春の椿事(ちんじ)
作 高良福三
序 春香と冬樹の入学式
笠を被(かぶ)った朧(おぼろ)月夜に、沈丁花(ぢんちょうげ)の甘酸っぱい香りが、何処(どこ)からかともなく漂ってくる。散りかけた枝垂(しだ)れ梅が月の光に照らされ、暗い夜空に疲れたような姿を浮き上がらせている。桜の蕾(つぼみ)も濃い桃色に膨らみ、もうすぐ花が開きそうだ。時計坂商店街では、あちこちに桜祭りの看板が立ち上り、電柱には桜の造花が街を見下ろしている。
五代は明日行われる卒園式の準備に余念がなかった。一月ほど前開かれたしいの実保育園の職員会議で、五代は司会進行役を任されたのだ。着慣れない背広を準備する響子も、大忙しだ。一昨日はクリーニングに出した背広を取りに行き、今日はYシャツにアイロンを掛けている最中だった。
「えーっと、最初は園長の挨拶(あいさつ)で、それから…」
五代は、式次第を一生懸命頭に叩(たた)き込んでいた。
「…で、園児の歌があって、それから…えーっと、それから…。だーっ! 分からん。もう一度初めからだ」
そんな五代の様子をよそに、春香が嬉しそうに五代に抱きついた。
「パパー☆」
「何だよ、春香。パパ、いま忙しいんだ」
「パパ、見て見て!これ、中学校の制服☆」
春香はセーラー服を着て、自慢気にくるっと回って見せた。プリーツの入ったスカートの裾(すそ)が軽やかに開く。
「あぁ、春香。可愛いね」
「うふ☆」
春香は時計坂小学校を卒業し、この春から時計坂第2中学校に入学することになっていた。冬樹も今年から時計坂幼稚園に入る。
夕食の仕度を始めた響子が、五代に尋ねた。
「あなた。入学式、どうします?」
「どうしますって、何が?」
「いえ、春香と冬樹の入学式が同じ日でしょ?」
「あぁ、そうだったな」
トントントン…。
響子は、俎板(まないた)の上で軽やかに胡瓜(きゅうり)を刻みながら、言った。
「最近は両親で参観する家庭が多いのよ。せめて家もふたりで手分けして参加してあげないと」
「う〜ん。手分けって言っても、俺は仕事があるしな…」
「休めないんですの?」
「ん? まぁ…」
「ねぇ、こんなご時世に父兄がひとりも来ないっていうのも、何だか可哀相じゃありません?」
「まぁな…」
五代は自分の幼少時代を思い出していた。その頃、五代家では、一家で定食屋を営んでおり、そういった父兄同席の行事は、誰にも来てもらえなかったからだ。
「確かに、ふたりとも行ってやらないというのは、ちょっと可哀相だな」
「ねぇ、あなた。春香の入学式と冬樹のと、あたしたち両方出られないかしら?」
「両方!? だって同じ日なんだろ?」
「幼稚園と中学校は近いんですから、時間をうまく調整すればできるんじゃないかしら?」
「そうはいってもなぁ…」
五代は、困ったように響子を見上げ、ポリポリと鬢(もみあげ)を掻(か)いた。響子は料理の手を休めて、炬燵(こたつ)の上に置いた入学式のお知らせのプリントを広げた。
「えーと…幼稚園が8時半から、中学校の方が時半だわ」
「1時間か…微妙な線だな」
「でも不可能な時間じゃないわよね?」
「ホントに両方行くのか?」
「行きましょうよ」
「ちょっとその前に、子供たちの意見も訊いてみないか? もしかしたら、ひとりずつでいいってこともあるだろ?」
「それもそうね」
五代は炬燵(こたつ)に入って絵本を眺めている冬樹に尋ねた。
「おい、冬樹」
「なーに?」
「お前、幼稚園の入園式、パパとママのどっちに来て欲しい?」
「えーっ!? パパとママがきてくれるんじゃないの?」
「おねえちゃんと同じ日なんだよ。パパかママか、どっちかしか行けなかったとしたら、どうする?」
「う〜ん…」
冬樹は暫(しばら)く悩んだ末にこう答えた。
「ママがいい!」
それを聞いた春香が冬樹に噛(か)みついた。
「えーっ!? あたしもママに来て欲しかったのに!」
「ぼく ママがいいんだ!」
「あたしもママがいい!」
「ううん ぼく!」
「あたし!」
ふたりの喧嘩(けんか)が始まってしまった。
「ほら! ふたりとも喧嘩(けんか)はしないで!」
五代はそう叱責(しっせき)した。響子が料理を再開しながら言った。
「やっぱり両方行かないと駄目(だめ)みたいですね」
《あぁ、俺、なんか形無しだな》
五代は情けない気持ちになった。
一 二階堂、再び
二階堂は、会社から自宅に帰る車の中で溜(ため)息を吐(つ)いた。
《やれやれ…。これで鬱陶(うっとう)しい自宅通勤からもおさらばだ》
二階堂は2月の辞令で、東京にある本社に異動が決まっていた。二階堂も今年で35歳。やっと仕事を覚えだした矢先の出来事だった。
《また東京か…。そういえば、管理人さん、どうしてるかな?》
二階堂は、忘れかけていた一刻館の記憶を、何となく掘り起こしていた。
《もう結婚しているのかな、三鷹さんと》
二階堂は、五代と響子の結婚前に一刻館を出ていたので、ふたりの結婚を知らなかった。
フロントガラスは、賑(にぎ)やかな大工(だいく)町を越えて、閑静(かんせい)な住宅地のあかりを映していた。茨城の公共交通機関は利便性に乏しく、また駐車場も格安のため、殆(ほとん)どの社員は、車で通勤している。二階堂は自宅の駐車場に車を駐(と)めると、タバコを吹かしながら玄関へと足を向けた。
「ただいま〜」
すると台所から二階堂の母が顔を出した。
「あら、望ちゃん。お帰りなさい」
「うん」
「4月からまた東京なのね。ママ、とっても心配だわ」
「大丈夫だよ」
「今度こそ陽当たり良好の3LDKを探してあげるからね」
「そんなこといいって」
「駄目(だめ)よ。また東京の叔母さまの友達のいとこさんにお願いするから」
「だからいいってば。僕だってもう、立派な社会人なんだから」
「でも前みたいに崩壊寸前のぼろアパートなんかに入ったら、ママ、恥ずかしくて親戚(しんせき)も呼べやしないわ」
「親戚(しんせき)なんて呼ばないよ。とにかく僕がちゃんと自分で探すって」
「そぉ?」
「これから荷作りとかするから、ママは夕食の準備しててよ」
「そんな…。んもう、ママは知りませんからね!」
二階堂の母は、不服そうに台所に戻って行った。二階堂は考えた。
《そうだな。荷作りもいいけど、住む場所を決めなきゃな》
二階堂は部屋着に着がえると、電話に向かった。
その頃、一刻館では、響子が夕食の準備をしていた。
ジリリリン、ジリリリン…。
響子は夕食を作る手を止めて、廊下のピンク電話に走った。
「はい。一刻館でございます」
「あ、管理人さんですか? 僕、二階堂です」
「まぁ、二階堂さん? お久し振りね。その後、お変わりありません?」
「はい。お蔭さまで。それで、管理人さん。お訊きしたいことがあるんですけど」
「はい。何でしょう?」
「管理人さんは、今でも一刻館に住んでいるんですか?」
「住んでますけど、それが何か?」
「いえ。あの…2号室は空いてますかね?」
「はい。空いてますけど…」
「じゃぁ僕、またお世話になりたいんですけど」
「え? だって二階堂さん、ご実家に帰られて、水戸の会社に就職なさったんじゃ…」
「いえ。この4月から東京の本社勤務になりまして」
「あら、そうだったんですか」
「はい」
「でも…いいんですの? こんなぼろアパートで」
「はい。本社が池袋の方なので、通勤にも便利ですし」
「はあ…」
「じゃぁ、決まりですね。今度の日曜日に僕、不動産屋に行って手続きをしますから。えーと、そこって確か時計坂不動産でいいんですよね?」
「そうです。家とお取引があるのは、そこだけですから」
「じゃ、管理人さん。また宜しくお願いします」
「はい。お待ちしておりますわ」
チン…。
受話器を置いた響子は、内心げっそりしていた。
《また四谷さんたちが変なことしなければいいけど…》
管理人室に戻った響子の顔の微妙な変化に、春香が真っ先に反応した。
「ママ、どうしたの?」
「え?ううん、何でもないのよ」
「でも…」
響子は笑顔を作って見せた。
「今度、新しいひとが2号室に入るの」
春香は俄(にわ)かに表情を明るくした。
「ねぇ、ママ。そのひと、女のひと?男のひと?」
響子は小さな溜(ため)息を漏(も)らしながら言った。
「残念ながら、男のひとよ」
「何だ。つまんな〜い」
響子は春香を窘(たしな)めた。
「春香、そんなこと言うもんじゃありません。ここのお家賃だって、大事なウチの収入なのよ。第一、こんなぼろアパートに入ってくれるだけでも、ありがたいと思わなきゃ」
「は〜い」
春香は、響子の小言を左から右へ受け流した。
ガタンッ…。
「ただいまー」
五代が帰ってきた。
「あ! パパだー☆」
冬樹はふてくされている春香をよそに、ひとり管理人室を出た。
「パパー☆」
冬樹は玄関まで五代を迎えに行った。響子は、そんな冬樹の後ろ姿に微笑(ほほえ)み、夕食の仕上げにかかった。
「ただいま」
五代が管理人室に入って来た。
「おかえりなさ〜い☆」
春香は少し興奮気味だった。
「あのねあのね、パパ。こんど新しいひとが入るんだって!」
「へぇ〜。響子。ホントかい?」
響子は料理をちゃぶ台に並べていた。
「えぇ、まぁ…」
「どんなひと?」
響子は一瞬躊躇(ためら)ったが、肝を据えた。
「二階堂さんですわ」
五代は驚いてバッグを落とした。
「なに!? 二階堂だと?」
響子は飯を装(よそ)いながら清(す)まして言った。
「あら、そんなに驚くことないじゃありませんか。元住人ですし」
五代はバッグを拾って、定位置に置き直した。
「いや、元住人とかそういうんじゃなくて、あいつは台風みたいなもんだろう」
響子は味噌汁を注(つ)ぎだした。
「もう四谷さんも一の瀬さんも、いたずらはしないでしょ」
「まぁ、そうだとは思うけど…」
「春香、冬樹。手を洗ってから席に着きなさい」
『はーい☆』
春香と冬樹は、廊下の流し台へ向かった。
「あなたも、ご飯冷めちゃうから、早く席に着いて下さいな」
「あ、あぁ…」
そこへ春香と冬樹が元気良く戻って来た。
「手、洗って来たよー☆」
「じゃぁ、いただきましょう?」
五代は取り敢えず号令を発した。
「いただきます」
『いただきまーす☆』
管理人室からは、今日も明るい笑い声が漏れていた。
二 突然の来訪者
日曜日、響子は2号室で掃除機をかけていた。その音を怪しんで、一の瀬が顔を出した。
「あんた、日曜なのに何やってんのさ?」
「え?」
響子は驚いたように振り向いた。
「あぁ、一の瀬さんでしたか」
「どうしたってんだい? 誰か新しいひとでも入るの?」
「えぇ。二階堂さんがまた入るんです」
「二階堂くんが…どうして?」
「何でもこの4月から東京の本社へ異動になったとか」
「それでまた、ここに入るってのかい?」
「はい。今日、時計坂不動産へ手続きに行くって」
一の瀬は腰に手を回して、呆(あき)れたようにカップ酒を一口飲んだ。
「あいつも数寄(すき)者だねぇ。こんなぼろアパートにわざわざ入ろうってんだから」
響子は掃除機のスイッチを切った。
「あら、いいじゃありませんか。こちらとしても、店賃(たなちん)が増えて助かりますわ」
「ま、あんたはそうかもしれないけど、こっちの身にもなっておくれよ」
一の瀬はタバコに火を点(つ)け、大きく吸い込むと、2階へ上がって行った。
「四谷さん。ちょいと、四谷さんってば」
響子は、そんな一の瀬の姿に微笑(ほほえ)んだ。
掃除機をかけ終った後、響子は、畳の雑巾(ぞうきん)がけをした。
「っふー。これで完了ね」
響子は2号室のドアから改めて部屋の中を見回した。黒光りする柱、ところどころ欠けている土壁、歪(ゆが)んだ襖(ふすま)。その中で、最近修繕したアルミサッシだけが光り輝くようだった。
「そうだ。風も入れなくちゃ」
響子はサッシを全開した。2号室にあたたかい春風が吹き抜けた。
「あぁ、いい気持ち」
響子は額(ひたい)の汗を軽く拭(ぬぐ)いながら、掃除機と雑巾(ぞうきん)を片づけていた。
ガタン…。
玄関の扉が突然開いた。
「ちわー。引越しセンターですけど、2号室はどちらですか?」
「え!?」
響子は反射的に掃除機を持って2号室のドアを譲った。
「こちらです。どうぞ…」
引越しセンターの作業員は、ドヤドヤと搬入の作業を始めた。
「おーい! 2号室、こっちだってよ。行くぞ!」
『はい!』
作業員たちは、扉を開け放ち、防護用のマットで養生し、玄関の三和土(たたき)に毛布を敷いて、次々に荷物を運び込んだ。その横で掃除機を持ったまま、響子は立ち尽くした。
《何なのかしら…》
そこへ小洒落(こじゃれ)た恰好(かっこう)をした男が入ってきた。
「管理人さん!」
「え?」
響子は、声の主の方に向くと、表情を明るくした。
「あら、二階堂さんじゃありませんか」
「はい」
二階堂は、にこにこしながら靴を脱いで上り框(がまち)を上がった。
「さっき時計坂不動産で手続きを済ませたんですけど、4月までもう時間がありませんから、ついでに荷物も運び込ませていただきました」
響子の後ろを作業員が通った。
「おねえさん、ちょいとご免よ」
「あ、はい」
響子は荷物を避(よ)けた。
「そ、そうでしたの」
「済みません、管理人さん」
「え? 何が?」
「2号室の掃除、してくれたんでしょう?」
「まぁ、管理人ですから」
「いやぁ、感激だなぁ。管理人さんが掃除してくれた部屋に入れるなんて」
二階堂は嬉しそうに頭の後ろで指を組んだ。
「管理人さん、もう結婚なさっているんですよね?」
「え? あ、はい。一応…」
「お相手は三鷹さんですか?」
「え…」
響子はどう答えればいいか分からなかった。
《やだ、この子。あたしが五代さんと結婚したこと、知らないんだわ》
二階堂は、響子の沈黙を肯定(こうてい)と解釈した。
「それにしても大変ですね。あんなお金持ちと結婚しても、こんなぼろアパートに住まなきゃならないなんて。三鷹さん、嫌がりませんか?」
《どうしよう。何て言おうかしら》
そこへ浴衣姿の四谷と一の瀬が階段を下りてきた。四谷はあまりのほこりっぽさに、口に袖(そで)を当てた。
「管理人さん、やけに騒がしいですな。何ですか、これは?」
ふたりは既に顔を赤らめていた。響子が窘(たしな)めた。
「またっ! ふたりとも昼間っからお酒なんて!」
「おや〜」
四谷は、響子の言うことを聞いていないかのように、二階堂を見た。
「これはこれは。坊ちゃんじゃありませんか!」
二階堂は不敵な笑みを浮かべて言った。
「お久し振りです。四谷さん、一の瀬さん」
「今日は不動産屋に行くんじゃなかったんですか?」
「はい。いま不動産屋に行って、こっちに来たばかりです」
そこへ一の瀬はニヤニヤしながらしゃしゃり出てきた。
「荷物なんて運ばせちゃって。契約は済んだのかい?」
「まだですけど、どうせここに住むんだから、早い方がいいかなって」
「ほぉ…。さすがは坊ちゃん。疾(と)きこと風の如(ごと)く、ですな」
三人のやりとりを聞いていた響子は、パンパンと手を叩(たた)いた。
「はい。皆さん、散って散って。そんな集まるほどのことじゃないでしょ。お引越しの邪魔ですよ」
一の瀬と四谷は、渋々と引き上げることにした。
「ま、飲み直すかねぇ」
「そうしますかな」
ふたりは階段を上がって行った。そのとき一の瀬が、思い出したように振り返った。
「ほれ、二階堂くん。あんたも来な」
「はい!」
二階堂は元気の良い声で答えた。響子は誤解を解こうと、慌てて二階堂を引き留めた。
「二階堂さん、ちょっと待って…」
二階堂は心得ているかのように、響子に言い含めた。
「大丈夫ですよ、管理人さん。別に乱闘騒ぎとかは起こしませんから」
「あの! そうじゃなくて…」
二階堂は、言うが早いか、作業員の合間を抜けて階段を上がって行ってしまった。
「んもう!」
響子は掃除機を持って、管理人室へ戻って行った。
三 四谷の部屋
二階堂は、一の瀬の後を従(つ)いて行った。黙々と歩き続けるふたりに、二階堂は不躾(ぶしつけ)に質(ただ)した。
「どこ行くんですか?」
一の瀬は面倒臭そうに言った。
「あんたの歓迎会でもやってやろうかと思ってね」
「歓迎会ですか!? 嬉しいです!」
「そうかい」
そう言って三人は5号室の前を通過した。二階堂が訝(いぶか)しがって訊ねた。
「あれ? 歓迎会は5号室じゃないんですか?」
『!』
四谷と一の瀬は驚いた。5号室は五代家の箪笥(たんす)部屋になっていて、宴会部屋としてはとうの昔に使われなくなっていたからだ。それを二階堂が知らないのは当然だが、ふたりは、これから何か面白いことが起きるような予感を察知したのだ。
「あんた、知らないのかい?」
「え? 知らないって、何が?」
四谷はほくそえんだ。
「んふふ〜ん。一の瀬さん。坊ちゃんを呼んだ甲斐(かい)がありましたなぁ」
一の瀬も意地悪そうに嗤(わら)った。
「そうだねぇ。思い掛けない酒の肴(さかな)になったねぇ」
二階堂はふたりのことばが解(げ)せなかった。
「どうぞ」
四谷は自分の部屋のドアを開けた。
「わぁ…」
二階堂は思わず声を上げた。四谷の部屋は、まるで時代劇のセットであるかのようだった。左側の壁には、右上りの階段箪笥(だんす)があり、奥は艶(つや)のある桐(きり)箪笥(だんす)が置かれていた。また長押(なげし)には、弓張提灯(ぢょうちん)が掛けてあり、壁の上の方には、高尾山のペナントと金剛杖(づえ)が飾ってあった。更に天井からは、年代のよく分からない刀剣が吊(つ)るされ、台所には、「火の用心」の貼(はり)紙があった。
「ささ、どうぞどうぞ」
四谷はふたりに火鉢を勧めた。3月といっても、室内はまだひんやりしていたからだ。よく見れば、火鉢の周りには、飲みかけの一升瓶(びん)や缶ビールが散乱していた。二階堂は辺りをきょろきょろ見ながら、躊躇(ためら)うようにして胡坐(あぐら)をかいた。
「歓迎会ってここでやるんですか?」
一の瀬はあっけらかんとして答えた。
「何か不満かい?」
「あの…三人だけ? 五代さんと朱美さんは?それに管理人さんもいないじゃないですか!」
一の瀬はグラスに酒を注いだ。
「あぁあぁ、管理人さんなら、後から呼ぶよ」
そこで四谷は勢い良く立ち上がった。
「それでは皆さん。二階堂くんとの再会を祝って」
『かんぱーい!』
わははは…。
あ、ちゃかぽこ、ちゃかぽこ…。
いつもの宴会が始まった。
一方、2号室では、引越しの搬入作業が終わり、作業員は引き上げることになった。
「あの、ここにサインを戴(いただ)けますか?」
「はいはい」
響子はサインして作業員に渡した。
「では、ありがとうございました」
作業員は帽子を脱いで頭を下げた。
「はい。ご苦労さまです」
響子は管理人室に戻った。
「はぁ、これで一段落ね」
管理人室では、五代が冬樹と遊んでいた。五代は管理人室に入って来る響子に気がついた。
「あぁ、二階堂の引越し、終わったんだ?」
響子は、ほっとしたようにPIYOPIYOエプロンを脱いで髪結いを解き、茶を淹(い)れていた。
「えぇ。2階ではもう、歓迎会が始まってるようですわ」
わははは…。
確かに天井からは、ドスンバタンという足音が聞こえてきている。五代は冬樹の手を取って立ち上がった。
「どれ、俺も顔を出して来ようかな。おい、春香」
春香は、先ほどから友達の電話に夢中だった。
「ほら、春香。あまり長電話するなよ」
春香は、五代を無視して話していた。
「春香!」
最初は優しかった五代の声が、段々厳しくなっていった。春香は電話しながら五代の方に向き、眉(まゆ)を顰(ひそ)めて反抗した。五代はイライラしながら電話の横に座り、春香を睨(にら)んだ。
コンコン…。
すると突然、五代の耳元でドアをノックする音がした。
「は、はい!」
五代はびっくりして立ち上がり、ドアを開けた。そこには四谷が立っていた。
「こんにちは。四谷です」
五代はまだ心臓がドキドキしていた。
「は、はい。何ですか?」
「五代くんと管理人さんは、もうちょっと待っておくれでないかい?」
「は?」
「いま上で二階堂くんの歓迎会をしているのですが、おふたりは特別ゲストということで、後ほどお呼びしたいと考えておりひめ☆」
「え? ゲスト…ですか?」
「はい。ちょっと二階堂くんとお話したいことがありまして」
五代は毅然(きぜん)として言った。
「ちょっと、四谷さん。また何か悪だくみしているんじゃないでしょうね?」
「いいえぇ。我々は、彼の失われた時間を、取り戻して差し上げようとしているだけですから」
「本当ですか?」
「本当です」
『……』
暫(しばら)く沈黙があった。冬樹はぽかんとふたりの顔を交互に見ていた。春香は相変わらず電話に夢中だった。五代と四谷の様子に呆(あき)れた響子が、遂に口を挟んだ。
「あなた。四谷さんの言う通りにしてあげたらどうです?」
「だって…」
「いいじゃありませんか。もうお互い大人なんですから」
五代は詰まらなそうに向き直り、四谷に言った。
「分かりました。じゃぁ、必ず後で呼んで下さいよ」
「はい。拝承しました」
四谷は足取りも軽やかに部屋へ向かった。
四 五代家電脳化計画
わははは…。
4号室では、宴も酣(たけなわ)となっていた。二階堂は、五代たちが一向に現れないことを不満に思っていた。
「ちょっと! 四谷さん?」
「はい。何でしょうか?」
「これって、本当に僕の歓迎会なんですか?管理人さんも、五代さんも、皆さん来ないじゃないですか!」
すると一の瀬が扇子(せんす)をパチっと閉じた。
「そろそろかね?」
「そろそろですな」
二階堂は、その場の状況を全く理解していなかった。
「それに三鷹さんも、来てもいいんじゃないですか?」
四谷はやれやれという顔で火鉢の横に座り直した。
「君も全くもって鈍いですな」
一の瀬は面白くて堪らないという顔で、二階堂の横に座った。
「あんた。三鷹さんと管理人さんの関係を知らないのかい?」
二階堂は憮然(ぶぜん)として言った。
「夫婦じゃないんですか?」
「さぁ、どうかねぇ」
「え!? 違うんですか? 四谷さん、教えて下さいよ」
「君、知りたいですか?」
「知りたいです」
「では…」
四谷は誇らしげに指を立てた。
「ヒント1。叔父さん」
「ちょ、ちょっと。何なんですか?」
そこへ一の瀬も徐(おもむ)ろに指を立てた。
「ヒント2。お見合い」
「何すか、それ。ちょっと、本当に関連事項なんですか?」
「何だい、その言い方。あんたが、どうしても三鷹さんと管理人さんの関係を知りたいって言うから、協力してやってんじゃないか」
「だってまたヒントしか言ってくれないんですもん」
すると四谷がまた指を立てた。
「ヒント3。旧華族」
「う〜ん。分かんないな。次のヒント下さい」
一方、管理人室では、響子が夕食の仕度をしていた。
「二階堂さんの歓迎会、急に静かになりましたね」
五代もそのことが気になっていたようだった。
「あぁ、さっきまでドンチャンやってたのに…」
春香は電話も済んで、冬樹とTVを見ていた。春香は、今日から始まる新番組を、前から見たいと騒いでいたのだ。五代は、春香の後ろ姿を見ながら、うんざりした顔をした。
「なぁ、響子。そろそろ家も、春香に携帯でも持たせた方がいいんじゃないか?」
響子は、五代の提案をきっぱり断わった。
「駄目(だめ)です。あなた、携帯の料金、知らないんですか?」
「でも、こんな風に家の電話を占拠されるってのもな」
「いいじゃありませんか。春香だって、携帯が欲しい、なんて言わないんですから」
するとTVを見ていた春香は、突然振り向いた。
「あたし、携帯欲しい!」
そこへ何も知らない冬樹まで、春香の真似をしだした。
「ずるい! ぼくもほしい!」
五代は笑ってふたりを宥(なだ)めた。
「おいおい。まだ買ってやるとは、言ってないだろ?」
五代と響子は、互いに見合って肩を窄(すぼ)めた。
「な〜んだ」
「な〜んだ」
春香と冬樹は再びTVを見始めた。番組も終わり、最後に人気キャラクターのナレーションが入った。
「詳しいことは、こちらのサイトにインターネットでアクセスしてね☆」
春香は徐(おもむ)ろに振り向き、五代に問い質(ただ)した。
「パパ。インターネットって何?」
「へ?」
これには、五代も響子も閉口してしまった。携帯電話は仕方ないが、インターネットのことは春香に知られまいと、常日頃努力していたからだ。五代は白々しい嘘を吐(つ)いた。
「さぁ? 何かアメリカで流行ってる網のことじゃないのか?」
響子も黙って忙しい素振りを見せた。春香は、ふたりの慌て振りを見て溜(ため)息を吐(つ)くと、続けた。
「春香だっていろんなホームページ、見てみたいんだもん!」
冬樹も真似した。
「ぼくもみたい!」
五代は逃げた。
「ホームページって何のことかな?」
「あたし、ホームページが何だか知ってるもん。こないだ七夏(なのか)ちゃん家で見せてもらったんだから」
「七夏ちゃん? 誰だ?」
響子が補足した。
「ほら、あなた。春香のお友達の小日向(こひなた)さんですよ」
「くまさんのかわいいホームページがあったし、ディズニーのページもあったもん」
さすがにこれには、五代も響子も参ってしまった。
「どうする? 響子」
「もう仕方ないんじゃないですか?」
五代は覚悟を決めた。
「なぁ、春香。インターネットをやるにはパソコンがないと駄目(だめ)なんだよ」
「知ってるわよ。七夏ちゃん家にパソコン、あった」
「それは七夏ちゃんのパソコンかな?」
「さぁ?」
五代は厳しく畳(たた)みかけた。
「七夏ちゃんのじゃないだろ?」
春香は素直に認めた。
「七夏ちゃんのパパのだった」
「そうだろう。七夏ちゃんはパパのパソコンを借りてた訳だ」
「でも七夏ちゃん家のパソコンは、小さくて薄くてペラペラだった。すっごく安っぽいの。だからあたし、七夏ちゃんも買ってもらえば?って言ったのよ」
「春香はパソコンがいくらするか知ってるのか?」
春香は少し考えてから答えた。
「分かんない」
「七夏ちゃんの家のはノート型パソコンっていって、とっても高いんだ。パソコンは普通大きい方が安いんだよ」
「へぇ〜」
「パパもお仕事でたまにパソコン使うけど、タワー型っていって、こんなに大きいんだ」
五代は、両手でパントマイムのように四角を作って見せた。
「じゃぁ、家ももっと大きいパソコン買おうよ!」
「残念でした。パソコンはタワー型が一番安いんだよ」
「えー!?」
「何だよ」
「だってパパ、さっき大きいほど安いって言ったじゃない!」
「言ったけど…」
「だからあたし、もっとおっきくて安いパソコン買ってもらえると思ったのに!」
「我がまま言うなよ」
「イヤッ!」
「春香…」
「買って買って買って買って買ってー!」
春香の地団駄を見た冬樹が真似をした。
「かってかってかってかってかってー!」
そこへ響子が優しく諭した。
「春香? もう諦(あきら)めましょうよ。インターネットは七夏ちゃん家でやればいいじゃない」
「そうだぞ、春香」
ふたりは、何とか春香を宥(なだ)めようとしたが、春香の不満は収まらなかった。
「春香も、インターネットやりたいー!」
「ぼくもー!」
ふたりが騒ぎ出したので堪らない。五代は、早く四谷が迎えに来てくれないものか、と願っていた。
五 出会いの5号室
果たして四谷は迎えに来なかった。春香と冬樹はまだ暴れていた。五代はこころを鬼にして怒鳴った。
「駄目(だめ)だ駄目だ駄目だー!」
響子は五代のあまりの大音声(おんじょう)に身を竦(すく)めた。すると春香の頬(ほお)に涙が伝った。
「パパなんて…」
五代は慌てた。
「お、おい。春香…」
春香は涙を袖(そで)で拭(ぬぐ)いながら、管理人室を出た。
「大っ嫌いよー!」
「春香!」
春香は、五代の制止を振り切って、廊下の角を曲がって行ってしまった。
「響子…」
五代は、響子の仲裁を求めたが、響子は意外なほど冷静だった。
「大丈夫ですよ」
「でも…」
五代は更に続けようとしたが、響子は鍋(なべ)の火を止めた。
「はい、ご飯ができましたよ」
一方、4号室では、二階堂を除いて気だるい雰囲気(ふんいき)が漂っていた。
「ヒント81…。サラダちゃん…」
「え〜? 何すか、それ」
「あんた、真面目に聴く気があんのかい?」
「う〜ん。次、お願いします」
「ヒント82…」
ダダダ…、バタン…。
5号室の物音に一の瀬が反応した。
「ん? 何かいま音がしたね」
「そのようですな」
四谷と一の瀬は4号室から出ようとした。二階堂は慌ててふたりを引き留めた。
「ちょっと待って下さいよ。僕は最終の”スーパーひたち”で帰んなきゃならないんですから、早く次のヒント下さい」
「あんたは黙ってな!」
「……」
四谷は4号室を出掛けたが、5号室に春香の気配を感じると、すぐさま元の席に座り直した。
「四谷さん、どうだった?」
一の瀬が尋ねると、四谷は顔色ひとつ変えずに言った。
「いえ、このアパートも、そろそろガタがきているようですな」
一の瀬は今の物音に心当たりがあるようで、扇子(せんす)に顔を隠しながらにんまりと哂(わら)った。ふたりの様子に、二階堂は疑問を呈した。
「え〜? でもいま確かに、ドアが閉まる音が聞こえましたよ」
四谷は面倒臭そうに言った。
「そんなことはどうでもいいから、君は答えでも考えていなさい」
「嫌ですよ。隣に誰かいるんでしょ? 隠さないで僕にも教えて下さい」
「もう。煩(うるさ)い坊ちゃんですな」
二階堂は四谷との問答を諦(あきら)めて、4号室を出ようとした。一の瀬は、別に春香の存在を隠す訳ではないが、春香の様子がただならぬのを察して、二階堂を止めた。
「ちょいと、お待ちよ!」
一の瀬の制止も聞かず、二階堂は5号室のドアを開けた。そこには、鼻水を啜(すす)りながらくず折れる春香の姿があった。二階堂は驚いた。
「えっと…。君、だれ?」
春香は、一刻館に見知らぬ人間がいることに戸惑いながら、小さな声で答えた。
「五代…春香」
「五代!?」
二階堂は思わず大きな声を上げてしまった。二階堂の後ろでは、四谷と一の瀬が残念そうに顔に手を当てていた。
「どういうことです? 四谷さん!」
一の瀬は観念したように呟(つぶや)いた。
「どうしたもこうしたも、こういうことだよ」
「?」
春香は訳が分からず、取り敢えず一の瀬の傍(かたわ)らに身を寄せた。
「おばさん、このひとだれ?」
二階堂は、自分が春香に避けられて、少し気落ちした。
「ちょ、ちょっと一の瀬さん。”五代”って五代さんの娘さんですか?」
「あぁ、そうだよ」
「これが?」
二階堂はまじまじと春香の顔を見詰めた。春香は気味が悪くて後退(ずさ)りした。
「一の瀬さん。あの、言っちゃなんですが、五代さんの娘さんにしては、美人過ぎませんか?」
「そうかねぇ」
二階堂は、春香の方に向き直った。春香はその刹那(せつな)びくっとしたが、覚悟を決めた。
「君、ホントに五代さんの娘さん?」
「…はい。あのぅ、父を知ってるんですか?」
「知ってるも何も。昔、僕はここに住んでいたんですよ」
「え!? ここに?」
「僕、2号室の二階堂といいます、今日、引越しの荷物を運び込んでいた…」
春香は漸(ようや)く合点が行ったようだった。
「じゃぁ、新しく入るというのは、あなたのことだったんですか?」
「そうです!」
一通りの挨拶(あいさつ)が終わったところで、四谷が場をとりしきった。
「もう、ここまでバレバレじゃ仕様がありませんな」
「あんたも、もう分かったろ?」
二階堂は相変わらず鈍かった。
「え? だってまだ春香さんのお母さんが分からないじゃないですか」
春香は不思議そうな顔をした。
「あたしのお母さん? 母なら階下(した)にいますけど」
「え! 本当ですか?」
二階堂は喜んで一の瀬の方に振り向いた。
「ねぇ、一の瀬さん。春香さんのお母さんといったら、五代さんの奥さんのことですよね?」
「あんた、なに訳の分かんないこと言ってんだい」
一の瀬と四谷は、自分たちの遊び相手が春香の手に渡り、手持ち無沙汰(ぶさた)な様子だった。春香は、二階堂を響子の許(もと)へ案内することになった。
「こちらです」
ときどき振り向く度に、春香のツインテールが綺麗(きれい)な弧を描いた。二階堂は35になりながら、邪(よこしま)な考えを起こしていた。
《春香ちゃんって可愛いな》
春香と二階堂は1階へ降りた。二階堂は、春香が3号室に行くものとばかり思っていた。家族を持った五代が、間取りの広い1階に引っ越すとすれば、空いている3号室しかないと考えたからだ。春香は階段を降りきると、立ち止まりもせず、3号室の前を通過した。
《あ、あれ?》
春香は、二階堂が自分の予想が外れて驚いているのをよそに、管理人室へ向かった。二階堂は考え直した。
《ははぁ、そうか! 今は管理人室で管理人さんとお茶でも飲んでるんだ》
会社でも、鈍い鈍いと言われていたが、東京に来たら、少しは頭の切れる男と思われたい二階堂だった。果たしてふたりは管理人室のドアの前に立っていた。
「ママー。お客さま…」
春香はドアを開けながら言った。
《おぉ! 春香ちゃんのお母さんが見られる!》
二階堂は緊張した。
「あら、春香。もういいの?」
ドアの向こうから、春香の母親の声が聞こえた。
《さぁ、いよいよだ!》
しかし二階堂がドアの向こうに見たものは、五代と響子だった。
「あ、あれー? 五代さんじゃないですか」
五代は、二階堂の不躾(ぶしつけ)な態度に憮然(ぶぜん)とした。
「あぁ、そうだよ」
二階堂はそんな五代を無視して響子に挨拶(あいさつ)した。
「あ、済みません、管理人さん。先ほどはいろいろとご迷惑かけちゃって」
「いいえぇ」
響子は苦笑した。二階堂は五代に向き直った。
「それはそうと五代さん。奥さんは一緒じゃないんですか?」
「は?」
響子は、昼間の誤解を解こうとしたことを思い出した。
「あのね、二階堂さん…」
二階堂は響子のことばを振り切った。
「五代さん。奥さんを置いて管理人さんとお茶なんか飲んでていいんですか? 奥さん、きっと悲しみますよ」
二階堂は自分のことばに少し酔っていた。五代は訳が分からず、しどろもどろした。
「な、何を言ってるんだ、お前は」
「可哀相じゃないですか! 娘さんだって5号室で泣いてたんですよ」
「だからそれは…」
「それに、これはある意味、浮気の現場じゃないですか!」
「誰が浮気じゃ」
響子はふたりの会話を聞いていて段々腹が立ってきた。
「いい加減になさーい!」
『はひ!』
響子の大音声(おんじょう)にふたりは黙った。そこへ冬樹が興味津々で近づいて来た。
「パパ。このひと、だれ?」
相変わらず泰然自若(たいぜんじじゃく)振りを発揮していた。
「いや、冬樹。このひとは、新しく一刻館(うち)に住むことになったひとだよ」
「ふーん」
二階堂は漸(ようや)く自分を取り戻し、笑顔で手を振った。
「やぁ! 宜しくね」
冬樹は、二階堂の方に向かうと、大きな声で言った。
「ぼくは、ごだいふゆきです♪」
「え!? 五代…って」
三人の間に暫(しばら)く沈黙が流れた。二階堂は、春香と冬樹を指差した。
「こっちが五代春香で、こっちが五代冬樹?」
「そう。それで俺が五代裕作だ。もう分かっただろ」
五代はやれやれと溜(ため)息を吐(つ)いた。二階堂の目がきらりと光った。
「そうか! 五代さん、家族でお邪魔してたんですね!」
「そうじゃなくって…」
五代が脱力していると、一の瀬が管理人室に入って来た。
「何だい、あんた。まだいたのかい?」
二階堂は時計を見た。
「まだって、まだ7時ごろじゃ…。あー!」
時計は既に21時をまわっていた。
「”スーパーひたち”の最終が…」
二階堂はがっくりと膝(ひざ)を折った。
「”スーパーひたち”がなくても、鈍行で帰ればいいだろ?」
あははは…。
一の瀬は笑いながら1号室に戻って行った。
「くそー!」
二階堂は悔しがりながら帰って行った。まだまだ寒い夜が続く常磐線の線路際には、蒲公英(たんぽぽ)が悲しそうに揺れていた。(完)