春香のお出掛け<後篇>
作 高良福三
六 出発の朝
果たして創立記念日は晴れた。
チョットコイ、チョットコイ…。
あたたかな小春日和に誘われて、どこからか鶲(ひたき)の啼(な)く声が聞こえる。青空には羊雲がどこまでも続き、紅葉を始めた多摩の山々は、その山際を紺碧(こんぺき)の空に鮮やかに彩っている。陽が昇るに連れて、カーテンからこぼれる朝日は壁から床に徐々に移り、五代一家が寝ている蒲団(ふとん)の上に優しい光を投げ掛けている。その光に真っ先に反応したのは、冬樹だった。冬樹はぱかっと目を開けると、辺りを見回した。隣では春香が涎(よだれ)を垂らして寝入っており、五代はもちろんのこと、響子も熟睡していた。冬樹は蒲団を被(かぶ)ってまた寝ようとしたが、どうしても目が冴(さ)えて眠れなかった。
「よいしょっと」
冬樹はついに蒲団(ふとん)から這(は)い出すと、カーテンのすき間から外を見てみた。物干し竿(ざお)には雀(すずめ)が数羽留まって、楽しそうに何かお喋(しゃべ)りをしていた。冬樹は窓のサッシを開けて外に出ようとしたが、錠(かぎ)が掛かっていてびくともしなかった。外へ出られないと判ると、冬樹は、この朝の空間が急に退屈に感じられてきた。
「ママ…」
冬樹は響子に小さく声をかけてみた。響子は眉間(みけん)を少し顰(ひそ)めて反応したが、目覚めることはなかった。食器棚の上に置いてある赤いデジタル時計は、6:29を指していた。
カチャ…。
文字盤がひとつ繰り上がった。
ピピピ…。
目覚ましが鳴った。響子は無言のままガバッと反射的に起き上がり、目覚ましを止めてから、大きな伸びをした。
「あ〜、もう朝なんだわ…」
「ママ!」
「あら、冬樹。あなた、もう起きてたの?」
「とりさん」
冬樹は窓の外を指さした。雀(すずめ)は先ほどよりも数が増え、草叢(むら)を盛んに嘴(くちばし)で突ついていた。
「あぁ。雀(すずめ)さんね」
「すずめさん…?」
「そうよ。雀(すずめ)さん、なに食べてるのかしらね」
「すずめさん、ごはんたべてるの?」
「そうよ」
「ぼくもたべる」
「そうね。その前にお洋服を着て、お顔をキレイキレイしましょうね」
「うん」
響子は枕(まくら)元に置いてある冬樹のよそ行きを着せると、自分も部屋着に着がえ、PIYOPIYOエプロンを着けた。
「さぁ、行きましょう?」
ふたりが洗面台から戻って来たときには、春香も既に起きていた。
「ママ、おはようございます」
「あら、春香も起きた? あなた、お顔洗って来なさい」
「はい☆」
春香は嬉しそうに服を着がえると、タオルを持って洗面台に走った。
「まぁ。春香ったら…」
春香の後ろ姿を見る響子もどこか嬉しそうだった。惣一郎の墓参り以外、家族で出かけるのは、冬樹が生まれてから初めてのことだったからだ。響子は重箱に弁当を作ると、春香と一緒に朝食の準備を始めた。
トントン…。
庖丁(ほうちょう)の音も小気味よい。
「春香? そろそろパパを起こしてくれない?」
「はーい」
春香は五代の蒲団(ふとん)を思いっきり揺すった。
「パパ、起きて!パパ!」
あまりの騒々しさに、五代は一辺に目が覚めた。
「起きた、起きたよ、春香。もう起きたから」
「パパ、早く仕度してよ」
「え?」
「だって早くしないと、ディズニーランド、始まっちゃうんだから」
「分かったよ」
すると台所に立った響子が振り返りもせず言った。
「はーい、皆でお蒲団(ふとん)仕舞ってねー」
『はーい☆』
春香と冬樹は元気に返事をして五代を小突いた。
「ほら! パパ、じゃまじゃま」
「ったく、何だよ〜」
五代はパジャマを脱いでシャツに着がえていた。春香は五代を無視して蒲団(ふとん)を押入れに仕舞った。
「これでよしっと。ママ、ご飯まだー?」
「ちゃぶ台、出してちょうだい」
「はーい」
春香はちゃぶ台を出すと、銘々(めいめい)の箸(はし)を並べた。
「はい、出来ましたよ」
響子は朝食をちゃぶ台に次々と並べた。
「あなた。早く顔洗って来て下さいな」
「へいへい」
五代はトレーナーを着ると、タオルを持って洗面台に向かった。
「いただきます」
『いただきまーす☆』
五代の号令で朝食が始まった。春香はもの凄(すご)い勢いで食べ始めた。響子は軽く窘(たしな)めた。
「そんなに慌てると、喉(のど)に痞(つか)えるわよ」
「だいじょぶ、だいじょぶ。ママ、お茶ちょうだい」
響子が急須(きゅうす)に茶を淹(い)れて湯のみと一緒に差し出すと、春香はご飯の上に佃(つくだ)煮を乗せ、上から並々と茶を注いだ。
「まぁ、この子ったら…」
呆(あき)れる響子を尻(しり)目に、春香はご飯を一気にかき込んだ。その後、おかずの皿を戴(いただ)いて口を付け、これも一気に頬(ほお)ばった。
「ごちそうさまでしたー☆」
それを見た冬樹もさっそく真似を始めた。
「ママ、おちゃ ちょうだい」
ところが響子は許さなかった。
「あなたは普通に食べなさい。おねえちゃんみたいに食べちゃ駄目よ」
冬樹は訴えるように五代を見やった。
「そうだぞ、冬樹。お前はちゃんと食べなさい。いいな?」
冬樹は、春香の真似を諦(あきら)めた。
食事が済んだ春香は、一目散に5号室へ行ってしまった。何か仕度でもあるのだろうか。五代たちは三人で普通に朝食を済ませ、響子は洗い物を、五代は出かける準備を始めた。管理人室ではすっかり出かける準備が調い、響子が冬樹の恰好(かっこう)をチェックしていた。五代は留守を一の瀬に頼みに行った。
「じゃ、おばさん。今日は宜しくお願いします」
「あぁ、分かったよ。ゆっくり行っといで」
「響子〜、そろそろ行くぞー」
「はーい」
響子は冬樹の手を牽(ひ)いて管理人室から出てきた。
「あれ? 春香は?」
「えぇ、あの子ったら、食事が終わって出てったっきりなんですよ。どこ行ったのかしら?」
ドタドタ…。
春香が二階から慌(あわただ)しく降りてきた。
「おい、春香。もう行くぞ」
「はい♪ こっちもOKよ☆」
《何なんだ?》
五代は不思議に思ったが、もう時間もないので、出発することにした。
七 邂逅(かいこう)
今年から地下鉄有楽町線と西武線の相互乗入れが開始され、新木場へのアクセスは格段に良くなった。新木場まで行ってしまえば、後はディズニーランドがある舞浜までは、JR京葉線で15分ほどだ。今日は平日のため、車内に家族連れは殆(ほとん)どおらず、通勤ラッシュとも重なって、五代一家は大変な目に遭(あ)った。しかし有楽町駅を過ぎると、乗客が嘘のようにいなくなり、五代はやっと安心して冬樹の手を離すことができた。
「パパ、まえにいっていい?」
さっきまで押し潰(つぶ)されかけていた冬樹は、急に水を得た魚のように、元気に車内を飛び回った。このままでは他人(ひと)様に迷惑になるので、五代は冬樹について先頭車輛まで行くことにした。
「冬樹、地下鉄なんだから、前に行っても何にも見えないぞ」
「だって いきたいの!」
そんなやりとりを繰り返しながら、ふたりは先頭車輛に辿(たど)り着いた。
「新富町、新富町ー」
五代たちが先頭車輛に着いたとき、電車はちょうど新富町の駅に到着した。
「ドアが閉まります。ご注意ください。駆け込み乗車は、危ないのでお止めください」
ぷしゅーっ…。
「パパ、しまるよ、しまるよ」
「あぁ、そうだな」
すると運転席からブザー音が聞こえた。
プッ…。
ふたりが音のする方向を見ると、今度は運転手の声が聞こえた。
「発車進行ー」
ガタンガタン…。
電車が動き出した。冬樹は非常に興奮していた。
「パパ、まえ! まえみたい!」
冬樹は運転席の横の窓に手を伸ばして、必死に窓から運転席を覗(のぞ)こうとしていた。
「分かった分かった」
五代はそう言うと、冬樹を抱き上げて窓を覗(のぞ)かせてやった。冬樹は、ライトが照らす暗い線路を懸命に見ていた。
《懐かしいな…》
五代は思い出した。自分がまだ幼かったころ、五代は駅員に憧(あこが)れていた。小学校のときの作文で、将来は電車の運転手になりたい、と書いていた。それが今では保育園の保父となり、子供が地下鉄の暗い線路を食い入るように見ている。血は争えないものだと思った。
地下鉄は新木場駅の手前で地上に出た。その昔、「夢の島」と呼ばれていた埋立地は、広大な道路と巨大な植物園に姿を替えていた。新木場でJRに乗り換えた五代一家は、興奮の頂点に達していた。
「パパ、パパ。あといくつでマイハマ?」
春香は、電車が駅に着く度に五代に尋ねた。
「もう次の駅だから、お前たちは静かにしていなさい」
「きゃー☆」
春香は嬉しくて仕方がないらしい。
「ママ、おしろ、おしろ!」
冬樹が窓の外を指さした。そこにはシンデレラ城のゴチック様式の尖塔(せんとう)が森の中から垣間(かいま)見られた。車内アナウンスが流れた。
「次は、舞浜、舞浜…」
『やったー!』
春香と冬樹は、電車の中でぴょんぴょんと跳ねた。
「これ、あなたたち、静かにしていなさい」
響子の声も、ふたりの耳には届かないようだった。電車のドアが開いた。春香と冬樹は、我先にと電車から飛び出した。
「こら! お前たち、危ない!」
ふたりが階段を駆け下りるので、仕方なく五代と響子もふたりの後を追った。舞浜駅に降り立った五代一家は、辺りの様子に目が奪われた。目の前には、現実のものとは思えない、ディズニーランドの世界が展(ひろ)がっていた。駅からディズニーランドの入口までは、西部劇に出てくるようなアンティーク調の長い空中歩道が続いており、その向こうにはモスグリーンのゲートが見えた。
「パパ、ママ、早く行こう! 早く!」
春香は、冬樹と手を繋(つな)いで、ゲートまで走って行った。
「こらこら。転ぶんじゃないぞー」
五代が後ろから声をかけたが、ふたりには聞こえていないようだった。しかしゲートに近づくに連れ、お洒落(しゃれ)で楽しそうな雰囲気(ふんいき)が、五代と響子にも伝わってきた。春香と冬樹は既にゲートの前でふたりを待っていた。
「早く早くー!」
「分かった分かった」
五代は人数分のパスポートを貰(もら)い、銘々(めいめい)に配った。
「これ、失(な)くすんじゃないぞ。これが無くなったら、全部パーだからな」
冬樹のパスポートは、響子が預かることにした。パスポートを取り上げられて、冬樹は不満だった。
「ママ! それ ぼくのー!」
「はいはい、分かりました」
響子が冬樹を宥(なだ)めていると、別の家族連れが響子の横を通り過ぎた。彼らはみなパスポートをビニールケースのような物に入れて胸や肩に着けていた。響子は得心した。
「あなた。あれ、いいわね」
「ん? 何だ」
「ほら、あそこの家族連れが着けている名札みたいなの…」
「あぁ、あれか。どこかに売ってるんだろう。ちょっと待ってて…」
五代は土産物屋に入ると、暫(しばら)くして出て来た。
「ほら」
五代の手には、ミッキーマウスとミニーマウスのパスケースがふたつずつあった。
「わぁ!」
これには、響子も大喜びだった。
「ママ! つけて!」
冬樹がミッキーマウスのパスケースを渡して、自分の肩を突き出した。
「はいはい。じっとしててね」
響子は冬樹の右肩にパスケースを着けた。
「春香はいいのか?」
「あたしは自分で着ける☆」
春香は嬉々として左胸にミニーマウスのパスケースを着けた。
「よし! これで全員OKかな?」
『はい☆』
響子も嬉しくてつい声を張り上げてしまった。
「じゃぁ、お城に向けてしゅっぱーつ!」
五代一家は、ワールドバザールの中をシンデレラ城に向けて歩き出した。
「あなた、ここ! ここで写真撮りましょう?」
響子はワールドバザールを抜ける間、何回も五代の足を止めた。
「しょうがないなぁ」
と言いつつ、五代も嬉しがって写真を撮っていた。五代がカメラを構えているときだった。
「音無さん! 音無さんじゃありませんか!」
五代の背後から爽(さわ)やかな声が聞こえてきた。五代は驚いて振り向いた。
八 携帯電話
「失敬! 今は音無さんじゃありませんでしたね…響子さん」
それは三鷹の声だった。五代は、三鷹とどのように接すればいいか分からず、刹那(せつな)躊躇(ちゅうちょ)した。
「パパ、だれ?このひと」
春香が五代の気配を察知して尋ねた。
「あ、あぁ、春香…このひとは、パパとママの知り合いなんだ」
「ふうん」
そこへ歯のきらきら輝く中学生くらいの女の子がふたりやって来た。
「やだもう! モエったら〜」
「え? 何よ〜」
五代は女の子を指さして驚いた。
「三鷹さん、もしかしてこの娘(こ)たちは…」
「そう。モエとメイだ」
「ほら、ふたりとも、ご挨拶(あいさつ)しなさい」
「は〜い」
初めは呆気(あっけ)に取られていた響子も、気を取り直して、そこら辺で走り回っている冬樹を捕まえた。
「ほら、冬樹。こっちへいらっしゃい」
「なーに? ママ」
冬樹は不思議そうな顔をして、響子に手を牽(ひ)かれてやって来た。三鷹は後ろを振り返った。
「ほら、ママもこっちへ」
「はい…」
明日菜は、小学生くらいの男の子と一緒に静々と近づいて来た。これで五代一家と三鷹一家が揃(そろ)った。
「先ず僕の方から紹介しましょう。これが長女のモエ、隣が次女のメイ、それからこれが長男の尭(たかし)です」
「三鷹モエです☆」
「三鷹メイです☆」
ふたりは茶目っ気たっぷりに挨拶(あいさつ)した。
「……」
しかし尭が黙っているので、明日菜は慌てて促した。
「ほら、尭ちゃん…」
尭は恥ずかしそうに下を向きながら、小さな声で挨拶(あいさつ)をした。
「三鷹…尭です」
どうも尭は、明日菜に似て引っ込み思案のようだった。響子は、その場の重苦しい空気を和ませようと、わざと明るく振舞った。
「では、ウチもご紹介しますね。えーっと、こちらが長女の春香、小学五年生。そして長男の冬樹、四歳です。宜しくお願いします」
「ね? ほら。あなたたち、ご挨拶(あいさつ)なさい」
「五代春香です☆」
「ごだいふゆきです♪」
明日菜が嬉しそうに復唱した。
「まぁ、春香ちゃんに冬樹くんとおっしゃるの? 素敵なお名前ですこと…。こちらこそ宜しくお願いしますね」
すると三鷹は、無意識だが挑発的に五代に尋ねた。
「それにしても、どうしたの? 五代くん。こんな平日に一家そろってディズニーランドだなんて…」
「たまにはウチだって、家族旅行くらいはしますよ。三鷹さんこそ、どうしたんです? こんな日に」
「いやぁ、娘たちがディズニーランドに来たがっちゃってね。僕はサラリーマンと違って、休みに融通が利く方だから、わざわざ混んでる土日に来ることないしね。適当な理由をつけて、子供たちを休ませて来たんだよ」
モエとメイは、交互に顔を出すように言った。
「でもパパのお蔭で、今日は全然混んでないわねぇ☆」
「ねぇ☆ ホント。学校サボって来て良かった〜」
無邪気にはしゃぐ娘たちに、明日菜が軽く窘(たしな)めた。
「あなたたち、学校をサボるのはいけないことなんですよ。今日は特別なんですからね」
『は〜い☆』
返事をするモエとメイの歯が光った。
「でも五代くんはどうしたの? 春香ちゃんも小学生だろ? 君も学校、サボらせたの?」
「いいえ。今日は春香の学校は、創立記念日で休みなんです」
五代のことばに、春香は嬉々として補足した。
「音無のおじいちゃんからね、ディズニーランドのチケットもらったの☆」
三鷹は前髪を軽くかき上げるようにして払い、ふっと嘲(わら)った。
「全く…君はまだ音無さんの世話を受けとるのか。進歩しないな」
五代はいじけるように指を組んだ。
「別に…今回はたまたま、音無のじいさんから株主優待券を貰(もら)っただけですから」
明日菜は場の雰囲気が険悪になってきたので、内心ハラハラしていた。その様子を察した響子が助け舟を出した。
「あの…明日菜さん。今日は、ワンちゃんたちとご一緒じゃないんですの?」
「え!? …え、えぇ。あの子たちは、ペット・シッターの方に今日一日お願いして…」
「最近みな老犬になっちゃってね。外に出るのも億劫(おっくう)らしいんですよ」
三鷹が横から口を挟んだ。三鷹に途中からたたみ込まれて、明日菜はパニックになり、上ずった声を出した。
「あ、あの…」
「はい?」
「お宅の惣一郎さんは、惣一郎さんはお元気ですの?」
五代と響子そして春香は、そのことばに思わず固まってしまった。明日菜は、何か訊いては不可(いけ)ないことを訊いてしまったことに気づき、更にパニックになってしまった。それを見かねた尭がようやく口を開いた。
「ママ、ぼく、スプラッシュ・マウンテンに乗りたいな」
そのことばに、五代たちは、緊縛(きんばく)から解かれたように動き出した。五代はわざと明るく振舞った。
「三鷹さんたちは、スプラッシュ・マウンテンに行くんですか? ウチはシンデレラ城の方へ…」
三鷹も五代たちの雰囲気(ふんいき)を感じて、焦っていた。
「あ、あぁ、そうか。それじゃぁ、お昼でもご一緒しましょう。じゃぁ、五代くん。君の携帯の番号を教えてくれる?」
「え?」
「携帯だよ、携帯電話。何番なの? 今アドレス帳に登録するから…」
「あ、あの…」
五代はきまり悪そうに俯(うつむ)いた。三鷹夫妻が怪訝(けげん)そうに五代を見た。
「あの…僕、そういうものは、持ってなくて…」
すると、もえが素頓狂(すっとんきょう)な声を上げた。
「あっきれた〜。おじさん、ケイタイ持ってないの?」
三鷹が慌てて窘(たしな)めた。
「こらこら、モエ。そんなこと、言うもんじゃないぞ」
響子は冷や汗を垂らしながら、にっこりと愛想笑いをした。
「ま、まぁ、持ってないことは事実ですし…ね? あなた」
「あ、あぁ…」
明日菜も本当に申し訳ないという顔をしていた。
「あの…あの、では、12時にまたここでお会いするというのは、如何(いかが)でしょうか?」
「そうだな。それがいい。うん、そうしよう。なぁ、五代くん」
「はぁ…」
五代は力なく返事をした。響子は必死になって、落ち込んだ五代を介抱していた。五代が携帯を持っていないのは、お金がないというより、むしろ必要ないからだ。春香は、友人が学校に携帯を持って来ているので、散々響子に携帯を強請(ねだ)ったこともあったが、五代が持っていないから、という理由で却下されていた。春香は五代が携帯を持っていないことに、改めて不満を示した。
「ほらー、だからパパもケイタイ持ってた方がいいよって、あたしが言ったじゃないのー」
「そうだな。今度、考えとくか…」
気の殺(そ)げた五代の姿を見る響子は、こころが痛かった。今まで頭上でやりとりされていたことを聞いていた冬樹は、ついに業(ごう)を煮やして、響子の服の裾(すそ)を引っ張った。
「はやくシンデレラのおしろにいこうよぉ」
「あぁ、そうだったわね、冬樹。早く行きましょうね」
こうして五代一家は三鷹一家と別れ、シンデレラ城のミステリー・ツアーに向かった。
九 お弁当とハンバーガー
昼になった。五代一家は、朝、三鷹一家と出会ったワールドバザールの街灯のところで、三鷹一家を待っていた。しかし約束の12時になっても、三鷹たちの姿は現れなかった。
「っかしいなぁ。何してるんだろうなぁ」
五代は、街灯に取り付けられた時計を見ながら、イライラしていた。
「こんなことなら、三鷹さんの携帯の番号、訊いときゃよかった」
響子はそんな五代を宥(なだ)めた。
「そんなあなた、アトラクションの時間の関係もあるでしょうし、こんなに広いんですから、そんなピッタリ12時という訳にはいきませんよ」
「でもそうなら、その前に引き上げるとかさぁ」
「まぁ、それもそうですけど…」
春香と冬樹は尻餅(しりもち)を搗(つ)いて、五代と響子を見上げた。
「ママ〜、おなかすいた〜」
「早くお弁当、食べようよぉ」
「あなたたち、もうちょっと待ってなさい」
「待つってどれくら〜い?」
「三鷹さんが来るまでよ」
「そんなのいつ来るか、分かんないじゃな〜い」
「そんな我がまま言うんじゃありません」
「だ〜って!」
「三鷹さんに失礼でしょ?」
「そんなこと言ったら、あたしたちを待たせてる三タカさんの方が失礼じゃない」
「そんなこと、言うもんじゃありません!」
五代は、春香たちのやりとりを聞いていて、子供たちが不憫(ふびん)になった。
《今朝も早く出たし、春香たちは相当お腹が空いてるんだろうな》
そこへ三鷹の爽(さわ)やかな声が聞こえてきた。
「いやぁ、済みません。お待たせして」
響子は駄々(だだ)を捏(こ)ねる春香たちを後ろに押しやって、にこやかに微笑(ほほえ)んだ。
「いいえぇ。いま来たばっかりですから」
「ママのウソつき」
「うそつき」
春香と冬樹は、こっそり口を尖(とが)らせた。三鷹は続けた。
「いやぁ、参りました。こんなに広いなんて。距離感と時間の感覚がいつもと違っちゃって。いや、面目ない」
「そうですわね。こんなに広いんですもの。しょうがないですわ。ね?あなた」
「あ…あぁ。うん」
三鷹は当たり前のように尋ねた。
「それじゃ、どのお店に入ります?」
「え?」
「だから、昼食はどこのレストランで摂(と)ります?」
どうやら三鷹一家は弁当を持って来ていないらしかった。響子が黙っているので、五代は遠慮気味に言った。
「え…っと、実はウチ、弁当を持って来たんですど…」
三鷹は、してやられたという顔をした。
「あぁ、弁当かぁ。いやいや、それは気づかなかったなぁ。てっきりレストランで食べるものとばかり…」
響子が提(さ)げている重箱を見て、明日菜は料理をしていない自分が急に恥ずかしくなった。
「パパ、どう致しましょう?」
「そうだな…うん、そうだ。ハンバーガーか何か買って、その辺でお昼をご一緒しましょう」
響子は、三鷹に申し訳ないような気分になった。
「宜しいんですの? レストランじゃなくて」
「いえいえ、お誘いしたのも、お待たせしたのも、こちらの方なんですから」
「おい、尭(たかし)。これで何か買って来なさい」
「え? あ…うん」
尭は三鷹から金を渡されて、どうしたらいいか分からず、おろおろしていた。そこへ空かさず、ふたりの姉がしゃしゃり出た。
「尭〜。わたし照り焼きバーガーセットね」
「わたしは普通のハンバーガーセットでいいわ〜」
尭の窮地(きゅうち)を察知した明日菜が助け舟を出した。
「じゃぁ、ママと一緒に行きましょう。ね? 尭ちゃん」
「あ…うん」
明日菜と尭はそそくさとハンバーガーを買いに行った。
「さてと、どこで食べましょうかねぇ…」
「そうですわねぇ」
「ふ〜ん」
五代たちはディズニーランドの地図を広げて、昼食を摂(と)る場所を悩んでいた。
「響子さん、この辺りなんてどうでしょう?」
三鷹は広場の中央近くを指さした。
「そうですわね。悩んでも始まりませんわね。どうします? あなた」
「あぁ、そこでいいんじゃないか」
「よし! それじゃぁ、決まりだ」
「響子さん、僕が場所を取ってきますから、ビニールシートのようなものを貸していただけませんか?」
「はい、どうぞ」
響子はバッグからピクニックシートを引っ張り出して、三鷹に渡した。三鷹はピクニックシートを受け取ると走り出したが、暫(しばら)くしてから思い出したように振り返り、五代に釘(くぎ)を挿した。
「五代くん、明日菜たちをよろしくー!」
三鷹はあっという間に見えなくなった。
「ねぇ、パパ。まだ〜?」
春香は完全に地面にへたり込んで、訴えるように五代を見上げた。
「春香、ゴメンな。もうすぐだから…」
三鷹が去った後、最初は大人しくしていた双子の姉妹は、徐々にそわそわしだした。
「ママと尭、何やってるのかしらね?」
「ちょっと遅いんじゃない?」
「私、見て来ようかしら?」
「メイ、あなたママたちがどこに買いに行ったか知ってるの?」
「あっそうか」
「私たち待つしかないんだわ」
メイは忌々(いまいま)しそうに腕を組んで仁王立ちになった。すると、遠くに明日菜と尭の姿が見えた。
「あ☆ 来た!」
モエが叫んだ。
「ホント?」
春香と冬樹は、モエの指さす方向を力なげに見た。そこには果たして、山のような紙袋を抱えた尭と、小さな紙袋を上品に持った明日菜の姿があった。
「お待たせ致しました」
「ママ、遅い〜」
「ごめんなさいね。すごく混んでて大変だったのよ」
「パパが場所取りに行ってるよ」
「あら、じゃぁ、急がなくちゃ…」
五代は全員そろったところで移動を促した。
「さぁ、じゃ、三鷹さんの所に行きましょう」
「そうしよー☆」
やっと元気が出た春香と冬樹だった。五代一家と三鷹母子は、広場の中央へ向けて歩き出した。
「やぁ、皆さん。ここが分かりましたか?」
三鷹はピクニックシートの四隅に荷物を置いて、その中央に座っていた。
「パパ、ごめんなさいね。わたくし、ハンバーガーを買うのに手間取っちゃって…」
「いいよ、ママ。それより済みませんでした、響子さん」
「いえ、ウチは構いませんのよ」
「ママ〜、早くお弁当、食べようよ〜」
「はいはい、分かりました。いま出します」
響子は重箱のふたを開けて、段をずらした。そこには握り飯の他に、干瓢(かんぴょう)で鉢巻したたこのウィンナーや、胡麻(ごま)や海苔(のり)で顔を描いた鶉(うずら)の卵など、可愛らしい具材が所狭しと並んでいた。
「うわー☆ おいしそー♪」
冬樹は、こういうちまちました細工物が好きらしい。空腹だったせいもあるが、日ごろ食べ慣れていない物だけに、喜びもひとしおだった。明日菜は、響子の弁当を見て恥ずかしそうに誉めた。
「素晴らしいですわ。わたくしなんて何も用意しなかったんですもの」
響子は照れ隠しに笑った。
「いえ。これも経費節減ですわ。お恥ずかしい」
そんなふたりのやりとりを聞きながら、五代が握り飯を頬(ほお)ばっているときだった。モエが空を見上げた。
「何か、一雨来そうね…」
メイと春香も空を見上げた。メイは不安そうに言った。
「ホントだー。どうしよう」
先ほどまでワールドバザールの中にいたので気づかなかったが、空は一面薄雲におおわれ、ところどころ暗い雨雲らしいものが見えていた。明日菜が心配した。
「どうしましょう。どこか屋内のベンチにでも移動した方がいいのではないでしょうか?」
「まぁ、大丈夫じゃないか?」
三鷹が何も考えていないような風に言った。
「じゃっじゃじゃ〜ん」
春香が突然自分の荷物から不思議な物を取り出した。五代は何が始まるのかと思わず身構えた。
十 イッツ・ア・スモール・ワールド
春香が取り出したのは、二つの温度計が並んでいるものだった。
「これは、あたしが発明した天気予報器でーす☆」
『天気予報器…?』
五代と響子は同時に呟(つぶや)いた。三鷹夫妻も、何が始まったのか、と呆気(あっけ)に取られていた。
「これは乾球温度計と湿球温度計がスライドするようになっているの☆」
春香は、ふたつの温度計を互い違いにスライドさせて見せた。それを見た冬樹が大喜びした。
「おねえちゃん てんきよほう はつめいしたんだね♪」
「そうよ、冬樹。見てなさい」
春香は得意気に胸を叩(たた)くと、乾球温度計と湿球温度計の目盛が同じ高さになるようにスライドさせた。
「はーい。これで現在の湿度が一発で分かります。現在、湿度85%です。けっこう高いですね〜」
スライドは計算尺のようになっていて、乾球温度計の目盛と、湿球温度計の目盛の差分によって、湿度が求められるようになっていた。湿度のスケールには、晴れ、曇り、雨と、お天気マークが描かれていた。春香は、自分が発明した天気予報器を見ながら言った。
「これは雨の可能性が高いですね〜。もう少しくわしく診てみましょう」
次に春香は、いろいろな雲の写真を取り出し、空を見上げて雲を観察した。
「朝は高積雲で、今は高層雲が広がっています」
春香は芝生を一握り摘むと、ひらひらと落とした。芝生は風に流されて落ちた。
「風はだいたい南東の風です」
五代たちは、春香の説明に口をぽかんと開けていた。
「従って、12時間以内に雨が降る確率が高いです☆」
パチパチ…。
三鷹が拍手をした。
「いやぁ、凄(すご)いよ、五代くん、春香ちゃんは。これは立派な天気予報だ」
明日菜も三鷹に唱和した。
「素晴らしいですわ。春香ちゃん、まだ五年生なんでしょう? とてもよく勉強したのね」
三鷹夫妻に誉められて、五代と響子は悪い気がしなかった。
「春香。今朝ごそごそ何かやってたのは、それだったのか?」
「そうよ」
春香は胸を張った。
「だってお外でお弁当食べるんだもん。天気予報は必要じゃない?」
「そうだったの。頑張ったわね」
響子は春香の頭を撫(な)でて、春香の労をねぎらった。
「そうと決まれば、弁当を早く食べなきゃ」
五代は握り飯を掴(つか)んでは口の中に抛(ほう)り込んだ。
「ま、あなたったら」
響子は笑った。
「あなたたちもパパを見習って、早く食べちゃいなさい」
「はーい☆」
春香と冬樹は食べるピッチを上げた。三鷹も負けじと号令を出した。
「お前たち、ウチも早く食べよう」
『はーい☆』
しかし尭は不器用らしく、なかなかふたりの姉たちのように、早く食べることができなかった。
「尭ー。あなた早く食べなきゃダメじゃない」
「そうよ。春香ちゃんの天気予報、聞いたでしょ?」
「……」
尭は黙って懸命に食べていたが、懸命になればなるほど、どうにもこうにも食べるのが遅くなってしまった。一方、冬樹は、響子に助けられながらではあるが、右手に握り飯、左手にウィンナーを持って、もりもりと頼もしく食べていた。
「ほら、尭。冬樹くんを見習いなさいよ」
姉たちの叱咤(しった)に耐えかねた尭は、思わず喉(のど)に痞(つか)えて咳(せき)込んでしまった。
「尭ちゃん、大丈夫?」
明日菜はジュースを差し出すと、尭の背中を優しく擦(さす)ってやった。
「んもう! ママは尭に甘いんだから」
「だって仕様がないじゃないの。ね?尭ちゃん」
「……」
尭はうんともすんとも言わず、油汗を垂らしながらひたすらジュースを飲んでいた。
「あー、もうお腹いっぱい☆」
食事が終わった春香は、再び雲の観察を始めた。空には雨雲が群がり、今にも降りだしそうになっていた。
「ママ、もうすぐ降りそうよ」
「あら、ホント?」
冬樹に弁当を食べさせていた響子は、残った握り飯とおかずを一段の重に詰めて重箱を重ね、蓋(ふた)をして風呂敷で結(ゆ)わえた。三鷹は、明日菜と尭をベンチに座らせて、五代と一緒にピクニックシートを畳(たた)んだ。
「ママと尭は、そこでゆっくり食べていなさい」
「済みません…」
「モエ、メイ。自分の食べた後のゴミは、自分で片づけなさい」
「はーい☆」
「じゃ、五代くん、これを」
三鷹は畳(たた)んだピクニックシートを五代に渡した。
「響子、これ…」
五代は、受取ったピクニックシートを響子に渡し、子供たちの手を牽(ひ)いてワールドバザールへ避難しようとした。すると春香は言った。
「パパ。あたし、イッツ・ア・スモール・ワールドに行きたい」
「え!? でもお前、雨が降りそうなんだろ?」
春香は事も無気に言った。
「雨雲がちぎれて流れてるわ。雨は驟雨(にわかあめ)よ」
「ふうん…」
そんなものなのかな、と五代は思った。
「ま、お天気博士がそう言うなら、行ってみるか」
「やったー☆」
「三鷹さんもどうです?」
「いいねぇ、イッツ・ア・スモール・ワールド。あれ、僕も好きなんだよ」
「じゃ、決まりですね」
「あぁ」
明日菜と尭の食事が終わると、五代一家と三鷹一家は、揃(そろ)ってイッツ・ア・スモール・ワールドへ向かった。今日は平日でしかも雨も降りそうだったので、五代たちは外に並ばされることもなく、すぐ屋内に入ることができた。内部に入ると、鼻を衝くようなカルキの臭(にお)いと、むわっとする人いきれが充満していた。室温は外気よりもあたたかかったが、その分、湿度も更に高いような気がした。
ボーン、ボーン…。
楽しい音楽に混じって、やわらかい物が洞窟(どうくつ)内でぶつかるような低い反響音がときどき聞こえた。つづら折りのスロープを下がって行くと、元気の良いスタッフが爽(さわ)やかに尋ねてきた。
「お客様は何名ですか?」
「四人です」
「ではどうぞ。足元にお気をつけ下さい」
「次のお客様は?」
「五人です」
「ではどうぞ…」
五代一家と三鷹一家は、丸い大きなゴムボートのようなゴンドラに乗せられ、ときどき壁にぶつかりながら、水路の中を進んだ。中では、民族衣装を着た子供の人形たちが、皆で「イッツ・ア・スモール・ワールド」を歌って踊っていた。これには、春香はもとより、響子も大喜びだった。
「わー! 可愛いー! ねぇ、あなた見てよ」
「きゃー☆」
春香も興奮して奇声を上げていた。ふたりの喜び様に、五代と冬樹は半(なか)ば呆(あき)れていた。
「ぼく、ミッキーとあうほうがよかった」
冬樹は「ミート・ザ・ミッキー」のことを言っているらしい。後ろのゴンドラからは、三鷹の爽(さわ)やかな笑い声が聞こえてきた。
「いやー、愉快、愉快。どうだ? 皆。楽しいだろ?」
『とっても☆』
「……」
「良かったわね」
明日菜も楽しそうだった。イッツ・ア・スモール・ワールドは、あっという間に終わってしまった。外に出たときには、既に雨が降っていた。
「春香。あなたの天気予報、当たったじゃない。すごいわ」
「えへへ☆」
「これで驟雨(にわかあめ)だったら、ホントにいいんだけどな」
「大丈夫よ。すぐ晴れるわ☆」
春香は自信満々に言ってのけた。
「じゃぁ、暫くここで待っていようか。三鷹さんはどうします?」
「春香ちゃんを信じて、ウチもここで待つことにしよう」
五代たちは雨宿りをすることにした。
結 尭(たかし)、再び!
果たして雨ははれた。春香の面目躍如(やくじょ)だった。
「どう? パパ」
「凄(すご)いな、春香。お前の言った通りになったな」
「えへへ☆」
そこへ待ちくたびれた冬樹が、駄々(だだ)を捏(こ)ねた。
「ミッキーにあおうよ、ミッキー」
「分かりました。行きましょうね、冬樹」
響子は優しく冬樹を往(い)なした。
「三鷹さん、どうします? ご一緒します?」
「いえ、僕らはこれで…」
「そうですか。それじゃ、お元気で」
「響子さんも」
三鷹は明日菜と子供たちに挨拶(あいさつ)を促した。
「ご機嫌よう」
『さようなら☆』
「さようなら」
響子はにこやかに微笑(ほほえ)んだ。
「三鷹さん、たまには一刻館(うち)の方にも遊びに来てください」
五代は何かが吹っ切れたように、突然そんなことを言い出した。三鷹は持ち前の不適な笑みを浮かべた。
「そうだな。君がいないときにでも行ってみるか」
「まぁ…」
明日菜が苦笑した。
「後で喧嘩(けんか)なんかしないで下さいね」
響子は茶々を入れた。
「大丈夫ですよ」
三鷹は爽(さわ)やかに歯を光らせた。
「春香ちゃん、また会えるといいね」
モエが名残を惜しんだ。
「モエさん、メイさん、それに尭(たかし)くんも元気でね」
「……」
「ほら、尭。あなたも何か言いなさいよ」
メイが痺(しび)れを切らした。
「…さよなら」
「うん」
春香は尭ににっこり笑って見せた。
「それじゃぁ」
五代が子供たちの手を牽(ひ)いて、三鷹一家と別れようとしたときだった。
「春香さん!」
尭が叫んだ。三鷹と明日菜は驚いて、尭の方を見やった。尭は俯(うつむ)きながら、必死にことばを振り絞っていた。
「あ、あの…ぼく…ぼく、今日はとっても、とっても楽しかった…。天気予報、すごかった。感動した」
明日菜の顔がみるみる明るくなった。
「尭ちゃん、あなた、ちゃんと言えるじゃないの」
五代と響子は、嬉しそうに互いを見合った。
「今度!」
尭はまた大きな声を出した。
「今度…春香さんの家に…あの、遊びに行ってもいいかな?」
春香は、尭の手を取って左右に揺らした。
「もちろんよ」
尭は少し頬(ほお)を赤らめながら、にっこりと笑って見せた。
「一刻館(うち)に来たら、あたしのひみつの発明、見せてあげる」
「ホ、ホント?」
「ホント☆」
春香と尭は小指を結び、交互に歌った。
「指切りげんまん〜♪」
「うそついたら、針千本飲ーます〜♪」
『指切った〜♪』
「ふ、ふふふ…」
「あは、あははは…」
春香と尭は、急に笑い出した。日ごろ見せない尭の姿に、三鷹は少々驚いたようだった。明日菜はふたりを優しく見守っていた。響子は、春香と尭の手を握った。
「尭くん、ぜひ一刻館(うち)に遊びに来てちょうだいね」
「約束よ」
尭は無言のまま、力強く頷(うなず)いた。五代は尭を揶揄(からか)った。
「一刻館(うち)の住人は変人ばかりだから、来たらきっとびっくりするぞ」
「確かに」
三鷹は、さもありなんという風に頷(うなず)いた。
「三鷹さん!」
響子が三鷹を窘(たしな)めた。
「はっはっは…」
「ははは…」
五代一家と三鷹一家は、みな哄笑(こうしょう)した。
雨雲は流れ去り、雲の切れ間から夕陽が差し込んできた。イッツ・ア・スモール・ワールドの建物が雨粒にきらきら光り、周りの植栽も瑞々(みずみず)しかった。雨の間隠れていたポップコーン売りが、五代たちの傍(かたわ)らを通り過ぎた。どこの子供か、放したアルミの風船を一生懸命追っ駆けていた。ディズニーランドに新しい秋の風が吹き抜けた。(完)