涼しい顔をしていた。
《もうすぐ座禅が始まるんだもんね。ちゃんとしなきゃ》
「では、始めます。皆さん、こころを無にして、観自在菩薩行(かんじざいぼさつぎょう)、自分の中の菩薩(ぼさつ)を見出だしてください」
いよいよ座禅が始まった。
リーン、リーン…。
辺りは水を打ったように静かになり、今まで聞こえなかった鈴虫の声が聞こえてきた。そのまま10分が経過した。誰も音をたてる者はいなかった。
さっ、さっ…。
警策(きょうさく)を持った住職が、春香たちの後ろを静かに歩く。そのわずかな衣擦(きぬず)れの音だけが、規則的に聞こえていた。
《どうしよう。ちょっとでも動いたら、後からぶたれちゃうのかな?》
敲(たた)かれるのではないかという緊張と、座禅が齎(もたら)す未知の精神体験に対する期待が、春香の頭の中で揺れていた。
どくん、どくん…。
先ほどから心臓が脈を打つ度(たび)に、全身に血液が巡(めぐ)るような感覚がしている。何も音がしないはずなのに、耳にはツーンという音が聞こえるようだ。
《こころを無に…》
春香がそう念じていると、住職の歩く衣擦(きぬず)れの音がしなくなった。
《あれ? どうしたんだろ》
春香が訝(いぶか)しがっている矢先だった。
「摩訶般若波羅(まかはんにゃーはらー)」
いきなり住職が大声を張り上げた。
ドンッ…チン…。
住職は経を唱えながら、鉦(かね)や太鼓(たいこ)のような物をリズミカルに叩(たた)きだした。
《何が起こったの?》
突然の出来事に、春香は思わず、挙措(きょそ)を失った。他の生徒たちも、異様な雰囲気(ふんいき)に戸惑っているようだった。
ポクポクポク…、ドンッドドン…。
何が面白いのか、隣に座っていた女の子が、必死に笑いを堪(こら)えているのが感じられた。反対側の男の子も、気づかれないようにそっと腰を浮かせて座りなおしていた。
「無眼界乃至無意識界(むーげんかいないしーむーいーしきかい)…」
それでも住職は、構わず様々な楽音を立て読経を続けた。春香は悩んだ。
《これでどうやってこころを無にすればいいの?》
読経と楽音は暫く続いた。
「羯諦羯諦波羅羯諦(ぎゃーていぎゃーていはーらーぎゃーてい)」
「波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経(はらそーぎゃーていぼーじーそわかーはんにゃーしんぎょう)」
ドンッドンッ…チン…。
住職は般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱え終わると、またゆっくりと鉦(かね)や太鼓(たいこ)を規則的に敲(たた)いた。
……。
とつぜん住職の手が止まった。
リーン、リーン…。
再び周囲に静寂が戻ってきた。隣の女の子は、まだ笑いを堪(こら)えているようだった。
《……》
春香は混乱しながら、また精神を集中しはじめた。
さっさっ…。
住職の歩く衣擦(きぬず)れの音がまた背後から聞こえてきた。それは、今までの騒々しさがまるで存在しなかったような、沈着した音だった。そのまま10分が経過した。
春香の頭の中は、ぐるぐると渦(うず)を巻くようだった。初め衣擦(きぬず)れの音を聞いたときは、未知の世界に対する緊張と期待が入り混じっていた。次に諷経(ふぎん)と楽音によってこころがかき乱された。そこでは、楽音のこころ躍るような快感と、無心を坦懐しようとする理性がぶつかっていた。そして再び衣擦(きぬず)れの音を聞いて、今までの混乱が漸(ようや)く落ち着きはじめ、こころが自分の中から外へ徐々に広がって行くような気持ちになってきた。座禅を組んでから1時間。こんなに短い時間でこれだけこころが変化する様子に、春香は新鮮な驚きを覚えていた。それと同時に、こころと頭が実に自然に分離されていることに初めて気がついた。春香は、素晴らしい体験ができたと喜んでいた。
トン…。
そんなことを考えていると、春香の右肩に警策(きょうさく)が置かれた。
「首を左に傾けてください」
住職が後ろから静かに言った。春香は、言われたとおり、首を左に傾(かし)げた。
「喝(かーつ)!」
鋭い痛みが春香の右肩を襲った。
「ありがとうございました」
春香は、言われるともなしに、合掌(がっしょう)して頭を下げた。
五 新しい盆
響子は心配していた。今日は春香が修学旅行から帰って来る。予定では、昼過ぎには学校に到着し、今くらいになれば、春香はとうに帰っている筈(はず)の時間だ。しかし時間になっても春香が帰ってこなかった。
「どうしたのかしら?あの子、道草食ったりする子じゃないのに…」
パタン…。
玄関の方から扉が閉まる音がした。
《春香かしら!》
響子は急いで玄関に向かった。しかし玄関には誰もいない。風のいたずらだったようだ。
「なんだ、風か…」
すると、1号室のドアが開いた。
「ん? 管理人さん、どったの?」
「あ、一の瀬さん」
「あんた、誰か待ってんのかい?」
「いえ、待つとかそういうんじゃないんですけど…」
「けど?」
「いえ、その…春香がまだ帰ってこないので…」
「そういえば、春香ちゃん、最近見ないね」
「いま修学旅行に行ってるんです。きょう帰って来る予定なんですけど、まだ帰って来ないんです」
「そりゃ心配だねぇ。まぁ、あの子のことだから、どっかに引っ掛かってるとも思えないしね」
「えぇ…」
ふたりが玄関で立ち話をしていると、外の塀(へい)を曲がって走ってくる影が見えた。
「ただいまー!」
冬樹だった。響子は笑顔を見せた。
「おかえりなさい」
「ただいま ママ おばさん」
冬樹は元気に挨拶(あいさつ)した。
「あぁ、おかえり」
一の瀬は気楽に返事をしていた。響子は思い切って冬樹に尋ねた。
「冬樹、学校に大型バスが停まってなかった?」
「大がたバス?」
「そう。春香が乗ってたバス」
冬樹は、響子の真意が斟(く)めなくて少し考えたが、自信なさそうに答えた。
「バス とまってたよ」
響子は身を乗り出した。
「で、春香、見かけなかった?」
「おねえちゃん? …ううん」
冬樹は首を横に振った。
「っていうか バス だれものってなかった」
どうやら冬樹が見たときには、春香たちは解散した後だったようだ。一の瀬が首を傾(かし)げた。
「おかしいねぇ。そんなら春香ちゃん、もう帰って来てもよさそうなもんじゃないか」
「そうですわねぇ」
響子は心配の色を隠せなかった。
「おねえちゃん どうかしたの?」
冬樹は率直に響子に尋ねた。響子は冬樹を気遣って微笑(ほほえ)んで見せた。
「ううん、何でもないのよ。それより冬樹、おやつにする?」
「うん!」
「じゃぁ、ランドセル置いて、手を洗いなさい」
「は〜い♪」
冬樹は喜んで管理人室に走って行った。
「やれやれ」
一の瀬が頭(かぶり)を振った。
「さてと…」
響子はおやつの用意をするために管理人室へ向かった。
秋の日は早く暮れた。庭の秋桜(コスモス)はさわさわと揺れ、豆腐を鬻(ひさ)ぐラッパの音が風に乗って聞こえてきた。響子は部屋のサッシを閉めようとして外を眺めた。日が暮れると、外は驚くほど涼しかった。
パーン…。
眼下に広がる紅の塵(ちり)を縫(ぬ)って、西武線が一直線に走り去るのが見えた。響子はカーテンを握ったまま、暫(しばら)く外の様子を見続けた。
「ママ?」
冬樹は、響子の様子がおかしいことに気づいて、声をかけた。
「え?」
「ママ、どうしたの?」
「ううん。何でもないのよ」
響子は慌ててサッシとカーテンを閉めた。
「それにしても おねえちゃん おそいね」
「そうね。あの子、どこ行っちゃったのかしら。後できつく叱(しか)らなきゃ」
「そうだよ。ママもおねえちゃん しかったほうがいいよ。ぼくばっかじゃなくて」
「あら」
響子は好戦的に冬樹を見据えた。
「それは、あなたが悪い子だからじゃないの?」
冬樹はしれっとして言った。
「ぼく わるい子じゃないよ」
「そうかしら?」
「そうだよ」
冬樹は、他人(ひと)の宿題を丸写しすることなど日常茶飯なくせに、しらを切った。
トントントン…。
心配しても始まらないので、響子は夕食の準備を執りかかった。そんな響子の心境をよそに、冬樹はTVを観はじめた。
「……」
響子の手が止まった。
「それにしても遅いわ」
そう呟(つぶや)いた響子は、ためらうように黒電話に向かうと、周くんの家に電話をかけてみた。周くんは春香と同じ時計坂第二中学校で、修学旅行も春香と一緒だったからだ。
「あの、もしもし。五代でございますが…」
「あら、まぁまぁ」
周くんの母親は、暫(しばら)く響子と取りとめのない世間話をしていた。冬樹は相変わらずTVを観ていた。響子は頃合(ころあい)を見計らって本題に入った。
「それで、あの…周くんはもうお戻りですか?」
「は? ウチの周ですか?」
「えぇ」
「周なら、もうとっくに帰っておりますけど…」
それを聞いて、響子はさぁっと血の気が引く思いがした。
「あ、そうでしたか」
響子はその後、適当に茶を濁(にご)して電話を切った。
《春香、どこに行っちゃったのよ?》
TVがニュースに替わった。冬樹はチャンネルを替えることなく、ニュースを観ていた。ニュースでは、北朝鮮の拉致(らち)疑惑が特集されていた。
「皆さまのお力で、どうぞめぐみをこの日本に帰してやってください」
カメラに向かって切々と訴える、横田夫妻の映像が映し出されていた。それを見た響子は、服の胸をぎゅっと掴(つか)み、いきなり部屋を飛び出した。
「ん?」
冬樹は響子の後ろ姿を目で追うだけだった。
はっはっは…。
響子は夜の時計坂を駆け下りていた。
ヒュー…。
冷たい夜風が響子の髪をかき乱した。響子は視界を遮る髪をかき上げながら、必死に走った。どこへ行くというわけでもなかった。ただ春香のことを思うと、どうにも走らずにはいられなかった。
《学校!》
響子はやっと目標を定めた。
カッカッカッ…。
夕餉(ゆうげ)に憩(いこ)う楽しげな街に、今にも泣き出しそうな突っかけの音が空しく響いた。
はぁはぁはぁ…。
心臓は激しく拍動し、脳天から血が迸(ほとばし)るのではないかと思われた。喉(のど)はカラカラに渇(かわ)き、冷たい外気が容赦なく槍(やり)を立てた。じっとりとした汗が額(ひたい)に浮かんだ。
《次の角を右に!》
僅(わず)かな段差があったのか、響子はよろけて足が乱れた。
「あ!」
響子の左の突っかけが外れて先に転がった。そんな突っかけには目もくれず、響子は転びそうになりながら、目の前の角を右に曲がった。
《!》
次の瞬間、響子は急に立ち止まった。
「それでね、それでね…」
坂の下から、五代と春香が連れ立って登って来るのが見えたからだ。春香は、修学旅行の帰りなのに、荷物らしい荷物も持たず、薄い箱のような物を小脇に抱えて、楽しそうに話している。五代は、春香のボストンバッグを後ろ手に持って、黙って春香の話を聞いている。
「っふ〜」
響子はふたりの姿を見て、思わず腰を抜かしてしまった。
《よかった〜》
響子が上がった息を整えていると、春香は響子に気がついた。
「あ、ママだ〜♪」
春香は嬉しそうに響子の許(もと)へ一目散に走った。
「響子!」
五代は、道にへたり込んでいる響子を見て、心配そうに春香の後を追って来た。
「響子! どうしたんだ?」
「あなた…」
響子はまだ呼吸が整っていなかった。ときどき痞(つか)えそうになりながら、苦しそうに声を発した。
「あたし…春香のこと…が…心配で…ここまで…走って…」
五代は響子の身体(からだ)を気遣って制止した。
「いいよいいよ、無理に喋(しゃべ)らなくても」
「済みません…あなた」
そう言うと、響子は黙って五代に背中をさすってもらった。春香は、響子に心配をかけたことがだんだん申し訳なく思えてきた。黙って響子の肩に手を乗せた。響子の呼吸が整ってきた。
「あなた、もう大丈夫です」
「いいのか?」
「えぇ。よいしょ」
響子は右膝(ひざ)に手をついて立ち上がった。
「ママ、ごめんなさい」
春香はしおらしく素直に謝った。響子はあえて春香を怒らなかった。しかし言うべきことは言わなければいけないと思った。
「いい? 春香。遅くなるときは、ちゃんと連絡しなさい」
「はい」
春香は神妙に頭を下げた。そこへ五代が割って入った。
「あんまり怒らないでやってくれよ。春香はいい子なんだから」
「でも…」
響子は訴えるように五代を見た。五代は春香の頭を撫(な)でて優しく促した。
「ほら、春香。その包み、見せてやれよ」
「はい」
春香は、小脇に抱えていた箱を、恐る恐る響子に差し出した。
「なにかしら?」
「ママ、開けてみて」
響子は合点の行かないまま中身を取り出した。
「あら、これは…」
響子が手にしたのは、挽(ひき)物の盆だった。春香は俯(うつむ)き加減にそっと言った。
「それ…お土産…」
「それだけじゃないだろ?」
五代は更に春香を促した。
「あの…ウチのお盆、そうとう疲れてたから、お土産、ママが喜ぶと思って。でも…お盆高くて買えなくて…それで…先生にちょっと出してもらっちゃって」
「まぁ、そうだったの?」
春香は、響子に怒られるのではないかと、少し身を竦(すく)めた。
「それで?」
五代は笑顔を作って優しく春香の肩を抱いた。
「それで…その…東京に帰ったら、先生にお金返そうと思ったんだけど、一刻館(ウチ)に取りに帰ったら、ママにバレちゃうし…。でもね、先生は明日でいいって言ってくれたの。だけど…その…あたし、そういうの嫌いだから」
「それでおれのところに相談に来たってわけだ」
響子は大きく安堵(あんど)の溜(ため)息を吐(つ)いた。
「なによ…それならそうと、連絡のひとつくらいくれればいいのに」
「だって…」
春香は、風に絡むツインテールを手で後ろに避(よ)けながら、蚊の鳴くような声で呟(つぶや)いた。五代は明るい声で言った。
「まぁ、響子。許してやれよ。春香だって、響子のこと思って買ってきてくれたんだからさ」
「そうですけど…」
そう言いかけて、響子はふっと微笑(ほほえ)み、春香の頬(ほお)にそっっと手を当てた。
「え?」
春香はびっくりして、反射的に響子を見上げた。
「春香…ありがとね」
春香の顔がみるみる明るくなってきた。
「ママ…気に入ってくれた?」
「えぇ。ママ、とっても嬉しいわ」
「よかった〜」
春香は胸に手を当てて安堵(あんど)の表情を見せた。五代は明るい声を出した。
「それじゃ、一刻館(ウチ)へ帰るか」
『はい』
薄明かりの街灯の下を、3人は時計坂を登っていった。(完)