狂おしい季節



作 高良福三


序 不惑(ふわく)の童心

 ショワショワショワ…。
蝉時雨(せみしぐれ)の中、真っ直ぐな木漏(こも)れ日が目に眩(まぶ)しい。道には、陽炎(かぎろい)が不気味な水面を浮き上がらせ、遠くから近づく自動車の影を歪(ゆが)めて映し出している。一刻館の庭には、冬樹が植えた向日葵(ひまわり)がたわわに実り、萎(しぼ)んだ花弁(はなびら)の名残をつけて、頭(こうべ)を垂れている。茎もだいぶ枯れて黄色味を帯び、縦に走る筋が目立ってきた。
 Tシャツに短パン姿の五代は、北側の玄関を開け放ち、盥(たらい)の水に足をつけて上り框(がまち)に腰掛けていた。
 「あ〜…あち〜」
 ショワショワショワ…。
熊蝉(くまぜみ)は、五代の頭上から残酷に暑さを浴びせかけた。
 ドタドタドタ…。
廊下を走る跫音(あしおと)を、響子の声が追い駆けていた。
 「これ! 駄目(だめ)よ!」
 「いらないよ〜」
 「駄目だってば! 冬樹」
響子は、子供の帽子を持って冬樹を追い駆けていた。
 「だってあついもん」
 「だーめ! 日射病になっちゃうわよ」
冬樹が二階へ昇る大きな階段にてこずっている間に、響子はやっと追いついた。
 「全く仕様のない子ね」
響子は、冬樹に乱暴に帽子を被(かぶ)せると、しっかりと顎紐(あごひも)まで着けさせてから、頭を軽く叩(たた)いた。
 「ほーら、これで大丈夫」
冬樹は、帽子が気に入らないらしかった。
 「いやだよ〜、ぼうしいらない」
響子は、いたずらっぽく顎(あご)のゴム紐(ひも)を弾いた。
 「イタッ!」
冬樹は、眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。
 「ちゃんと被(かぶ)らないとお仕置きよ」
冬樹は、仕方がないという顔で、諦(あきら)めて階段を昇って行った。5号室にある虫取り道具を取りに行ったのだ。五代はその様子を聞いて、ただでさえ暑いのに鬱陶(うっとう)しいことは止めてほしいと思った。
 「さっきから何やってんだよ、響子」
 「え?」
そう言われて、響子は五代の横に蹲踞(しゃが)んで、面白そうに盥(たらい)の水を手で波立たせた。
 「どう? 少しは涼みました?」
そんな響子の発言に五代は不満だった。
 「涼むも何も、暑いんだから後で鬱陶(うっとう)しいことは止めてくれよ」
 「仕様がないじゃない、冬樹が帽子を被(かぶ)らないって言うんですから」
 「でもさぁ…」
五代は口を尖(とが)らせた。とつぜん響子は、何を思ったのか、水を掬(すく)って五代に投げかけた。
 「えい!」
 「わっ! こら」
五代は、避(よ)けようとしたが、まともに水を食らってしまった。
 「あ〜ぁ」
 「ふふふ…」
五代は、濡(ぬ)れたTシャツを両手で摘んで、気持ち悪そうに扇いだ。
 「まるで濡鼠(ぬれねずみ)ね」
響子は笑った。
 「くっそー…。えい!」
楽しそうに笑う響子に、五代は水を掬(すく)って投げた。
 「きゃ!」
響子のPIYOPIYOエプロンが濡(ぬ)れた。
 「ま! やったわね〜」
響子は、笑いを殺して楽しそうに凄(すご)むと、今度は先ほどよりも多い水を掬(すく)って投げた。水が五代の顔を直撃した。
 「わ! 何を小癪(こしゃく)な…」
 「えい!」
 「えい!」
ふたりは、童心に帰ったように水を掛けあった。
 「パパ、ママ。なにやってるの?」
虫取り道具を持った冬樹は、見下ろすようにふたりを眺めていた。気がつけば玄関は水浸しで、ふたりともずぶ濡(ぬ)れだった。五代は、冬樹の視線を感じながら、きまり悪そうに笑った。
 「あ? あはあはあは…」
 「ふふふ…」
響子も釣られて笑ってしまった。
 「ぼく、むしとりにいってくるね」
 「へ?」
冬樹は、五代と響子には全く無頓着(むとんちゃく)に玄関を出て行った。ふたりは、唖然(あぜん)として冬樹の後姿を目で追った。五代はぼそっと口を開いた。
 「響子…」
 「…はい」
 「俺、ときどき冬樹が何考えているのか、分からなくなるんだよな」
 「あなたもですか…」
 ショワショワショワ…。
ふたりは蝉時雨(せみしぐれ)の中に取り残された。



一 突然の電話

強烈に照りつける陽射しの中、響子はホースで打ち水をしていた。ホースから迸(ほとばし)る水はきらきらと輝き、方円自在の珠玉(しゅぎょく)のようだった。
 バタン…。
響子の背後で玄関の扉が開いた。
 「管理人さん、おはようございます」
響子は声の主に振り返った。
 「あら、二階堂さん。おはようございます」
 「いやぁ、今日も暑くなりそうですね」
 「えぇ。ホントに」
二階堂はカットシャツにサスペンダー姿だった。
 「今日はお仕事じゃないんですの?」
 「えぇ。ウチの会社も夏休みになりまして」
 「そうですか」
響子は話をしながら、ついでに庭の植栽に水を遣った。
 「あら。それじゃぁ帰省なさるのかしら」
 「いいえぇ。家に帰っても、うざったいだけですよ」
 「そんな…。それじゃぁお母さま、寂しがるんじゃないですか?」
二階堂は少し不機嫌そうに言い捨てた。
 「母はいつまで経っても子離れ出来ないんです。たまには良い薬ですよ」
 「まぁ。そんな…」
 ジリリリン…。
廊下のピンク電話が鳴った。
 「あら、電話だわ」
 「じゃ僕、出かけますんで」
 「はい。行ってらっしゃい」
 「行って来ます」
響子は手早くホースの水を止めると、廊下のピンク電話に急いだ。
 「はい。一刻館でございます」
電話からは若い女性の声がした。
 「あの…真田ですけど…」
 「はい。真田さんですか?こんにちは」
響子は取り敢えず返事をしてから考えた。
 《誰かしら? 真田さんって。でもどこかで聞いたことあるような声ね》
 「どうも、こんにちは。もしかしてあの…」
声の主は続けた。
 「管理人さんですか?」
響子は、知らない相手にいきなり見破られて、少し驚いた。
 「えぇ。あたし、一刻館の管理人ですが…何か?」
ここで声の主はいったん間を置いた。
 「そうですか。まだ管理人さんしてたんですね」
響子は、その言葉に吐(むかつ)き、受話器の穴を睨(にら)みつけた。
 《誰よ。失礼なひとね》
響子は、昂(たか)ぶるこころを抑えて声の主に質(ただ)した。
 「もしもし…真田さんといったかしら? あの、どういったご用件でしょうか?」
声の主は、響子の質問を無視した。
 「管理人さん。私のこと、まだ気がつかないんですか?」
響子は怒りに声を荒げた。
 「いたずらのようでしたら切りますが」
響子の語調とは対照的に、声の主は不敵な笑みを浮かべているようだった。
 「じゃぁ管理人さん。こう言ったら分かります?」
 「え?」
 「五代先生はいらっしゃいますか?」
 《!》
響子は声の主に漸(ようや)く気がついた。
 「あなた! 八神さんね?」
 「はい、そうです。でも今は結婚して真田になりましたけど」
それを聞いて、響子の怒りは一応治まった。
 「あなた、どうしたの? いきなり電話してきて」
 「それより五代先生はいらっしゃるんですか?」
 「一体どうしたのよ」
八神は淡々とした口調で言った。
 「管理人さんには関係ないことです」
そのことばに響子はまた腹を立てた。
 「関係なくはないわ。あたしたち夫婦ですもの」
響子は、電話のコードをぐっと掴(つか)んで、口角に泡を飛ばした。
 「……」
八神は、暫く黙っていたが、諦(あきら)めたようだった。
 「分かりました、管理人さん。正直に言います。私、五代先生に相談したいことがあるんです」
 「相談?」
 「はい」
 「それって、あたしに隠さなきゃならないことなの?」
 「隠すほどのことではありません。ただ管理人さんには、あまり言いたくないんです」
響子の怒りは段々と治まって行った。
 「分かりました。あたしも話せない女ではありません。ここであなたの事情を無理に穿鑿(せんさく)しようとは思いません」
八神は安心したようだった。
 「よかったぁ。分かっていただけましたか。それで五代先生は?」
 「主人は仕事で留守です」
八神は矢継ぎ早に尋ねた。
 「仕事って、しいの実保育園ですか?」
 「そうですけど…」
響子がそう言うや否や、八神は短く礼を言って電話を切った。
 「何なのよ、一体。あの子は」
響子は、受話器を置いて暫(しばら)く電話の前に立ち尽くした。しかし段々五代のことが心配になって、しいの実保育園に電話をした。
 プルルル…。
呼び出し音を聞いている間、響子は、じれったくて仕様がなかった。
 「はい。しいの実保育園ですが」
呼び出しは数回位なのに、響子はずいぶん待たされたような気がした。
 「もしもし。あの五代ですけれども、主人は…」
 「あ、はいはい。ちょっと待って下さいね」
電話に出たのは、明るい感じの保母だった。
 「五代さーん」
電話越しに、五代を呼ぶ声が聞こえた。
 「五代さん。電話よー」
 「うん、有難う。誰から?」
 「奥さんから」
五代が電話に出た。
 「もしもし?」
 「あ、あなた」
 「どうしたんだよ、仕事中に」
 「えぇ」
響子は、非礼を侘(わ)びる気持ちを、奥歯でぐっと噛(か)みしめた。
 「あの、さっき八神さんから電話があって」
 「え、八神から?」
 「何でも、あなたに相談したいことがあるって言うんですけど、あたしじゃ全然取り合ってくれなくて…」
 「分かった。もしこっちに連絡あったら、うまく対応しとくから」
 「お願いします。彼女、ちょっと声が切ない感じだったわ」
 「分かった。有難う」
そう言って、五代は電話を切った。
 《さぁて、どうしたもんかな》
五代が考えていると、幼児が泣きながら職員室に入って来た。
 「ごだいせんせーい! あっちゃんがいじめるのー」
 「はいはい。ほら泣かない、泣かないよ」
五代は仕事を再開した。



二 憔悴(しょうすい)

八神は自宅で夫の帰りを待っていた。待つといっても、去年三人目の娘が生まれたばかりなので、八神はただ待つという訳には行かなかった。その証拠に、先ほどから三女が全然泣き止まない。
 「あれ〜どうしたのかな。襁褓(おしめ)は取り替えたばっかりだし…」
八神は抱き上げてあやしたが、それも効果がないようだった。
 「ノンちゃん、どうちたの? ねぇ、ノンちゃん?」
のぞみは三人目なので、八神も慣れたものだった。八神は、のぞみと額(おでこ)をくっつけて、道化(おどけ)るような仕草をした。しかしのぞみは全く泣き止みそうになかった。
 「おかあさん。ノンちゃん、ご飯じゃないの?」
長女のひかりが言った。
 「そうね。ノンちゃん、ご飯かな〜?」
八神は、のぞみを自分の膝(ひざ)に座らせ、こちょこちょと腹を弄(まさぐ)った。のぞみは、八神の動作に微妙に反応した。
 「ご飯でちゅか? ノンちゃん。ご飯?」
八神は娘の反応に得心したようだ。
 「分かりまちたよ、ノンちゃん。今からママがご飯を作(ちゅく)りまちゅからね〜」
そう言って、八神はひかり長女を呼び付けた。
 「ちょっとひかり。そこにある南瓜(かぼちゃ)取って」
 「は〜い」
ひかりは、八神が離乳食用に作った、南瓜(かぼちゃ)の裏漉(ご)しが入った壜(びん)を取りに行った。
 「ありがとう。ひかりはお利口さんね」
八神はひかりの労をねぎらった。
 「は〜い。ノンちゃ〜ん、ご飯でちゅよ〜」
八神は、南瓜(かぼちゃ)のペーストを小さな小さなスプーンに掬(すく)うと、のぞみの口に運んだ。すると先ほどまであんなに泣いていたのぞみがぴたっと泣き止んだ。
 「そうでちゅか〜。ノンちゃん、お腹が空(ちゅ)いてたんですね〜。良かったでちゅね〜」
満腹したのぞみは笑い出した。
 ピンポーン…。
玄関のチャイムが鳴った。
 「あ、帰って来たんだわ」
八神はのぞみをベッドに寝かせ、玄関に急いだ。
 「お帰りなさい」
 「ただいま」
今日も真田は元気がなかった。
 『おかえりなさ〜い』
真田を迎える娘たちにも、真田は唇(くちびる)を少し引くだけで、目が微笑(ほほえ)むことはなかった。真田は、鞄(かばん)を八神に渡すと、打ち拉(ひし)がれたように座り込んで靴を脱いでいた。その様子を見て、八神は心配そうに真田の顔を覗(のぞ)き込んだ。
 「あなた、大丈夫?」
真田は自分を蔑(さげす)むように嗤(わら)った。
 「あぁ」
真田は、ネクタイを緩めながら鞄(かばん)を定位置に置き、のぞみの寝顔を見ていた。
 「のぞみはもう寝たんだ」
 「うん。さっきまで泣いてたんだけどね」
 「そうか。それは良かった」
真田は、ちゃぶ台に座って溜(ため)息を吐(つ)いた。八神は、真田の後姿が心配でならなかった。
 「今日はどうしたの?」
真田は力なく八神を見た。
 「ん? …まぁ、いつもの事だよ」
真田はそれきり黙ってしまった。そこで八神は、今日の出来事を真田に報告することにした。
 「あのね、今日、一刻館の方に電話してみたんだけど」
 「……」
 「五代先生ね、お仕事で留守だったって」
 「……」
 「それでね、明日、しいの実保育園に電話して、五代先生に会いに行こうかなって思っちゃったりして」
 「……」
その間、真田はずっと黙っていた。
 「ねぇ、ホントにあなた大丈夫?」
真田は、さすがに黙ったままでもいけないと思ったのか、気のない返事をした。
 「ん、大丈夫だよ」
 「……」
そこへ今までTVを観ていたふたりの娘が、八神の方に振り返った。
 「おかあさん、おなかすいた」
 「すいた〜」
 「はいはい。分かりました」
仕方なく八神は、食事の仕度をすることにした。
 トントントン…。
八神は、料理をしていても、真田のことが気が気ではなかった。だから自分だけは明るく振舞おうと思った。
 「は〜い。出来たわよ〜」
八神が食事を運んだときには、真田は娘たちと一緒にTVを観ていた。画面には、噴火する三宅島の映像が映し出されていた。
 「おとうさん。おやまがけむりだしてるよ。ねぇ」
次女のこだまは真田を揺すったが、真田は無言のままだった。真田の眼鏡に映り込んだ雄山(おやま)の映像がちらちらと見えた。八神は自分を鼓舞した。
 「さぁ、皆で戴(いただ)きましょうよ☆」
その日も真田家は、ふたりの娘を除いて、静かな夕食を済ませた。
 次の日、五代は、しいの実保育園で事務作業をしていた。
 ジリリリン…。
五代は、指で鉛筆をぴょんぴょんと回しながら、電話に対応した。
 「はい。しいの実保育園ですが」
 「もしもし」
 「はい」
五代は何も考えずに答えた。
 「あの、五代先生はいらっしゃいますか?」
 「はい。五代は僕ですけど…」
五代は、そう言ってからはっと気がついた。果たして電話の主は八神だった。五代は周章(あわて)た。
 「や、八神か?」
 「いいえ。今は真田で〜す☆」
 「真田も八神も一緒だ! それにしてもどういう事だ? 昨日は一刻館(うち)に電話してきたりして」
 「だって先生にご相談したいことがあったんですもの☆」
 「それは響子から聞いたよ」
 「それなら話が早いわ☆」
電話の向こうの八神は、いたずらっぽく甘えているようだった。しかしその様子は瞬く間に消えた。
 「先生。実は最近、主人が元気ないんです」
 「元気ないって、あの真田くんが?」
 「はい」
五代は、八神の言葉を俄(にわ)かに信じられなかった。真田といえば、心身ともに困憊(こんぱい)していた八神を助け、あの八神部長とも真っ向からぶつかって、結婚を勝ち得た男だからだ。
 「そんな。彼はちょっとやそっとじゃめげそうにないように思ったけど」
八神は訴えるように言った。
 「でも、それが事実なんです」
 「ふ〜む」
五代は考え込んでしまった。
 「原因は分からないのか?」
 「それが…きいても全然答えてくれないんです」
 「じゃ、会社で何かあったのかな」
 「えぇ。私も昔の同僚にそれとなく訊いてみたんですけど、どうもよく分からなくって…」
 「なるほどね」
そこで五代の質問は尽きてしまった。八神は、五代を探るように尋ねた。
 「先生。今からそちらに行ってもいいですか?」
 「え、今から?」
 「はい。決して先生のご迷惑にならないようにしますから」
 「って言われてもなぁ」
五代は困って鬢(もみあげ)を掻(か)いた。
 「実は…」
 「ん?」
 「今、そちらに向かいながら電話してるんです」
 「何だって!?」
 「だーって来ちゃったんだもん」
 「そんな…」
八神は、電話の向こうで娘を抱き直して手を振った。
 「のんちゃんも一緒で〜す☆」
 「のんちゃん?」
 「あ、下の娘です。保育園だからもちろんOKですよね?」
 「ま、まぁ…」
 「じゃぁ、後5分くらいでそちらに行きま〜す」
 「ちょっ!」
 「バイバーイ☆」
 「おい! バイバイって…」
 ツー…。
 《俺っていつもこんなのばっか…》
五代は、自分の優柔不断さに肩を落とした。



三 一の瀬からの贈り物

暦の上では秋だった。しかし真昼の熾烈(しれつ)な光線は、管理人室の畳を明暗に画(かく)していた。
春香は扇風機のスイッチを「強」に切り換えた。
 「暑いわ〜」
春香は扇風機の前で音(ね)を上げていた。春香のツインテールは、扇風機の首振りに合わせてパタパタと波打った。
 「あ〜…あたし、この髪形やめよっかな〜」
先ほどまで一緒に食事の後片づけをしていた響子は、春香が戦線から離脱した事に不満だった。
 「あなた、暑いのは解るけど、もうちょっと手伝ってよ」
 「だって暑いの〜」
響子は手の甲で額の汗を押さえた。
 「ママだって暑いわよ」
響子は少々苛立(いらだ)っていた。春香は、扇風機の風に向かってあ〜と声を出しながら、寸暇を楽しんでいた。
 「ママ、もうちょっとだけいいでしょ?」
 「じゃぁもうちょっとだけよ」
 コンコン…。
そこへドアをノックする音がした。
 「は〜い」
春香が応対した。
 「あぁ、春香ちゃん」
一の瀬は封筒のような物を持って立っていた。
 「おばさ〜ん☆ さ、入ってぇ」
春香は一の瀬を部屋に招き入れた。
 「いやぁ、全く今日も暑いね〜」
一の瀬は、ちゃぶ台に座り込むと、持っていたタバコを吹かし出した。春香は如才なく灰皿を差し出した。
 「ね、おばさん。その持っている物、何?」
一の瀬は、失念していたかのように、封筒をちゃぶ台に置いた。
 「あぁこれね、賢太郎の奴が送ってよこしたんだけどさ」
響子も、やっと後片づけが終わって、ちゃぶ台に着いて茶を淹(い)れた。
 「あぁ。それ、こないだ届いた郵便物ね」
 「そうなんだよ。何かと思ったら、豊島園のプールの割引券でさぁ」
 「あら、プール? いいですね」
一の瀬はタバコの灰をトントンと落とした。
 「でもウチは亭主とふたりだし、今更プールってのもねぇ」
そのことばに春香は目を輝かせた。
 「おばさん。もしかして、それ、くれるの?」
響子は春香を窘(たしな)めた。
 「これ! 春香。そんな他人(ひと)さまに物を強請(ねだ)るようなこと、言っちゃいけません」
一の瀬は響子を宥(なだ)めた。
 「まぁまぁ、管理人さん。いいじゃないのさ。春香ちゃんだって夏休みくらい、どっか出かけたいだろう?」
 「うん☆」
春香の表情とは裏腹に、響子は困った顔をした。
 「そうかも知れませんけど…」
一の瀬は割引券を春香に渡した。
 「春香ちゃん。これでさ、パーっと遊んでお出でよ、パーっとさぁ」
 「おばさん☆ ありがとう」
春香は僥倖(ぎょうこう)に殊のほか喜んだ。響子は茶を差し出しながら、礼を言った。
 「まぁ、一の瀬さん。本当にありがとうございます」
 「いいんだよぉ。因(ちな)みにそれ、4名までOKだからね」
そこへトイレへ行っていた冬樹が帰って来た。
 「おねえちゃん。それ な〜に?」
春香は得意気に割引券を見せびらかした。
 「冬樹。これで豊島園のプールに行けるのよ」
 「え プール? ママ ホント?」
響子は仕方がないという風に微笑(ほほえ)んだ。
 「そうよ。今度皆で行きましょうね」
 「やったー!」
冬樹は跳び上がって喜んだ。
 「プール プール プールだよ〜♪」
冬樹は、即興で作詞作曲した意味不明な歌を歌っては、躍っていた。春香は、プールの割引券を手にしただけで、ひと夏の暑気払いが出来たような気がした。
 その日の晩はあっという間に訪れた。
 バタン…。
 「ただいま〜」
五代が帰って来た。
 「おかえりなさ〜い☆」
いつもと異なる元気な出迎えは、五代にとって嬉しい驚きだった。
 「どうした? お前たち」
冬樹は、沈黙を守ることができずに、五代の手を握って揺すった。
 「パパ! プールにいこうよ」
 「え? プール?」
春香も、嬉しくて冬樹に続けた。
 「あのねあのね、今日、一の瀬のおばさんから豊島園のプールの割引券もらったの☆」
五代は得心した。
 「あぁ、そういうことか」
冬樹は、五代を肘(ひじ)で突付いた。
 「ねぇ。ねぇったらぁ パパ。プールいこうよ〜。プール」
 「う〜ん、そうだな〜」
 「ねぇ〜 プール〜 プール〜」
そこへ廊下の角から響子が現れた。
 「あなた、お帰りなさい」
響子は、駄々(だだ)を捏(こ)ねる冬樹に、微笑(ほほえ)みかけて頷(うなず)いていた。五代は決心した。
 「よし! 行くか」
 「本当?」
春香と冬樹の表情が明るくなった。
 「やったー!」
春香と冬樹は廊下で小躍りした。そんな様子をドア越しに聞いた一の瀬は、割引券を禅(ゆず)ったことに満足していた。



四 不遇の邂逅(かいこう)

プールに行く当日は、申し分なく晴れた。五代一家が出発するころには、気温がぐんぐん上がり、日陰に立っても汗が滲(にじ)み出るほどだった。
 「パパ、ママ、早く!」
今日の先達(せんだつ)は春香だった。冬樹は、嬉しさのあまり、ひとりで先に走って行ってしまった。歩みの鈍(のろ)い五代と響子に業(ごう)を煮やした春香は、響子の荷物を取り上げて二人を鼓舞した。
 「はい! もっと早く歩く!」
 「へいへい」
五代と響子は、楽しそうに春香に従った。三人が時計坂駅に到着した時には、冬樹は、既に駅で待ち草臥(くたび)れていた。
 「おねえちゃん おそい〜」
 「ゴメンゴメン」
春香は、五代と響子を速やかに誘導できなかったことを、冬樹に侘(わ)びた。春香と冬樹は、事前に打ち合わせていたようだった。
 「ほら、切符だ」
五代は、豊島園駅までの切符を買って銘々(めいめい)に渡した。冬樹は喜んで受け取ったが、響子が切符を取り上げてしまった。
 「切符はママが預かります」
 「え〜!」
冬樹は不満を漏(もら)した。響子は清(すま)した顔で言った。
 「だってあなたすぐ失くすんだもの。この間だって…」
 「あー!!!」
冬樹は、響子の声が五代に聞こえないように、大声を出した。五代は何事かと訊き直した。
 「え? この間なんだって?」
響子は再び説明しようとした。
 「ですからね、こないだ冬樹と…」
 「あー!!!」
五代は、冬樹の大声に呆(あき)れた。
 「分かったよ、冬樹。もう訊かないから。な」
五代は、冬樹の頭を軽く叩(たた)いた。響子は、ふたりの様子ににこやかに肩を窄(すぼ)めた。改札を済ませ、五代一家は、西武池袋線の上り電車に乗車した。後は練馬駅で豊島線に乗り換えれば、豊島園駅まではひと駅だ。練馬駅は、地下鉄有楽町線との相互乗り入れと高架化がなされ、沢山のひとでごった返していた。
 「冬樹。ママの手をしっかり握ってなさい」
五代一家は、互いに逸(はぐ)れそうになりながら、豊島線のホームへ移動していた。すると、五代は見覚えのある顔とすれ違った。
 《あれ? あの人は確か…》
五代は、大した知り合いでもないので、挨拶(あいさつ)せずに行き過ぎようとした。しかし向こうは、五代一家に気づいて近づいてきた。
 「五代くん! 五代くんじゃないかね!」
 《やべぇ》
五代は、もはや看過することができなくなった。
 「や、八神部長。ご無沙汰(ぶさた)しております」
果たしてそこには、会社に向かう八神氏がいた。
 「今はもう部長ではない!」
八神氏は尋常になく立腹していた。
 「あ、済みません。どうも」
五代は卑屈に頭を下げた。八神氏は高慢な態度で五代に臨んだ。
 「君はどういうつもりなのかね?」
 「どういうって何がですか?」
 「性懲(しょうこ)りもなくウチの娘を誑(たぶら)かしおって!」
一方的に決めつけたような言い方をされて、五代は憮然(ぶぜん)とした。
 「ちょっと待って下さいよ」
 「ふん! 君にはほとほと呆(あき)れ果てたよ!」
事態が飛び火することを憂えた五代は、響子に耳打ちした。
 「ここは子供たちを連れて先に行ってくれ」
 「でも…」
響子は不安そうな表情を浮かべた。
 「大丈夫。後から行くから」
五代の顔は毅然(きぜん)としていた。
 「五代くん! 何をやっておるんだ。しらばっくれるつもりか!」
五代は、戸惑う響子の背中を押した。
 「きゃ」
響子は、後ろ髪を引かれる思いで、振り返り振り返り五代を後にした。五代は、響子たちが豊島線のホームに行ったのを確認すると、八神氏に振り返った。
 「こんな所では何ですから」
 「ま、そうだな。どこかゆっくり話ができる所にでも移動しようか」
八神氏は、徐(おもむ)ろに携帯電話を取り出すと、会社に遅参する旨(むね)を伝えた。ふたりは駅を出て、近くの喫茶店に落ち着いた。
 カランカラン…。
 「いらっしゃいませ〜」
ふたりは、物語らず適当な席に着いた。ウェイトレスが水を持って来るや否や、五代は手短に言った。
 「ブレンド2つ」
 「はい。畏(かしこ)まりました。少々お待ち下さい」
ウェイトレスは、ふたりの雰囲気(ふんいき)に恐れをなして、奥へ引っ込んだ。八神氏は、内ポケットからタバコを取り出して、最初の一服を大きく吐き出した。
 「で、さっきの話だが…」
五代は水を一口含んでから言った。
 「八神部長。僕は、疚(やま)しいことは何もしていません」
八神氏はこめかみに青筋を立てた。
 「今は常務だ!」
 「あ、済みません。八神常務」
 「でもとにかく信じて下さい。僕は、お嬢さんを誑(たぶら)かすようなことは、一切していません」
 「いいや、誑(たぶら)かしておるに決まっとる!」
 「いいえ、誑(たぶら)かしてなんかいませんったら」
八神氏は、水を飲み干してコップをテーブルに敲(たた)きつけた。
 「誑(たぶら)かすとかしないとか、そういう問題ではない! 私は確固とした情報をつかんでおるんだぞ!」
 「情報…?」
八神氏は、神経質に煙を五代に吹きかけた。
 「そうだ! 君といぶきが密会したとな!」
 「そ、そんな」
 「いいや、言い逃れなんぞ聞きたくない。素直に認めたまえ!」
五代は、八神がしいの実保育園に相談しに来たときのことを思い出した。
 「あれは…誰がそんなことを…」
 「誰だって君には関係ないだろう!」
五代は、八神氏をきっと睨(にら)んだ。
 「あれは、お嬢さんが僕に相談に来ただけで、密会とかそういうんじゃありませんよ」
 「相談だと?」
 「そうです」
八神氏は、意外だという風な素振りを見せて、タバコを灰皿に押し潰(つぶ)した。
 「じゃぁ何なんだ? その相談というのは!」
五代は力説した。
 「困っているんです」
 「そりゃ困るだろう、不倫の現場を父親に詰問されれば」
 「そうではありません。困っているのはお嬢さんです」
 「何?いぶきが?」
 「そうです」
五代は、真田が抑鬱(よくうつ)状態であること、八神がそれを心配して五代に相談して来たこと等を八神氏に説明した。
 「何? あの祐(ゆう)くんが抑鬱(よくうつ)状態だと言うのか…」
八神氏は暫(しばら)く黙り込んでしまった。



五 未知への挑戦

八神は精神科の入口の前に来ていた。真田の状態を見ていて、あることが気になったからだ。それは鬱(うつ)病。最近は、新聞やTVで連日のように報道されていたし、女性雑誌にも、ストレスチェックなるものが特集されている。そこで異口同音に書かれていることは、精神科医に相談して正しいケアを受けるべきだということだった。正直いって、八神は精神科が怖かった。自分は健常だとしても、待合室には、気の振れた恐ろしい患者が犇(ひしめ)き合っているのではないかと想像していた。八神はインターネットで近くの精神科を検索した。ホームページには、清潔でお洒落(しゃれ)な雰囲気(ふんいき)の診察室の写真が掲載されていた。その中から選んだのが、いま目の前にある精神科だった。八神は、勇気を振り絞って精神科の門を敲(たた)き、恐る恐る受付に声をかけた。
 「ご免下さい」
 「こんにちは」
そこには、若い女性が明るい笑顔を見せて待っていた。
 「あの…今日は私じゃなくて、主人のことで相談に来たんですけど…」
女性は頷(うなず)いて用紙を差し出した。
 「初診の方ですね? ではこちらにお名前とご住所、ご連絡先を書いていただけますか?」
八神は言われるままに用紙に記入した。
 「はい。書きました」
女性は、記入事項を丁寧(ていねい)に確認すると、今度は大きな紙を八神に手渡した。
 「では患者さんの家族構成と、最近の症状について書いて下さい」
 「あの…私、本人じゃないので、症状まではちょっと…」
 「簡単なアンケートみたいなものですから、分かる範囲で構いませんよ」
そう言われて、八神は、自分から見た真田の症状について、考えながら記入していった。
 「こんな感じでいいでしょうか?」
八神は用紙を提出して、待合室の椅子(いす)に腰かけた。真剣に記入していたので気づかなかったが、改めて見てみると、周りの患者の多くは、一見して普通のひとだった。特に恐ろしい形相をしている訳でもなく、また奇怪な行動をしている訳でもなかった。みな静かに座って、雑誌等を読みながら順番を待っていた。それを見た八神は、精神科に対する偏見があった自分を愧(は)ずかしく思った。
 「真田さん、どうぞ」
いよいよ八神が呼ばれた。八神は、おずおずと診察室に入ったが、何を言ったらよいのか分からず、下を向いて黙っていた。
 「それで、今日はどうしました?」
精神科医は優しく八神に語り掛けた。八神は躊躇(ためら)いがちに口を開いた。
 「あの…主人のことで相談に来ました」
 「どんなことでしょう?」
八神は、真田に元気がないこと、理由を訊いても答えてくれないこと、会社の同僚に訊いても特に理由が見当たらないこと等を説明した。八神は、こういうことに慣れていないため、説明がくどかったり、或(ある)いは足りなかったりした。しかし精神科医は、八神のことばを遮ることなく、一つひとつ丁寧(ていねい)に聴いてくれた。八神がひと通り説明し終わると、精神科医は初めて発言した。
 「状況は大体分かりました。でもやはりご本人にお伺いしたいこともありますので、一度ご主人と一緒に来てくれませんか?」
 「はい。でもどうすればいいでしょうか?精神科へ行こうと言って、主人は来てくれるでしょうか?」
 「精神科は特別な所ではありません。軽い気持ちで来てくれるようにご主人を説得してくれませんか?」
 「はい。何とかやってみます」
それでその日の診察は終了した。八神は一刻館に電話をした。五代に今日のことを報告するためだった。五代一家は、プールからまだ帰っておらず、留守だった。そこで一の瀬が電話に応答した。
 「はい。こちら一刻館」
 「もしもし真田ですけど」
 「はい。真田さん…」
一の瀬は電話の脇(わき)にある黒板にメモを取った。
 「それで?」
 「あの、五代先生は…」
一の瀬はその口調で八神だと気づいた。
 「ん? あんた、もしかしたら八神さんかい?」
八神も得心したようだった。
 「もしかして一の瀬さん?」
 「あらぁ、懐かしいねぇ。あんたいま何やってんのさ」
 「えぇ。結婚して真田になったんです〜」
 「おやまぁ、結婚。そりゃおめでたいねぇ。それで子供は?」
 「娘が三人」
 「へぇ、三人も。いくつなの?」
 「上が6歳で真ん中が3歳、それで下が10ヶ月です」
 「そりゃ大変だねぇ。上ふたりはいいとしても、下の子のころってのは、何でも口に入れるから」
 「えぇ。ちょっと目を離すと大変なんですよ〜」
 「まぁ、三人もいるんじゃ、あんたにゃ釈迦(しゃか)に説法かもしれないけどさ…」
一の瀬は、自分の経験から子育てについてアドバイスした。
 「そういうい時はね、危ない物は皆1m位上に置くことだよ。それから掴(つか)まり立ちとかするからね、家具の角には座蒲団(ぶとん)を当ててさ…」
一の瀬の話は有難かったが、八神は、自分が何のために電話したのか、分からなくなってきていた。
 「八神さん。それじゃ頑張んなよ」
一の瀬は八神に発破(はっぱ)をかけて電話を切った。
 「いやぁ。あの八神さんが三児の母とはねぇ」
そこへ四谷が現れた。
 「今のはもしかして八神さんでおりやんすか?」
 「そうなんだよねぇ。あの子も立派に母親やってるみたいだよ」
 「それはおめでたい! これは祝わずにはおれませんな」
 「そうだね〜。じゃ、いっちょパーっと行くかパーっとさぁ」
 「実は…じゃ〜ん」
四谷は背後からビールと肴(さかな)を取り出した。
 「おっと! それなら話が早いね」
一の瀬は酒を取りに部屋に入った。
 日も暮れて、五代一家が帰って来た。
 バタン…。
 「ただいま〜」
 わははは…。
 あ、ちゃかぽこちゃかぽこ…。
管理人室から高笑いする声が聞こえてきた。その声に春香が真っ先に反応した。
 「あぁ! 宴会やってるー☆」
春香は靴を脱ぐと、取るものも取り敢えず管理人室へ向かった。
 「これ! 春香」
響子が慌てて声を掛けた時には、春香は、廊下の角を曲がっていた。
 「全く仕様のない子ね」
 「誰に似たんだか…」
五代と響子は、互いに顔を見ながら笑った。響子は、笑いながら五代に冗談を言った。
 「やっぱりおばあちゃんかしら?」
 「何が?」
 「春香ですよ。あの子、新潟のおばあちゃんに似たんだわ」
 「え…」
五代は、持っていた荷物を思わず落としてしまった。その様子を冬樹はじっと見詰めていた。五代の狼狽(ろうばい)振りに、響子はその場を取り繕(つくろ)った。
 「じょ、冗談ですよ。冗談…」
五代は我を取り戻した。
 「冗談…? そうだよな。あは、あはあは…」
五代は照れ臭そうに頭を掻(か)いた。ふたりの間に白けた空気が流れた。
 「ママ、おなかすいた」
冬樹は、指を咥(くわ)えて響子を見上げていた。
 「はいはい。じゃぁご飯の仕度しなくちゃね」
響子は、そそくさと逃げるように管理人室へ消えて行った。五代は冬樹の方に向いた。
 「さぁ。それじゃ俺たちも行くか」
 「うん」
五代が手を繋(つな)いだときだった。
 バタン…。
 「ただいま〜」
二階堂が帰って来た。
 「あぁ、お帰り」
 ドタドタドタ…。
そこへ真っ赤な顔をした一の瀬が五代を迎えに来た。
 「何やってんのさ。早く五代くんもお出でよ」
 「あ、一の瀬さん。ただいま〜」
 「おや、二階堂くん。お帰り。そいじゃ、あんたも来な」
二階堂は、一の瀬に誘われて嬉しそうだった。
 「わぁ。何ですか〜?管理人室で何かあるんですか?」
五代は、二階堂の鈍さに冷や汗をかいた。



六 真田の苦悩

 タタンタタン…。
会社に向かう電車の中で、真田は溜(ため)息を吐(つ)いていた。八神と結婚して7年。狭いながらも郊外のアパートを借り、通勤時間は1時間強。朝は早いし、夜は不規則。まいにち満員電車に揺られ、ロボットのように家と会社を往復するだけの生活だった。別にそれが辛いという訳ではなかったが、何かこころにぽっかり穴が開いたような空しい気持ちだった。
 《今日も会社か…》
 キキー…。
真田は、電車のブレーキに足を踏ん張ることもなく、ただひと混みに身を任せていた。
 《行きたくないな…会社》
しかし残酷にも、電車は確実に会社の方に向かっていた。駅に着いた真田は、多くの通勤客の中で孤独を感じながら、会社に向かって歩いていた。
 「おはようございます」
真田は会社に着くと、黙って自分の席に着いた。周囲では談笑する声が聞こえたが、真田は敢えてその中に交わろうとはしなかった。
 カタカタカタ…。
業務が始まり、真田は無言のままパソコンを打っていた。
 「真田くん、ちょっと」
課長が真田を呼んだ。
 「はい」
真田は関係資料を持って課長の許(もと)へ行った。
 「この間の資料なんだがね、これじゃぁ君の言わんとするところが見えてこないよ。もう一回やり直しだ」
 「はい」
真田は、作成した資料のどこが悪かったのか確かめもせず、課長に言われるまま資料を持ち帰り、再び作成することにした。
 カタカタカタ…。
真田は、傍(はた)から見れば仕事をしていたが、頭の中は空虚だった。資料を見ても内容が理解できなかったし、自分が何を打っているのかも分からなかった。ただ自分が遊んでいると思われたくなかったので、ひたすらパソコンに向かっていた。
昼休みになった。周りの人間は一斉に食事に出かけ、OLたちは楽しそうに弁当を広げて噂話に花を咲かせていた。しかし真田は空腹を覚えることもなく、かといって会社内にいる気もしなかった。真田は、目的もなくふらふらと表に出て、近くの公園のベンチに座っていた。隣のベンチにはホームレスが座っており、どこかで拾ったらしいタバコを吹かしては、訳の分からないことを繰り返し喋(しゃべ)っていた。
 《俺もああなるのかな…》
真田はいわゆるバブル期入社の世代だった。就職活動をするのにほとんど苦労したことはなく、二次面接では、温泉旅館でばか騒ぎをしていた。入社した直後は、湯水のように金を使い、用もないのに日本各地に出張していた。そういうことが罷(まか)り通った時代だった。しかしバブルが弾けてからというもの、事態は一変した。今まで仕事をしなくてもよかったのに、そういう輩(やから)は次々と子会社へ出向となった。そのご音信不通になった同僚の数は、とても片手では足りなかった。噂によれば、彼らはリストラされたということだった。人数が減ったぶん仕事は増えたが、残業をしても手当てが付かない。昇進を目指してもライバルが多過ぎる。自分はいつまでヒラを続けるのか、それともリストラされるのか、将来に明るい条件は何もなかった。それに加えて、今の課長が異動して来てからは、自分は目の敵(かたき)のように扱われる。これはいじめではないのか。言い得もない不安が真田を襲った。
いつしか、真田が座っているベンチの周りには、食事を終えた近所の会社員が、食後の休憩に集まって来ていた。
 《身の置場がないな》
真田は、ゆっくり腰を上げて、再びふらふらと歩き始めた。気がつけば、真田は会社の自分の席に戻っていた。時計の針は昼休みの終了を告げていた。
 《やっぱ駄目(だめ)だな、俺って》
真田は、会社から逃げ出したいと思っても会社に忠実な自分を呪(のろ)った。
 プルルル…。
そう思った矢先、目の前の電話が鳴った。真田はびっくりして電話に出た。
 「はい。真田ですが」
 「あー、祐くんかね。八神だが」
 「常務!」
 「いや、ここでは常務じゃなくていいよ。義父(とう)さんで」
 「はい」
 「仕事中に悪いんだが、ちょっと私の部屋まで来てくれんかね?」
 「はい。分かりました。すぐ伺(うかが)います」
真田は、常務に呼ばれている旨(むね)を課長に伝え、離席した。常務室に向かう途中、真田は何があったんだろうと考えた。
 コンコン…。
 「失礼します」
 「あぁ、待っとったよ」
八神氏は、窓から眼下のオフィス街を見下ろしていたが、真田が入って来るとにこやかに迎えた。
 「ま、そこに座りたまえ」
 「はい。失礼します」
八神氏は秘書に茶を頼んだ。
 「おい、斎藤くん。お茶を」
 「はい」
茶を待っている間、八神氏は、何から話し始めたものかと迷っているようだった。
 「君、さいきん仕事はどうかね?」
 「はい。お蔭さまで。旨くやっています」
 「そうかね。それなら結構だが…」
 「どうぞ」
秘書がふたりに茶を差し出した。
 「あぁ、有難う。それで君、悪いんだけどね、暫(しばら)くどこか喫茶店にでも行って、時間を潰(つぶ)して来てくれんかね」
 「拝承しました」
秘書は軽く会釈すると、バッグを持って常務室を出て行った。
 「さてと…」
八神氏は、手持ち無沙汰(ぶさた)そうに両手の指を組んでは解(ほど)いた。
 「いぶきがね…」
 「はい」
 「君のことをどうも気に懸けているようなんだよ」
 「いぶきが…?」
 「うん。まぁその…何だ。君が抑鬱(よくうつ)状態なんじゃないかとね」
真田は背筋を裁(た)ち割られたような気がした。
 「いぶきがそう言ったんですか?」
八神氏はその質問には答えなかった。暫(しばら)く沈黙が続き、八神氏は徐(おもむ)ろに口を開いた。
 「君、五代くんを知ってるね?」
 「はい。いぶきの高校時代の先生だとか」
 「彼がその…いぶきから君のことを聞いたと言っとるんだよ」
真田は少し安心した。
 「あぁ、そのことでしたら、僕も知っています。いぶきが五代先生に相談すると言ってましたから」
八神氏は意外だという風な顔をした。
 「そ、そうか。何だ、そうだったのか」
 「いぶきが言うには、五代先生は、非常に親身に相談に乗ってくれたそうです」
 「で、どうだろう?その抑鬱(よくうつ)状態の方は」
 「は?」
 「いや。いま君と話していて、私には、君がそんな風には見えないんだけどね」
真田は俯(うつむ)いた。自分でもうまく説明できないが、抑鬱(よくうつ)状態だからといって、いつもこころが沈んでいる訳でもなかった。不安や落ち込みといった心理状態は、予期せぬところで突然襲ってくるのだ。だが、それを八神氏に伝えたところで、状況は何も変わらないだろうと真田は思った。八神氏は、真田を正視せずに尋ねた。
 「非常に言いにくいことなんだが、その原因は会社にあるんじゃないのかね?」
 「え?」
 「私もまぁ、こんな立場にいる人間だ。君のために多少のことはできると思うんだが…」
 「いいえ。飛んでもない」
 「何?じゃぁ会社のせいではないと?」
 「はい」
八神氏は、原因が会社にあると言われることをある程度覚悟していた。しかし本人の口からそうではないと明言されてほっとした。
 「そうか! そうだよな。はっはっは…」
 「ははは…」
真田は意味のない追従(ついしょう)笑いをした。
 「それはそうと…」
八神氏は話題を替えた。
 「次の予定はないのかね?」
 「え? 何でしょう」
 「いや、孫だよ、孫」
 「はあ」
 「女の子も可愛くていいんだが、やっぱり男の子を抱きたくてな」
 「はあ」
 「君のところは女の子ばかりだろ? 楽しみにしとるぞ」
 「はあ」
真田の浮かない顔を見て、八神氏は真田に檄(げき)を飛ばした。
 「まぁ大体、病は気からと昔からいうだろう。こういうものは気合の入れ方が足りんのだよ、気合が。とにかく頑張りたまえ」
世間話もそこそこに済ませ、真田は常務室を退いた。
 「はぁ…」
真田は肩を落とした。
 「男の子か…」
この話を聞かされるのは、今回が初めてではなかった。八神の実家へ行く度、会社で顔を合わせる度、この話を聞かされている。確かに真田も、男の子が欲しいと思ったことがある。しかし今の経済状況や精神状態を考えると、とても手放しに欲しいとは思えなかった。かといって、八神氏の発言を無視する訳にもいかなかった。実家が遠い真田に対して、八神氏は何だかんだと世話を焼いてくれる。家族で遊びに行けば、食べきれないくらいご馳走(ちそう)してくれるし、お土産まで持たせてくれる。盆暮れの付け届けもしないのに、八神家の贈答品の殆(ほとん)どは真田家へ回ってくる。3人の娘の服や八神の小遣いも、八神氏が出資している。これだけの恩義を受けてその期待に添わないというのは、真田としては、非常にこころ苦しかった。
 「どうしよ…」
真田はぼそっと呟(つぶや)いた。



七 真田、倒れる

八神は真田の帰りを待ちわびていた。精神科医から、真田を同伴するように言われたからだ。といっても、のぞみは、容赦なく八神の手を煩(わずらわ)せていた。
 「は〜い、のんちゃん。おやすみなさ〜い。おやすみなさいですよ〜」
のぞみは、先ほどから何を言っても全然寝就かない。
 「困ったわね」
八神が諦(あきら)めかけたときだった。
 ピンポーン…。
 「あ☆お帰りなさ〜い」
ひかりは勇んで玄関に向かった。
 「ただいま…」
今日の真田は、普段よりも輪をかけて陰鬱(いんうつ)だった。
 「おとうさん♪」
こだまが駆け寄っても、真田は疲れた色を隠さなかった。
 《どうしようかしら》
その様子を見て、八神は、精神科の話をしようかするまいか悩んだ。
 「あなた、ご飯が出来てますよ」
真田は、玄関に座って靴を脱いでいたが、八神が話しかけると、その場でへたり込んでしまった。
 「あなた!」
 「おとうさん!」
八神は、真田を抱きかかえた。真田の体は、もの凄(すご)く重たく感じられた。
 「ちょ、ちょっと。あなた、大丈夫?」
八神とひかりは、必死に真田の体を支えようとしたが、真田の体重には敵わなかった。
 「きゃ!」
ふたりは、真田を抱いたまま、床に倒れ込んでしまった。そのとき八神は、一瞬だが、真田の頬(ほお)に触れた。
 《冷たい…》
真田の顔は夏なのに冷たかった。すわ一大事と思った八神は、迷わず精神科の診察を受けることを真田に薦めた。真田は拒絶しなかった。
次の日、真田は会社を休んで精神科へ行った。診断の結果は鬱(うつ)病だった。医師はその場ですぐ「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」第32条の適用申請書を書いてくれた。
 「これで診療にかかる費用は、95%都が負担してくれますよ」
八神は驚いた。
 「え?本当ですか」
 「この病気は辛抱強く加療する必要があります。そのためにも診療費は少ない方がいいですからね」
医師はにっこりと微笑(ほほえ)んだ。
 「ありがとうございます」
 「鬱(うつ)病は、正しく治療すれば、80%以上のひとが完治します。決して諦(あきら)めないでくださいね」
 「はい。分かりました」
八神はひと先ず安心した。
 「但(ただ)し…」
医師は続けた。
 「この病気に対して、ご家族の方が正しい知識を持たないと、治療が長引くことがありますから注意して下さい」
八神は真剣な面持ちで尋ねた。
 「その知識というのは、どんなものなのでしょうか?」
医師は、八神に小冊子を手渡した。
 「入門編として、これを参考にして下さい。ご家族が患者さんの環境を調えてあげることが、何よりも重要ですよ」
その日真田は、2週間分の薬を処方してもらった。内科の薬と異なり、精神科の薬は、効果が出るまで一定期間飲み続けなければならないとのことだった。そして一時的に会社を休むための診断書も受け取った。帰り途(みち)、八神は、随分と安心している自分に気がついた。
 「良かったわね、あなた」
 「うん」
真田は、初めての病に戸惑いを隠せなかったが、八神がこころ安らかにしているのを見て、気持ちがいくぶん和らいだ。
 「これで暫(しばら)く会社休んで、病気きちんと治して、それからまた頑張れば良いのよ」
 「うん」
帰宅したふたりは、さっそく医師からもらった小冊子を読んだ。
 ―鬱(うつ)病はこころの風邪です―
 ―鬱(うつ)病になるひとの多くは、ストレスをストレスと感じない性質を持っています―
 ―従って気づいたときには、ストレスを処理できないほど弱っています―
 ―家族が協力してストレスを取り除いてあげましょう―
八神は素直に尋ねた。
 「あなた。最近つらいとか思ったこと、何かないの?」
 「う〜ん。そうだなぁ」
真田はすぐには思いつかなかった。
 「分からないや」
 「ほら。やっぱりストレスをストレスとして感じることができないんだわ」
 「そうかなぁ?」
 「絶対そうよ。会社休んでる間、あなたが何が辛いのか、私がきちんと観察しますからね」
 「そんな。子供じゃないんだからさ」
 「いーえ。あなたは子供です」
八神は大見得を切った。
それから数日後、真田が会社を休んでいることを知って、八神の両親が見舞いに訪ねた。
 「まぁまぁ、この度は大変でしたね」
八神の母は祐の病を労(ねぎら)った。
 「お蔭さまで、ここのところ毎日気が楽です」
 「そう。それはよかったわ」
八神は三人にコーヒーを出した。母は続けた。
 「まぁ、この子がこんな性格ですから、あなたもいろいろと気を遣うことも多いんじゃないかと思って」
それを聞いた八神は口を尖(とが)らせた。
 「そんなことないわよ」
八神氏は、女の世間話にはついていけないと思ったのか、ふたりの間に口を挟んだ。
 「それでどうなんだね。会社の方へは行けそうなのか?」
八神は父親のことばに反発した。
 「パパ! そういう発言が彼のこころを傷つけるのよ」
 「ん? どういうことだ?」
八神は、両親に医師から貰(もら)った小冊子を読ませた。八神氏は唸(うな)った。
 「う〜ん。なるほどな。励ますのは却(かえ)って逆効果なのか」
 「そうよ。パパ、会社で祐さんに何か言ってないでしょうね」
 「いや、別に。なぁ、そうだろ?祐くん」
真田は突然水を向けられて慌てた。
 「そ、そうですね。特にないですね」
八神は猜疑(さいぎ)心が強くなっていた。
 「そうとは限らないわよ。祐さんは、ストレスをストレスと感じないところがあるんだもん。パパに酷(ひど)いこと言われたって、本人が気づかない内に傷ついているんじゃないかしら」
八神氏は娘のことばに噛みついた。
 「そんなことはないぞ。だいいち会社というものは競争社会なんだからな。お前が考えとるほど甘い所ではない」
そこへ今までコーヒーを飲んでいた母がぽつりと言った。
 「そうねぇ。そういう競争が、祐さんのこころを傷つけたのかもしれないわね」
八神氏は癇癪(かんしゃく)を起こした。
 「またお前はそんなことを! 大体お前のそういうところが、いぶきをこんな可哀想な目に遭(あ)わせているんじゃないのか?」
 「あら、どういうことですの?」
 「どうしたもこうしたもないだろうが! こいつとの結婚を許したときもそうだ。わしは気が進まんかったのに、お前がああだこうだと言うから…」
母は八神氏のことばを遮った。
 「いいじゃありませんか。もう過ぎたことなのに」
いぶきも母に加勢した。
 「そうよ。それにパパ、祐さんに失礼じゃない」
八神氏は分が悪くなって真田に援軍を求めた。
 「お、おい、祐くん。君はどっちなんだ?」
今の真田は、正直いって八神親子とあまり関わり合いたくなかったが、仕方なく答えた。
 「そうですね。お義父(とう)さんの意見にも一理ありますね」
八神氏は、さもありなんという風に頷(うなず)いた。
 「ほら、そうだろう。男というものは大体そうなんだ」
その後、八神の両親は夕食をとってから帰って行った。八神は真田に詫(わ)びた。
 「ごめんなさいね。パパが酷(ひど)いこと言って」
 「いいんだよ」
 「でも…」
その日、真田は疲れたと言ってすぐ床に着いた。八神は、食事の後片付けとのぞみの世話に追われ、夜半過ぎに床に着いた。八神が蒲団(ふとん)に入ったとき、真田はまだ起きていた。
 「あら。あなたまだ起きてたの?」
真田は疲れた声で答えた。
 「疲れてるんだけど、眠れないんだ」
 「だって寝る前に睡眠薬あんなに飲んでたじゃない」
 「でも眠れないんだよ」
 「仕様がないわね。私も付き合うから」
八神は、一緒に起きていると言いながら、10分もしない内に眠ってしまった。結局、真田はその夜一睡もできなかった。



八 三人寄れば

次の日、真田はいつになく体調が不良だった。疲れが取れず、一日中寝たり起きたりを繰り返していた。正確には、寝るといっても横になっているだけで、睡眠とは程遠いものだった。その様子を八神は訝(いぶか)しがっていた。
 《どうも変だわ…》
昨日までは結構普通に過ごしていたし、本人も気が楽だと言っていたからだ。
 《何が原因なんだろう?》
八神はここ数日あった出来事を頭の中で反芻(はんすう)してみた。精神科に行ったこと、会社を休んだこと、両親が見舞いに来たこと。
 《精神科に行くっていうのは、ちょっと抵抗があったかもしれないけど、別に精神的な苦痛じゃないわよね。会社を休んだのも気が楽だって言ってたし》
八神はいろいろと思いめぐらしていた。
 《もしかしてお見舞い?》
八神は昨日の出来事について熟考した。
 《ママの発言は特に問題なかったわよね。祐さんのこと、よく気遣ってくれたし。だとするとパパ?》
八神は、八神氏の発言をひとつひとつ思い出した。
 《会社に行けとか、私との結婚がどうのとか言ってたっけ。それから食事のときも…》
 「いやぁ、早く次の孫の顔が見たいなぁ。男の子がいいぞ」
そこまで思い出して、八神ははっとした。
 《パパが祐さんのストレスの素だったのね!》
意を決した八神は、ひかりに留守を頼むと、のぞみを連れて実家に乗り込むことにした。
 「あなた。食事の用意はここにしてあるから。私、ちょっと出かけてきます」
 「え?あぁ…うん」
 「ひかり、パパのこと、よろしくね」
 「は〜い」
八神はのぞみを連れて実家に行った。
 「パパいる?」
 「あら、いらっしゃい」
暖簾(のれん)の向こうから母が顔を出した。
 「パパは?」
母は合点が行かない顔をして言った。
 「パパなら今日ゴルフに行ったわよ」
 「何時ごろ帰って来るのよ?」
 「さぁ。夕食は要らないって言ってたけど」
八神は、父親の無神経さに立腹した。
 「んもう! パパは何やってるのよ!」
母は、八神を宥(なだ)めるように言った。
 「そんな、仕方がないじゃない。まぁ、とにかくパパが帰って来るまでここで待つ?」
 「もういいわよ!」
八神はそう言って実家を飛び出した。
 《パパのばか! パパのばか!! パパのばか!!!》
八神は、父親のことを考えるだけで、ますます腸(はらわた)が煮え繰り返る思いがした。のぞみは、八神のただならぬ感情を察知し泣き叫んだ。八神はのぞみの異状に気がついた。
 「あら。どうしたの? のんちゃん」
のぞみは一向に泣き止まなかった。
 「困ったわね。どうしよう」
八神は考えた。
 《このまま戻っても、祐さんのために何の解決にもならないわ。かといって、実家に行っても話にならないし。何かこの状況を打開する方法はないのかな》
そう考えながら歩いている内に、八神は、自分が無意識に時計坂に向かう電車に乗っていることに気がついた。
 《やっぱりここなんだわ》
八神は、時計坂駅の改札を出て真っ直ぐ一刻館に向かった。一刻館の廊下では、五代と冬樹がボーリングごっこに興じていた。五代がピンに見立てたペットボトルを並べ、冬樹がボールを投げる仕組みになっていた。
 「よぉし。冬樹、いいぞ」
 「いくぞ〜」
冬樹は、一人前に立ち位置を調節し、片目をつむって狙(ねら)いをすました。
 「えい!」
冬樹の放ったボールは、あさっての方向に転がり何度も壁にぶつかったが、結果的にピンを全て薙(な)ぎ倒した。
 「やりー!」
五代は教育的指導を行った。
 「今のはずるいぞ。壁に当たった奴は駄目(だめ)だよ」
そのことばに冬樹は反発した。
 「え〜! でもぜんぶたおれたよ」
 「倒れてもダ〜メ」
 「たおれたー」
 「駄目(だめ)ですー」
八神は、この不毛な応酬を一部始終見て、いつ声をかけようかと躊躇(ためら)っていた。
 「あの〜五代先生?」
 「へ?」
五代が玄関の方を見ると、のぞみを抱えた八神が立ち尽くしていた。
 「や、八神!」
 「先生。お邪魔でした?」
五代は、面白がって脚に絡みつく冬樹を追いやった。
 「いや。そんなことないよ」
 「よかった☆」
 「それよりどうした?」
八神は伺(うかが)うように五代を見た。
 「あの、ちょっとお部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
そこへ冬樹に連れられた響子がやって来た。
 「あら。八神さん」
八神は、響子に挨拶(あいさつ)した。
 「どうも。こんにちは、管理人さん」
五代は八神を招き入れた。
 「ま、立ち話も何だから」
 「はい。失礼します」
三人と冬樹が管理人室に入ったとき、春香は学校の宿題をやっていた。
 「こんにちは、春香ちゃん」
春香は八神の顔を覚えていた。
 「あ、おねえちゃん」
五代は、そっと春香に耳打ちした。
 「春香。ちょっと冬樹を連れて5号室で勉強しててくれないか?」
春香は、八神の沈鬱(ちんうつ)な表情に事情を察した。
 「は〜い。ほら、冬樹行こ」
 「え〜?」
春香は、引きずるようにして冬樹を連れ出した。五代は、春香が廊下の角を曲がったことを確認すると、ドアを閉めて八神を座らせた。
 「まぁ、散らかってるけど」
 「お邪魔します」
 「どうぞ」
響子は、八神に座蒲団(ぶとん)を勧め、茶を淹(い)れる用意をし出した。
 「で、どうしたんだ? 突然」
八神は、取り敢えず一刻館には来たものの、何を話せばいいのか分からなかった。五代は、黙り続けている八神の気持ちを察した。
 「今日は…真田くんのことだろ?」
 「えぇ」
八神は、お茶を濁して響子の方を盗み見た。響子は、八神のことを聞いてない振りをした。
 「実は主人が倒れまして…」
 「そうだったのか」
 「それでいろいろと考えたんですけど、どうやら原因は父のようで」
五代は、練馬の喫茶店で八神氏が黙ってしまったことを思い出した。
 「ふうん。じゃぁ親父さんもそれを自覚してるっていう訳か?」
 「いえ。それが、この間も祐さんを励ますようなことをずけずけと」
 「そうか。あの親父さんじゃ、分からせるのは難しいか」
そこへ響子が黙って茶を差し出し、盆を抱えて自分もちゃぶ台に着いた。
 「そうなんですよね。私が言ってもどうせ喧嘩(けんか)になるだけだし、かといって妙案がある訳でもなくて」
そう言って、八神は湯のみを持ったまま俯(うつむ)いた。五代は、何か言わなければと思ったが、八神に対して確たるアドバイスもできなかった。暫(しばら)く沈黙が続いた。長い時間が経ったように思われた。すると突然響子が訥々(とつとつ)と口を開いた。
 「あの…あたしが口を挟むことじゃないかもしれないんですけど…」
 「ん? 何」
 「音無のお義父(とう)さまに相談してみるのは、どうかしら?」
 「音無のじいさんか」
 「えぇ。お義父(とう)さま、長いこと教育者としてやってらした方だし、こういう問題には適してるんじゃないかと思うんです」
五代は頤(おとがい)に手を遣って考えた。
 「そうだな。確かにそれはいいかもしれないな」
 「ね?あなたもそう思うでしょ」
五代は両膝(ひざ)を叩(たた)いた。
 「よし! 八神。音無のじいさんとこに行こう」
八神は不思議そうな顔をした。
 「音無のじいさん、ですか?」
 「そうだ。知らないか? 惣一郎さんのお父さんだよ」
 「惣一郎さん…って亡くなった前のご主人の?」
八神は、五代が響子の前の家に拘泥なく接していることに驚いた。



九 音無老人の秘密

 ゴロゴロ…。
夕方から怪しかった空が雷雨になった。あまりにはげしい雨脚に、五代たちは江古田駅で暫(しばら)く様子をみることにした。
 「これじゃバスにも乗れないな」
八神は、のぞみが濡(ぬ)れないように、庇(ひさし)の奥に引っ込みながら外を見ていた。
 「すぐ霽(や)むかしら?」
 「どうかしらね」
響子は、時計を見て公衆電話から音無家に連絡を入れた。
 「もしもし」
 「あら、響子さん?」
 「はい。いま駅にいるんですけど、雨が凄(すご)くって。あの、予定よりちょっと遅れそうなんですが」
 「いいのよ。ウチは遅くなっても構わないから」
 「済みません。なるべく早く行きますので」
 「気をつけてね」
五代は、電話の内容が気になるようだった。
 「で、何だって?」
響子は安心したように報告した。
 「お義姉(ねえ)さま、遅くなっても大丈夫ですって」
 「そう」
すると八神は、屋根の縁(へり)まで出て手を翳(かざ)した。
 「先生、少し小降りになってきたみたい」
五代は、列が作られ始めたバス停を見て言った。
 「それじゃ行くか」
三人は傘を差して小走りにバス停に向かった。果たしてバスは直ぐに来た。
 「あぁ、ひでぇひでぇ」
五代たちは傘の露を払い、バスに乗り込んだ。バスの内部は、乗客のひといきれでむしむしとしていた。
 「はい。中野行き、発車しまーす」
運転手の声とともにドアが閉まり、バスは揺れながらゆっくりと発車した。のぞみは、バスの乗り心地が気に入らないようだった。バスがカーブにさしかかると、その度にぐずった。五代たちがバスを降りた時には、雨は既に止み、西の空は晴れて明るくなっていた。五代は天気の目まぐるしい変化に呆(あき)れた。
 「”夏の雨は馬の背を分ける”ってのはホントだな」
バス停から音無の家は、目と鼻の先だった。五代たちは、予定より30分ほど遅れて到着し、音無老人のいる居間に通された。
 「お義父(とう)さま、済みません。突然お伺(うかが)いして」
 「いいよいいよ。どうせいつも家にいるんだ」
音無老人は、五代たちを歓待してくれた。
 「どうぞ。粗茶ですが」
郁子の母は茶を勧めた。
 「どうも」
五代は、八神を音無老人の真正面に座らせて言った。
 「実は、今日ここに伺(うかが)ったのは、この子の相談なんですが」
音無老人は眼鏡を掛け直して八神を見た。
 「ほぉ。これは誰かな?」
 「はい。以前、教育実習でお世話していただいた高校の教え子で、真田といいます」
八神は神妙に頭を下げた。
 「真田いぶきと申します。本日は突然お伺(うかが)いして、申し訳ありませんでした」
 「いやいや。それで相談というのは?」
八神は襟(えり)を正した。
 「はい。実は父のことなんです」
 「ほぉ。お父上の」
八神は、真田が鬱(うつ)病に罹(かか)ったこと、八神氏が真田に精神的な圧力をかけていること等を説明した。音無老人は、それにいちいち尤(もっと)もらしく耳を傾けていた。
 「ふん、なるほどな。それでわしにお父上を説得する手立てを教えてほしいと?」
 「はい。是非ともご指導いただきたく」
 「そうだな…」
音無老人は腕を組んで暫(しばら)く思案に耽(ふけ)っていた。その間、五代は一歩下がって庭を見上げていた。空は完全に晴れ上がり、軒先から垂れていた雫(しずく)もなくなっていた。音無老人が考えている間、八神は、音無老人の一挙手一投足を凝視していた。暫(しばら)くして、音無老人は、徐(おもむ)ろに八神の方に顔を向けた。
 「真田くん。そうだな、一度お父上をここに呼んだらどうだろう?」
 「え? それでは…」
 「うん。君がいろいろ言うより、わしが説得した方が早いような気がするよ」
すると響子がふたりの間に割って入った。
 「お義父(とう)さま、それではあたしたちの申し訳が立ちませんわ」
 「ん? そうか?」
 「あたしたちは、別にそんな意味でお義父(とう)さまにご相談に伺(うかが)ったんじゃありませんわ」
五代も、響子に連袂した。
 「そうですよ。これは八神自身の問題なんですから」
 「八神…?」
音無老人は、五代のことばに反応した。
 「五代くん。こちらは真田くんではないのかね?」
 「あ、はい。結婚して真田になりましたが、旧姓は八神です」
それを聞いた音無老人は、意外な事を八神に尋ねた。
 「お父上は幾つかな?」
突然の質問に、八神は戸惑いながら答えた。
 「68ですが」
 「ふん。それで下の名前は?」
 「正雄といいます」
 「ほぉ」
音無老人は、髭(ひげ)を撫(な)でながら、にこにこと何度も頷(うなず)いた。
 「うんうん、真田くん。首に縄を付けてもいいから、お父上をここに連れて来なさい。その代わり、わしの名前は伏せてな」
 「…はい?」
八神は、鳩(はと)が豆鉄砲を食らったような顔をして答えた。



十 音無家の酒宴

次の土曜日、八神はのぞみを連れて実家に押しかけた。八神氏は、たまの休日に八神が孫を連れて来たので、上機嫌だった。
 「やぁ、よく来たよく来た」
しかし八神はそんな父親を無視し、のぞみを母親に預けた。
 「ママ。ちょっとこの子、お願い」
母は、突然孫の世話を頼まれて驚いたが、八神の様子から何となく事態を察することができた。八神は、続いてのぞみ用のバッグを母に渡した。
 「この子、一応何でも食べるから。それからこれが紙襁褓(おむつ)。ウェットティッシュもこの中に入ってるからね」
 「はいはい。分かりましたよ」
一方、八神氏は事態をまだ飲み込めていないようだった。
 「おい、いぶき。遊びに来たんじゃないのか?」
 「パパ、ちょっと来てちょうだい!車の鍵(かぎ)は?」
父は、訳の分からないまま、八神に従って車の鍵(かぎ)を渡した。
 「一体何なんだ? いぶき」
 「いいから!今日はパパに会わせたい御仁(ひと)がいるのよ!」
八神は父を車に押し込めた。
 「ほら、ちゃんとシートベルト締めて!」
 「おい、いぶき。何処(どこ)に行くんだ?」
 「中野の方よ」
 「中野だと?」
八神は、青梅街道を新宿方面に向けて車を飛ばした。八神氏は戸惑っていた。
 「お前、何で私が中野なんぞに行かにゃならんのだ」
 「だから! 会ってほしい御仁(ひと)がいるって言ったでしょ?」
 「誰なんだ? それは」
 「行けば分かります!」
八神氏を乗せた車は、20分ほどで音無家に到着した。
 「パパ。ここよ」
八神は、気後れする父をひいて、音無家の門を敲(たた)いた。
 「ご免下さい」
 「はいはい」
郁子の母が応対して、ふたりを客間に案内した。
 「ここは…?」
八神氏は、珍しい物でも見るかのように、音無家の造りを見回していた。
 「どうぞ。ここでお待ち下さい」
八神親子は茶を出され、客間で待たされた。八神氏は声を殺して八神に尋ねた。
 「おい、どういうことなんだ? こんな所まで来て、誰に会わせようっていうんだ?」
 「黙って。お行儀よくしてよ」
八神はそう言って茶を啜(すす)った。数分後、奥の部屋から音無老人が現れた。
 「いやぁ。真田くん、遅くなったね」
八神は、父親の説得する労を謝して音無老人に頭を下げた。八神氏も、訳が分からないまま頭を下げた。音無老人は、にこにこして八神氏にこう話しかけた。
 「うんうん。それにしても久し振りだなぁ、八神くん」
 「は?」
八神氏は顔を上げた。そこには年老いた恩師の姿があった。八神氏は、驚きのあまり目を瞠(みは)った。
 「音無先生ではありませんか!」
音無老人は、八神氏ににっこりと微笑(ほほえ)んだ。
 「いやぁ、八神くん。元気だったかい?」
八神氏は、感じて改めて頭を下げた。
 「お懐かしゅうございます。全くご無沙汰(ぶさた)しておりまして」
 「え?」
八神は、刹那(せつな)何が起こったのか分からなかった。音無老人は八神に詫(わ)びた。
 「真田くん、済まなかったね。実は君のお父上は、わしの教え子だったんだよ」
 「え! そうなんですか?」
八神は驚き、改めてふたりを見比べた。そこへ八神氏が補足した。
 「そうなんだ。音無先生は、私の高校時代の恩師なんだよ」
八神は、漸(ようや)く自分を取り戻し、音無老人が名前を伏せるように言った意味を理解した。
 「いやぁ、ちょっと君を驚かせようと思ってね」
音無老人は、八神に向かって年甲斐(がい)もなく舌を出した。
 「ということで、後はわしに任せて、君は帰りなさい」
 「はい。では父のこと、どうぞよろしくお願い致します」
八神が帰った後、八神氏は、音無老人と酒をくみ交わし、久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)した。宴も酣(たけなわ)になったころ、音無老人は今日の本題に入った。
 「ところで八神くん。君のところのお婿(むこ)さんが鬱(うつ)病なんだって?」
八神氏は驚いた。
 「え? 先生。なぜそれを」
音無老人は、杯(さかずき)を傾けながら、事も無気に言った。
 「うん。このあいだ君の娘さんが五代くんに連れられて来てね」
八神氏は頭を掻(か)いた。
 「そうでしたか。いや、お恥ずかしい限りで」
 「君、恥ずかしいもんかね。最近そういう事がやっと公然と言えるようになったんだよ」
 「は?」
 「わしは職業柄、何人もの人間を見てきたが、昔は精神病というのは特別視されててね。精神病だなどというと、そのひとの社会的人生は終わったようなもんだったよ」
 「はい。仰るとおりで」
 「でも今は違う。鬱(うつ)病などは、誰でも罹(かか)り得る病気なんだそうだ。そういう認識が広まってきているんだな」
 「おことばですが、先生。そういう人間というのは、根性が足りないからかかるんじゃないですかな?」
 「そんなことはないぞ。みな責任感の強い好青年が多かった」
そう言われて、八神氏は意外そうな顔をした。
 「そういうものでしょうか?」
 「そういうもんだよ。彼らは生真面目ゆえ、困難に直面したとき、矛先を自分に向けてしまう」
 「なるほど」
音無老人は八神氏に酒を注(つ)いだ。
 「こりゃどうも」
 「それでますます鬱屈(うっくつ)していくんだな」
 「では、それを解消するには、どうしたらいいのでしょうか?」
 「そうだな。先ず彼らが困難に思っとることを取り除かねばならん。本人が取り除けないんなら、周りが取り除いてやる必要があるな」
 「周りがですか…」
 「一番いけないのは、周りが本人に困難なことを強(し)いてる場合だね」
八神氏はそう言われてちょっと心外だった。
 「祐くんの場合、会社生活は別に問題ないと言っておりましたが」
 「それは本当かな?」
 「…え?」
 「彼は何かを隠しておるんじゃないのかね?」
 「隠す…」
 「うん。誰かから何かを押しつけられておるんじゃないのかね?」
 「さぁ、それは…」
 「分からんかね、君。それじゃぁ、彼の病気は当分治らんな」
八神氏は黙ってしまった。音無老人は新しい徳利を取って八神氏に酒を勧めた。
 「そら。まぁ、一献(いっこん)」
 「は、恐縮です」
八神氏は、音無老人に進められて杯(さかづき)を乾(ほ)した。
 「八神くん。人間というものは、思いもよらないところで他人(ひと)を傷つけていることがあるんだよ。わしの言ってる意味が分かるかね?」
 「先生。まさか今回の原因は私にあると?」
 「よくよく考えてみたまえ」
八神氏は、会社で自分が真田にどのように接しているかを考えてみた。自分は彼を気遣い、彼の力になりたいとも申し出た。それに彼の負担になるようなことは何も言っていない。
 「済みません。先生の仰ることが飲み込めません」
音無老人は呆(あき)れて腕を組み直した。
 「君は、昔っからそういう性格だったな」
 「面目ないです」
八神氏はあれこれとことばを探していた。音無老人は泰然(たいぜん)と肴(さかな)を摘(つま)んで口に運んだ。
 「わしにも、君んとこの娘さんくらいの孫がひとりおるよ。もう結婚して子供もいる。曾孫(ひまご)だな」
 「それは可愛いでしょうな」
 「うん、可愛い。たまに家に遊びに来るが、来たときは家中もう大騒ぎでな」
 「そうでしょう、そうでしょう。解ります」
 「わしなんかはもうこの歳だ。子供たちが来てくれるのは嬉しいが、帰った後にどっと疲れが出てくる」
   「お察し致します」
 「君は知っているか? このあいだ新聞の川柳にこんなのがあった」
  きてうれしい かえってうれしい まごのこと
八神氏は川柳を小声で復唱した。
 「いや、これは至言(しげん)かもしれませんな」
 「まぁ、人間なんて都合のいいものだよ。我々は、孫に対して責任なんてないからな」
 「確かに」
 「でも親は大変だ。教育のこと、経済のこと、いろいろ考えてやらにゃぁいかん。責任も重大だ」
 「ご尤(もっと)もで」
 「だからね、我々は、孫のことにとやかく口を挟むものじゃないんだ」
八神氏は、そこまで聞いて音無老人の意図をやっと理解した。確かに自分は、真田に対して、家でも会社でも、毎日のように孫をせがんでいた。これが真田の鬱(うつ)の原因だったのか?信じられなかったが、音無老人のことばを総合的に解釈すると、そう考えるしかないように思われた。八神氏は靦汗(てんかん)した。
 「先生。孫をせがむというのは、そんなに精神的な負担をかけるものなのでしょうか?」
 「そりゃ当たり前だよ、君。君だって毎日、会社で数字に追い回されているんだろう? あれは気持ちのいいもんでもあるまい」
 「……」
八神氏は、猪口(ちょこ)を持ったまま硬直した。そんな八神氏を、音無老人はやさしく微笑(ほほえ)むように見守っていた。
 その後、八神氏の理解が得られた真田は、3ヶ月ほどで見事に復職する事ができた。休職中は給与が無かったため、真田家は貯金を切り崩してしまったが、それでも八神は嬉しかった。
 「行って来ます!」
今朝も真田の力強い声がアパートにこだました。
 「いってらっしゃ〜い」
八神は、三人の娘とにこやかに真田を見送った。(完)