郁子の贈り物
作 高良福三
序 紡ぐ思い
コロコロ…。
季節はずれの蟋蟀(こおろぎ)がひとり寂しくないている。くまのない碧(あお)い上弦の月明かりに照らされて、庭の木々は蒙(くら)くその姿をそらに浮かび上がらせている。柊(ひいらぎ)南天の葉は蒼々(あおあお)として、その青い実は既に萎み落ちている。ときおり吹く風が枯れたすすきの穂を波打たせる。深夜の一刻館は灯りを落とし、ひっそりと眠りに就いていた。
中野にある音無家では、二階の窓から煌々(こうこう)と灯りが点(とも)るのが見えていた。
コチコチ…。
時計の秒針の時を刻む音だけが、深々とした部屋の中から聞こえてくる。郁子の部屋だ。郁子は家人が寝静まった深夜、ひとり編物に耽(ふけ)っていた。
「…えーと、次の列は…」
郁子が本を見ながら丹念に編み目を確認する。クリスマスに向けた彼氏へのプレゼントのようだ。器用に編み棒を繰り込む指先に、緑色の毛糸が順繰り順繰り送られて行く。郁子の手さばきは慣れたものだった。
「ふーっ」
郁子は疲れた眼を擦(こす)り、小さな溜(ため)息を吐(つ)いた。時計の針は既に午前2時を過ぎていた。
「今日はこれくらいにしよっかなぁ。明日も仕事だし…」
郁子は語学学校で女性スタッフとして働いているのだ。明日は遅番なので昼過ぎまでに教室に行けばよい。少々の夜更かしは可能だ。
「これで前身頃(みごろ)も半分は完成ね」
郁子は前身頃を裏に返し表に返し、編み目に乱れがないか何度も確認した。そして既に完成済みの後身頃と前身頃とを重ね合わせ、寸法に偏りがないかも確認した。郁子の編み目は整然としていて、まるで機械で編んだようだった。郁子は両身頃を机の上で丁寧(ていねい)に延ばすと、その上に突っ伏して深呼吸をした。毛糸のあたたかい匂いがした。郁子はささやかな満足感に浸りながら、期待に胸をふくらませていた。
「稔さん、気に入ってくれるかなぁ?この色…」
緑は郁子の大好きな色だ。
「あっ!」
起き上がった郁子の腕が毛糸の玉に当たった。
ころころ…。
毛糸の玉は小動物が跳ねるように部屋の隅まで転がった。
「んもう!私ってば!」
郁子は疲れた腰を上げて毛糸の玉を拾いに行くと、巻きながら机まで戻って行った。机の上には、先ほどの前身頃と後身頃が重ねられたまま無造作に投げ出されている。郁子は、編みあがったセーターを着ている稔の姿を想像しながら、ひとりくすくすと笑った。
「残りはまた明日ね」
郁子は、家鴨(あひる)の形をした籠(かご)に編物道具一式を仕舞い、大きな欠伸(あくび)をした。
「さぁ、もう寝よ寝よ」
郁子は階下(した)に降り、冷蔵庫に冷やしてある牛乳をコップについで飲んだ。口角にうっすらと生えた産毛に牛乳がつく。郁子はそれを恥ずかし気にそっとパジャマの袖で押さえた。
《あ、そうだ。明日はジョンがお休みなんだわ。明日はレッスンのシフト表、直しておかないと…》
階段を上がりながら、郁子はそんなことを考えていた。
一 Please repeat after me
「おはようございます」
郁子は13時に教室に行った。
「おはよう」
「おはようございます」
語学学校の女性スタッフが口々に挨拶(あいさつ)する。
「オー郁子、調子はどう?」
シニアティーチャーのクリスが気さくに話し掛ける。
「ハイ、クリス。元気よ。ありがと」
郁子はコンピュータに着くと、今日のレッスンスケジュールを確認しながら尋ねた。
「クリス、今日の授業はチェックした?」
「勿論(もちろん)。今日は9コマだ。あぁ、忙しいよ」
「クリスはここじゃ大事なひとなんだから、頑張ってね!」
「ありがとう」
クリスは自分の腕時計を見る。
「やべっ!次の授業が始まっちゃうよ」
「頑張ってね!」
「じゃぁ」
クリスは慌てて次の授業に向かった。郁子は笑った。
「クリスも相変わらずね」
「でも彼の人柄は生徒さんからも好評よ」
同僚の女性スタッフが郁子に話す。
「そうね。彼、結構人気あるもんね」
郁子はコンピュータの前で、ジョンのシフト表を直していた。すると背後から何者かが郁子の肩に手を置くのが感じられた。郁子はびっくりして振り返る。稔だ。郁子は3年ほど前この教室に配属されたマネージャーの稔と交際をしていたのだった。付き合いも長い。語学学校の同僚はもちろんのこと、郁子の家族からも公認の仲だ。しかし稔はそのことが嫌ならしく、教室ではひとり、郁子と付き合っていない振りをしていた。稔は郁子の耳元でささやいた。
「郁子ちゃん、ちょっと…」
稔は郁子を給湯室に連れ出した。
「なーに?稔さん」
「郁子ちゃん、今年のクリスマス、予定はどうする?」
「稔さんはどうしたいの?」
「三茶に最近新しいビルが出来たろ?今年はさ、そこの最上階のレストランでディナーなんてのはどう?きっと夜景もきれいだと思うよ」
郁子の教室は世田谷にあるのだ。三軒茶屋も近い。
三軒茶屋は昔、玉電の分岐駅だった。玉電は渋谷から三軒茶屋を経由して二子玉川園へ行く玉川線と、三軒茶屋から分岐して下高井戸へ行く下高井戸線があった。現在、渋谷から二子玉川園までは、東急田園都市線の地下鉄になっている。しかし下高井戸線は今でも現役で、当時の面影を色濃く残しており、通称世田線として鉄道愛好家の間でも人気が高い。いわゆる昔の電車なのだ。その分岐駅だった三軒茶屋は世田谷の中でも栄えた街で、半蔵門にある国立劇場に、老舗(しにせ)の和菓子屋が出店している程だ。それでも昔は、ちょっと街から外れると、小川や田圃(たんぼ)が広がるのどかな田園地帯だった。ところが近年の急激な人口増加の影響で、今では高速道路と高層マンションが立ち並ぶようになっていた。その中で一際目立つのが最近完成したキャロットタワーだ。その名のとおり、全体が人参(にんじん)をイメージした橙色で、下層部は新しくなった三軒茶屋駅と店舗が入り、上層部はオフィスなどがテナントしている。その最上階には、郊外側の無料展望台と、都心側のレストランがある。稔はそのレストランに郁子を誘おうというのだ。
郁子はそんな稔の提案に、意地悪そうに悩んで見せた。
「うーん。どうしよっかなー…」
稔が焦る。
「郁子ちゃん、行こうよ。きっと好い眺めだと思うよ」
「でもおじいちゃんが何て言うかしら?」
郁子は、稔の慌て様を楽しむかのように焦らせた揚句、恰(あたか)も決心したかのような面構えで言った。
「それなら行こっかな☆」
稔の顔が明るくなる。
「ホント?郁子ちゃん」
「うん。いいわよ」
郁子が微笑む。
「やったー!」
稔は本当に嬉しそうだった。
「じゃぁ、詳しいことはまた連絡するよ」
「うん」
キーンコーンカーンコーン…。
「あら、もうレッスンが終わる時間だわ」
教室のブースからは、レッスンを終えた生徒たちが続々と出てくる。次のレッスンを予約する生徒たちが一斉にカウンターに群がる。女性スタッフの仕事の時間だ。郁子は慌てて予約カウンターに入った。
「はい、田中さん。生徒番号は何番ですか?」
「4143です」
「はい。次は何時がよろしいでしょうか?」
「えーと。来週は水曜日が暇なので、夕方から空いてますか?」
「少々お待ち下さい。今お調べしますね」
カタカタ…。
郁子は慣れた手付きでコンピュータを操る。
「ごめんなさい。水曜日の夕方は19:30からしか空いてませんね」
「うーん。じゃぁ、次の日はどうですか?」
「木曜日の夕方ですね」
カタカタ…。
「はい。お待たせしました。木曜日でしたら、夕方何時からでも空いてますよ」
「じゃぁ、17:50からお願いします」
「はい。それでは12月5日木曜日17:50からお待ちしています」
「宜しくお願いします」
「はーい。お疲れさまでーす」
郁子はこんなやりとりをレッスン毎に繰り返している。郁子は性格が可愛く応対も丁寧なので、生徒たちからも人気がある。数人いる女性スタッフの中から、わざわざ郁子に予約を入れてもらうことを密かな楽しみにしている生徒もいる。それだけにレッスン終了後は毎回てんてこ舞になるのだ。
そんな郁子の人気振りを好ましく思わない男がいる。稔だ。稔は外国人ティーチャーと打ち合わせをしながら、ちらっちらっと郁子の方を盗み見する。稔は相当な悋気(りんき)持ちのようだ。クリスマスの予定をひと月ほど前から確認しようとするところがその証拠といえよう。郁子は、そんな稔の気持ちなど全く意識していなかった。
「郁子ちゃん、ちょっと…」
稔は何かと郁子に用事を頼み、気を惹(ひ)こうとする。ところが郁子は至って平気の平左(へいざ)だった。
「なあに?稔さん」
「この資料なんだけどさ、6部コピーしてくれない?」
「いいわよ。誰に渡すの?」
「クリスとジョンとトム、テッド。あとジェフにもね」
「あと一部は?それに今日ジョンはお休みよ」
「そうだっけ?じゃぁ、一部は僕に、ジョンには明日渡しておいて」
「OK☆」
稔は辺りを窺(うかが)うように確認してから、また小声で囁(ささや)いた。
「ところでさ、これから食事でもどう?」
「ごめーん。今日はちょっと用事があるの。また今度誘ってくれない?」
郁子はセーターの残りを編もうと考えているようだ。時計は21時半をまわっていた。明日は早番なので夜更かしはできない。しかしクリスマスも近い。どうしても内緒で編んでクリスマスに間に合わせたい。そんな気持ちから郁子は少し焦っていた。
「最近付き合い悪ぃのな」
稔が口を尖(とが)らせる。
「今度埋め合わせするから。いいでしょ?ね、お願い!このとおり!」
郁子に手を合わせられると稔も弱い。
「ん。じゃぁ、また今度な」
こうして語学教室の一日は忙しく過ぎていった。
二 和みの部屋
その頃、一刻館では冬樹の世話で大忙しだった。
「だー、あー」
「これ、冬樹!駄目です、そんなことしちゃ!」
冬樹は既に歯も生え揃(そろ)い、よちよちではあるが、何とかひとりで歩けるようになっていた。最近は自分の身の周りの物に対して強い関心を抱くようになり、五代や響子の真似をしたがっていた。今も急須(きゅうす)を持って逆さにひっくり返そうとしていたのだ。響子は急須を取り上げて炬燵(こたつ)の上に置くと、冬樹を抱き上げた。
「あーあっ!あーあっ!」
冬樹は自分の思い通りにならないためか、顔を赫(あか)くして劇(はげ)しく響子に抵抗した。いつも響子が茶殻を捨てているところを見て、自分もやってみたかったようだ。
「全く。子供ってホント何やり出すか分かんないわね。春香はもうちょっと大人しかったのに…」
《やっぱり男の子だからかしら?》
冬樹はもう直ぐ2歳になる。断乳は既に済んで普通食を食べさせているが、そのいたずら振りが手に負えない。この間もご飯に味噌汁を掛けようとしてちゃぶ台にこぼし、大騒ぎしたばかりだった。
「なんだ。またやってるのか?」
春香を連れて風呂から帰って来た五代が、ドアを開けて管理人室に入って来た。響子は五代のことばに不満そうだった。
「あなたはいいでしょうけど、あたしは冬樹の世話で大変なんですからね!」
「ごめんよ。別にそういう意味じゃないんだ」
響子は相変わらず、家事と管理人の仕事をしながら、冬樹の面倒を看ていた。保育園には入れていない。お金がないということもあるが、親の愛情の中で子供を育みたいという五代の教育方針でもあった。春香が小学校に行ってくれているお蔭で、午後までは何とか管理人の仕事ができても、春香が帰ってくるといつも大騒ぎになる。そんな状態を五代は今ひとつ認識していなかった。
「あたしは毎日毎日大変なんだから!」
響子が五代に噛みつく。
「へぇへぇ。どうも済みませんでした」
五代は手拭いを衣文(えもん)掛けに干しながら響子を往(い)なした。
「んもう!あなたのそういう言い方がカチンと来るんです!」
響子の追撃は終わらない。
「分かった。ごめんよ、響子。もうそんな言い方しないから」
五代が響子の機嫌を取ろうと肩を抱く。すると下からバタバタと音がした。
「ママ、ずるい。はるかもだっこー」
「え?」
五代が驚く。響子は弱った顔をした。
「そんな、春香。一度にふたりも抱っこできないわよ」
「んんー。いま いまー」
春香が駄々を捏(こ)ねる。
「こら、春香。我がまま言うんじゃないよ。パパが抱っこしてあげるから…」
五代が軽く窘(たしな)める。しかし春香は五代に抵抗した。
「だってはるか ママがいいのー」
響子はちょっと考えてから優しく諭した。
「春香?良い子だから、もうちょっと待っててね」
五代が観念した。
「響子。じゃぁ、冬樹は俺が抱っこするから…」
五代が冬樹を抱こうと手を伸ばす。
「大丈夫ですよ、あなた」
「え?」
「こう言っとけば直ぐ忘れますから」
「それもそうか」
ふたりは思わず笑ってしまった。
「パパ、ママ。なにがおかしいの?」
春香がふたりの顔を交互に見やる。
「いや。春香は解からなくていいんだよ」
「なんで?」
「どうしても」
五代はおどけた顔をして春香の背丈まで屈むと、春香のおでこに自分のおでこをくっつけた。
「パパって、へんなのー」
「ははは…」
そこへ響子が口を挟む。
「春香。湯冷めするから、もう早く寝なさい」
「はーい♪」
春香は抱っこのことをもう忘れている。響子の思惑は大当たりだ。
「じゃぁ、春香。パパと一緒にお蒲団(ふとん)敷こうか?」
五代の誘導もなかなか老獪(ろうかい)だ。
「はい♪」
「ほーら、春香」
五代が押入れから蒲団を取り出して床に置く。
「よいしょ、よいしょ」
すると春香が畳まれた蒲団を床に広げる。
「じゃぁ、次はシーツだ。ほら、春香。こっちの端持って」
「はい♪」
五代と春香は落下傘(らっかさん)のように大きく膨らませながらシーツを蒲団に被(かぶ)せる。
「きゃー♪ハイジみたい、ハイジみたい♪」
春香は、再放送で見た『アルプスの少女ハイジ』が干草のベッドにシーツを被せるシーンのことを言っているようだ。
「はい。掛け蒲団だよ」
五代と春香は、敷蒲団と掛け蒲団を互い違いに重ねた。
「それじゃ、春香。パジャマに着がえようね」
「はい♪」
響子は頃合を見計らって冬樹を抱きながら5号室に行くと、春香の新しいパジャマを持って現れた。
「あ!くまさんのパジャマだー♪」
可愛いくまのマスコットが描かれたパジャマは春香のお気に入りだ。春香は大喜びしながらも、不器用にパジャマに着がえた。
「さぁ、春香はもう寝なさい」
「おやすみなさーい♪」
春香は上機嫌で蒲団に潜り込んだ。
「やれやれ」
響子が小さな溜息を漏らす。
「今日は素直に寝ましたね」
五代は肘(ひじ)をぽりぽりと掻(か)きながら答えた。
「”くまさん効果”ってやつかな」
「まぁ」
響子がくすっと笑った。
「冬樹の方はどうだ?」
五代が冬樹の顔を覗(のぞ)き込んだ。冬樹は、響子の胸に貼りつくようにして既に寝入っていた。
「これでこっちも完了ね」
響子は冬樹を大事にベッドに寝かした。
冬樹の小さなベッド。周りには木製の柵が廻(めぐ)らせてあり、寝返りを打っても下に落ちないようになっている。響子の父に買ってもらった春香のお下がりだ。しかしもうそろそろこのベッドも卒業だろうか。ベッドに寝かせると小さな冬樹が大きく見えた。
冬樹はベッドの中ですやすやと寝ている。五代と響子はその様子をふたり並んで、暫く優しい気持ちで眺めていた。
「んご!…すー」
ふたりの背後から春香の寝息が聞こえてきた。春香も寝たようだ。
「あなた、お疲れさま」
「響子にそう言われると、何だか申し訳ないな」
「いえ。これも母親の務めですから…」
「いつもありがとう」
「ううん。それよりもあたし、少し休みたいわ」
「そうだな」
五代と響子は部屋の隅に避(よ)けた炬燵に当たった。
「あなた。蜜柑(みかん)どうぞ」
「ん。ありがとう」
ふたりは黙々と蜜柑を食べ始めた。ふたりだけの時間がゆっくりと流れて行く。
カチャ…。
食器棚の上の赤いデジタル時計の文字盤が繰り上がった。時刻は21:55。時計坂の街は静寂な空気に包まれていた。虫の声はしなかった。只ときおり吹く風がさわさわと木々を揺らし、建て付けの悪い窓をガタガタと震わせる音が聞こえるくらいだった。今日は宴会もないらしい。珍しいこともあるものだな、と五代が思ったとき、響子が幸せな沈黙を破った。
「あなた。そろそろテレビでも観ます?」
「そうだな。じゃぁ、ニュースでも観るか」
五代家ではNHKの「ニュース10」を毎日観る習慣があった。新聞は購読していたが、テレビのニュースを観れば夕刊を取らなくても済む。これも響子の生活の知恵だった。
「今年4月から始まった地下鉄サリン事件の裁判で、オウム真理教教祖、麻原彰晃こと本名松本智津夫被告は…」
アナウンサーが淡々とニュースを読み上げる。五代はうんざり顔だ。
「あれも酷い事件だったよな。何で宗教団体があそこまでやるかねぇ」
「そうね。被害者の方々も大変でしょうね」
昨年平成7年3月20日におきた地下鉄サリン事件は、日本のみならず世界を震撼させた大事件だった。営団地下鉄の日比谷線、千代田線、丸の内線の3路線で、併せて5本の電車に猛毒のサリンが撒(ま)かれたのだ。事件が勃(お)きたのが通勤ラッシュの時間帯だったため、乗客や駅員など12人が死亡し、約6,000人の重軽傷死者を出した。被害に遭(あ)った地下駅と地上では大パニックが発生した。日比谷線の築地駅では、道路にまで青いビニールシートが敷き詰められ、被害者が多数横たわった。周辺にはパトカーや救急車、消防車、果ては自衛隊の化学処理班が出動するなど、東京のオフィス街は正に戦場さながらだった。警視庁はこの事件をオウム真理教の犯行と断定し、翌々日の22日、総本山である山梨県上九一色(かみくいっしき)村の教団施設を強制捜査した。その結果、2ヵ月後の5月16日に教祖の麻原彰晃を逮捕した。裁判は今年4月から始まっていたが、麻原氏が奇行詭弁を繰り返したため、公判が中断することも屡(しばしば)だった。麻原氏は17件の事件の首謀者として起訴されており、真相を探るにはまだまだ時間がかかりそうだった。
「毎日、毎日、オウム、オウムか…」
五代が溜息を吐く。
「でも来年は良い年になるわよ、きっと」
五代が微笑む。
「そんなこと言うと鬼が笑うぞ」
「あら」
響子が笑った。
「でも来年はホント良い年になってもらいたいもんだな」
五代は冬樹のベッドの傍(かたわ)らに立つと、眠っている冬樹の額をそっと撫(な)でた。
「この子のためにも…」
響子が五代の背中により添って五代の胸に腕を回す。
「えぇ」
五代は振り向くと響子にそっとあたたかいキスをした。
「やだ、あなた」
響子が恥らう。
「もう寝ようか」
「そうね。明日も早いですもんね」
「それじゃぁ…」
五代と響子は寝巻きに着がえ、床に着いた。その日の夜半前、管理人室の灯りが落とされた。
三 稔の思惑
コチコチ…。
クリスマスまであと一週間、音無家の二階では今日もあかりがともっていた。
「これで袖も完了、と。後は縫うだけね」
郁子は編み針に毛糸を通すと、身頃がずれないように入念にぬい始めた。
スーッ…キュッ…。
「うふふ…」
稔へのプレゼントももう直ぐ完成だ。
「やっぱりこの毛糸にして正解だったなぁ」
緑色のセーターは、大柄な割にはふんわりとやわらかく、市販品のような見事な出来映えに仕上がっていた。
「これなら稔さんも大喜びね」
郁子はセーターを渡す瞬間を想像しながらひとりくすくすと笑った。
「あと一週間か…。クリスマスは生徒さんも少ないし、素敵な夜になりそうね」
郁子はクリスマスのディナーを心待ちにしていた。
「晴れるといいなぁ」
キャロットタワーの展望レストランは都心側に面しており、夜景が非常にきれいという噂だ。冬の東京タワーは暖色系のライトアップがなされ、イルミネーションが施されたお台場のレインボーブリッジも見える。ワイングラスを傾けながら観る都心の夜景は、きっと何よりの御馳走だろう。
《どうしよう。クリスマスにドレスアップしていったら、また皆に何か言われるわよね。でもこないだ買ったお洋服、着て行きたいしなぁ》
郁子は後ろ頭に指を組んで椅子にのけぞった。
《それともお洋服持って行って、タワーのトイレで着がえようかしら?》
いろいろと考えを議(めぐ)らす。
コンコン…。
「はぁい」
「あなた、まだ起きてたの?」
郁子の母だった。
「ねぇ。これ、稔さんのプレゼント。ママ、見て☆」
郁子は得意そうに完成したばかりのセーターを掲げた。
「あら。上手に編めたわね。でも早く寝ないさい。風邪でも引いたら大変だわ」
「大丈夫よ」
「ダメよ。最近あなた、毎晩のように夜更かししてるみたいだし…」
「いっくら若いっていっても、体が耐たないわよ」
「だってママ…」
「今年のクリスマスは稔さんとデートなんでしょ?健康管理もしっかりしておかないと…」
「んもう。分かったってば!今日はもう寝るわよ」
「そうしなさい。明日は早いの?」
「ううん。明日も遅番。だからやってるのよ」
「まぁ、それならいいけど…」
「お父さんも郁子のこと、心配してるのよ」
「だいじょぶだってば」
音無老人は、がんになってから健康面の管理をことのほか重要視するようになり、酒もタバコも止めていた。更にはそれを家族にも強要し、早寝早起きを推奨していた。
「最近おじいちゃんも煩(うるさ)くなったわよね」
郁子が口を尖(とが)らせる。
「まぁ、しょうがないじゃない。お父さんも、あれで郁子のことを心配してるんだから」
「分かったわ。じゃぁ私、今からシャワー浴びて寝るから、それでいいでしょ?」
「冬なのにシャワーなんて…。湯冷めなんかして暮々も風邪を引かないようにね」
「うん」
「それじゃ…」
パタン…。
郁子は椅子に座り直し、しげしげと完成したセーターを見詰めた。
「きっと稔さんに似合うわ☆」
そしてパジャマと替えの下着を持つと、郁子はシャワーを浴びに階下へ降りて行った。
次の日、語学学校の女性スタッフの間では、クリスマスの話題で持ち切りだった。
「ねぇ、吉田さんは今年どうするの?」
「彼氏とデート?」
「…いえ。実は、ついこないだ別れちゃったんですよね」
「…あら、そうだったの?」
「ですから今年はロンリークリスマスです。家族と一緒に過ごします」
「余計なこと言ってごめんなさいね」
「いいですよ。気にしてませんから」
「奈良橋さんはどうされるんですか?」
「私はフィアンセーとデート。恵比寿のウェスティンでディナーよ」
ウェスティンホテルはサッポロビールの工場跡地に再開発された恵比寿ガーデンプレイスにある。一昨年開業したのだが、お洒落(しゃれ)なホテルとして今でも女性雑誌を賑(にぎ)わせていた。
「わー、いいなぁ。ウェスティン…」
奈良橋は一通り会話が終わると、にやーっと笑って郁子の方を見た。郁子が身構える。
「な、何ですか?」
「あなたはクリスマス、どうするの?またいつものようにホームパーティ?」
「…いえ、別に」
郁子は必死にごまかそうとした。
「別に、なに?」
奈良橋の追及は厳しい。
「…あ、あの。彼とキャロットタワーでお食事を…」
「キャロットタワー…」
奈良橋は一瞬キョトンとしたが、直ぐ意地悪な顔に戻った。
「それだけ?」
奈良橋はよからぬことを想像しているようだ。
「…それだけです…」
郁子が恥ずかしそうに俯く。
「まぁ、若いってのはいいことだわね」
奈良橋は今年33歳でもう直ぐ挙式だった。その性格が幸いしてか災いしてか、結婚式の準備は全部婚約者任せだった。女性スタッフのリーダーだったが、仲間内では「お局さま」と囁(ささや)かれていた。
「…ふーん。”それだけ”なんだ…」
奈良橋の目付きは郁子をなぶるようだった。それを察した吉田が話題を替えた。
「そういえば、奈良橋さん。新春のキャンペーンのことでお伺いしたいんですけど…」
「何?」
「私、新米なんで生徒さんにどうお勧めしたらいいか、よく分からないんですよ」
「そんなの簡単よ」
奈良橋は営業における心理的な誘導方法について一連の講義を始めた。
キーンコーンカーンコーン…。
レッスンが終了した。予約カウンターにまた生徒たちの波が押し寄せた。対応におおわらわな郁子に稔が声をかける。
「郁子ちゃん、それが終わったらちょっと…」
「はい」
《何かしら?》
生徒たちがいなくなると、郁子はマネージャー室のドアをノックした。
四 郁子悄切(しょうせつ)
コンコン…。
「はい、どうぞ」
稔の声がした。郁子は何の遠慮もなくそのまま部屋に入って行った。
「なーに?稔さん」
稔は不愉快そうに腕を組んだ。
「ここでは僕はマネージャーだ。いつも言ってるだろ?ちゃんとマネージャとして対応してくれよ」
郁子は後ろ手を組んで楽しそうに腰を振った。
「いいじゃない。だってもうバレバレなんだから」
「それとこれとは話が別だ」
稔が郁子から目を逸らせた。相当照れ屋のようだ。稔は回転いすをくるっと回して背を向けると、徐(おもむ)ろに郁子に尋ねた。
「郁子ちゃん。最近何か僕に隠していることはないかな?」
「え?それってどういうこと?」
郁子が小首をかしげる。稔は、組んだ二の腕を人差し指で神経質に小突きながら、窓の桟(さん)に目を遣っていた。窓の下には、行き交う車のライトが夜の闇に赤や黄色の短い光の帯を作っていた。その光の帯が稔の角膜に映り込んでは消えていった。稔は暫く沈黙を保っていたが、突然その瞳孔を収縮させた。
「君には分かっている筈(はず)だろう?」
稔の声はかなり真剣だ。郁子が口を尖(とが)らせる。
「なーに?そんな声を荒げて…」
「ほら!君は僕の質問に答えていない!」
「ど、どうしたのよ、稔さん」
稔は回転いすを郁子の方に向け直し、机に両手をダンと突いて立ち上がった。
「さぁ、答えろ!何を隠しているんだ!」
郁子は驚きのあまり何も言えなかった。
《セーター編んでること答えなきゃならないのかしら?でも、だってそうしたら折角クリスマスのプレゼントで驚かせようと思ってたのに、駄目になっかうもん》
答えに戸惑う郁子に対し、稔はいきなり核心を突いてきた。
「僕の他に、男がいるんじゃないのか!」
「はぁ?」
郁子は思いっきり嫌な顔をした。あまりの顔に稔の方が驚いたくらいだ。
「そ、そうじゃないの?」
「なんで稔さんは、私のことそんな風に考えるの?」
「だって郁子ちゃんは生徒たちには人気があるし、最近は食事に誘っても、全然付き合ってくれないじゃないか。何だか怪しいんだよ、行動がさぁ」
郁子は大きな溜(ため)息を吐(つ)くと、両手を腰に宛(あて)がい稔の方に向き直った。
「言っときますけどねぇ、あなたがどう思おうと勝手だけど、そういうのって女性にとって、とーっても失礼なのよ!」
「稔さんがそんなにヤキモチ焼きだなんて知らなかったわ」
「……」
「用件が済んだようだから、私帰るわね。今日も早く帰らなきゃならないの」
バタン…。
取り残された稔は、暫くの間、呆然(ぼうぜん)としていた。
音無家の夜は静かだった。音無老人は本を読み、郁子の母は台所で夕食の準備をしていた。
ガラガラ…。
引き戸を開ける音がする。
「あら、郁子。帰ったの?」
郁子の母が台所の暖簾(のれん)から顔を出す。
「ただいま…」
郁子の様子がおかしいことに、郁子の母は直ぐに気付いた。
「何?今日お教室で何かあったの?」
「うん…。ちょっとね」
郁子が思い詰めたように小さな溜(ため)息を吐(つ)いた。郁子の母がほくそえむ。
「稔さん…のことでしょ?」
「え?」
郁子は躊躇(ためら)いの表情を見せて、軽く握った手を頤(おとがい)に宛(あて)がった。
「一体どうしたのよ?」
そこへ奥から音無老人がやってきた。
「おぉ、郁子。お帰り。お腹空いただろ?そんなとこに立っていないで、早く上がって来なさい」
すると音無老人は郁子の母に指図した。
「おい、夕食の用意だ」
音無老人は郁子がやっと帰って来て上機嫌だ。昔から音無老人は郁子のことが大好きだった。腰の悪いことを口実に自分のお伴をさせたり、郁子の欲しがる物は何でも買い与えたりしていた。郁子もそんな音無老人に懐(なつ)いていたが、今ではもう立派な社会人だ。昔のように音無老人にべったりという訳にもいかない。それが音無老人にとっては非常に寂しかった。しかも郁子は語学学校の女性スタッフのため、帰宅時間は普通のOLよりもずっと遅い。郁子の父も帰りが遅いから、音無家の夕食はふたりに合わせて22時頃とることが多い。というよりも寧(むし)ろ、郁子が帰って来ると音無老人が夕食の号令を出すのだ。音無老人は年齢のせいで食欲もあまりないから、何時に食べようが特に問題にはならない。郁子と一緒に食事をとるということの方が大切なのだ。
「郁子。今日はすき焼きだぞ、すき焼き」
音無老人の満面の笑顔とは裏腹に、郁子の母は呆(あき)れたように台所に戻って食事の準備を始めた。
郁子は二階の自分の部屋に行って部屋着に着がえた。机の上には家鴨(あひる)の籠(かご)が置いてある。それを見ると先ほどの稔のことが思い出されて情けなかった。
「全く。あんな人だったなんて…」
郁子は家鴨(あひる)に向かって愚痴(ぐち)ると、頭を指で弾いた。フェルト製の頭はやわらかくて、指で弾いても痛くはなかった。
「あ〜ぁ」
郁子は背中からベッドに身を投げ出した。いつもの天井がやけに歪(ゆが)んで見えるような気がした。
「折角ここまで頑張ったのに…。今年初めてあげるのに…」
郁子と稔の付き合いは長かった。少なくとも2年以上は続いている。稔の性格は外面が明朗なため、交際を始めてから直ぐ郁子の家族とも仲が良くなり、音無家にも食事などでよく出入りしていた。そのせいもあって、普通の恋人同士のように、クリスマスにシティホテルで忍び会い、互いにプレゼントを交換することなどはなかった。ふたりのクリスマスは、一緒に互いのプレゼントを買いに行き、帰って来て音無家でホームパーティをするのが俗(ならわし)になっていた。しかし郁子も今年で29歳。稔との結婚を控えた郁子は、独身最後のクリスマスに初めて稔に内緒でセーターを編むことにした。稔が郁子のことを訝(いぶか)しがるのは、そういう背景があったのだ。
「郁子ー。早く降りて来なさーい」
階下(した)から郁子の母の声が聞こえた。郁子はむくっと起き上がると、悲しそうに佇(たたず)む家鴨(あひる)の頭をそっと優しく撫(な)でて部屋を出た。
グツグツ…。
「おぉ。来たか」
音無老人が郁子を席に招き寄せる。すき焼きのあたたかい匂いが漂(ただよ)う食卓には、既に郁子の父も着いていた。
「郁子。何やってたんだ?」
「うん。ちょっとね…」
郁子は寂しそうにぽつりと呟(つぶや)いた。
「さぁ。じゃ、早く戴きましょう?」
郁子の母の朗らかな号令で音無家の食事が始まった。
グツグツ…。
郁子の父は生卵をたっぷり絡めて肉を頬(ほお)ばった。続いてご飯を流し込むように飲み込む。その刹那(せつな)次は葱(ねぎ)へと箸(はし)を伸ばす。郁子の父は食べるのがとても早かった。音無老人も郁子の母も黙々とご飯を食べている。一方、郁子は茶碗を持ったまま箸の先を軽く噛み、何か考え込んでいるようだった。そんな郁子の様子に音無老人が敏感に反応した。
「ん?どうした、郁子。食べないのかな?」
「え?」
「お前の大好きなすき焼きだぞ?」
「あらホント。郁子、お腹の具合でも悪いの?」
郁子ははっと我に返ったように動き出し、徐(おもむ)ろに椎茸に箸(はし)を伸ばした。
「ううん、大丈夫…。あちっ」
郁子はよく煮えた椎茸に火傷(やけど)しそうになりながら、不器用に言い訳した。
五 サンタクロース
12月21日。春香の通う時計坂小学校では、二学期の終業式が行われていた。校長の訓示に始まり、校歌斉唱と生活指導教官からの注意事項をもって式は終了した。児童は各教室に分かれて担任の教諭から最後の指導を受けていた。
「皆さーん。もう直ぐ皆さんが待ちに待っていたクリスマスやお正月がやってきます。プレゼントやお年玉をもらったら、何て言えばいいか分かりますかー?」
『はーい』
『はいはい』
児童が次々に手を挙げる。春香も自分を指してほしいらしく、五本の指をパッと開けて立ち上がらんばかりに手を伸ばしている。先生もその意地らしさに負けたようだ。
「はい。それじゃぁ、五代さん」
他の児童の落胆の声が漏れ聞こえた。
「はい!”ありがとう”です♪」
「はーい。よくできましたー」
担任の教諭は中央に向き直ると児童を諭し始めた。
「皆さんはもう立派な二年生です。何か貰ったらきちんとお礼を言いましょうねー」
『はーい♪』
「それではお休みの間、病気にならないように、規則正しい生活をしましょうねー」
『はーい♪』
「車には十分気をつけましょうねー」
『はーい♪』
「はい。それではこれで二学期はお仕舞いです。また来年、元気な姿でお会いしましょう」
担任の教諭はひととおり注意事項を述べると日直を促した。
「では日直のひと」
「はい♪」
日直は直立不動になると大きな声を張り上げた。
「先生、さようなら。みなさん、さようなら」
『先生、さようなら。みなさん、さようなら』
日直の音頭に合わせて斉唱した。
「じゃぁねー」
「ばいばーい」
児童が三々五々と帰って行く。春香は、自分の体とさして変わらないくらい大きなランドセルに、教科書だのノートだのを丁寧(ていねい)に仕舞っていた。そこへ後ろから声がした。
「春かちゃん、帰ろ♪」
近所に住む周くんだ。周くんは、一刻館から坂を下りた辻(つじ)を右に折れた3軒目の家に住んでいた。春香の足でも5分とかからない距離だ。幼稚園も春香と同じ時計坂幼稚園だった。しかし幼稚園の遠足で芋(いも)掘りに行く前日、急性虫垂炎(ちゅうすいえん)で急遽手術をすることになったため、遠足には行っていない。そのことが相当残念だったらしく、退院後は友達という友達を捕まえては、手術の痕(あと)を自慢気に見せびらかせていた。そのため友達からは「盲腸(もうちょう))男」の異名を取っていた。春香は、周くんとは大の仲良しだ。だから学校へ行くのも一緒、帰って来るのも一緒だった。
「いいよ♪」
春香は図画工作で描いた絵を手早く丸めるとランドセルの隅に押し込んだ。後は道具箱を持てば準備完了だ。
「よいしょっと♪」
春香はランドセルを背負い、右手に道具箱を提(さ)げた。
「じゃ、行こ♪」
ふたりは手を繋(つな)いで学校を出た。
「あ!モウチョウ男と五ダイが歩いてるー」
「ホントだー」
「やーい。モウチョウ モウチョウ すごいだろー」
児童は周くんを囃(はや)し立てた。周くんは友達に手術の痕(あと)を見せながら「すごいだろー」と自慢していたのだ。今ではその話が広がり、小学校の友達も彼のことを「盲腸男」と呼ぶようになっていた。
「うるせーな!」
「あ!モウチョウ男がおこったー」
「わー!」
周くんを囃(はや)し立てた児童は、蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げて行った。
「ったく。何だよ、あいつら」
「シュウくん、気にしないで行こ」
春香が優しく促した。
「…うん」
周くんは俯き加減で小石を蹴った。小石はコンコンと何回か撥ねて溝に落ちた。溝には枯葉が積もっていて、小石が落ちるとカサカサと乾いた音を鳴らせた。
「ねぇ。シュウくんはクリスマス、サンタさんに何おねがいしたの?」
「おれ、『ミニ4ク』おねがいしたんだ。赤くてカッコイイやつ」
「ふーん。春香はね、”耳をすませば”のねこさん!あのぼうしかぶった、すてきなねこさん」
「サンタさん、もうすぐだね」
周くんの機嫌はすっかり直っていた。春香は突き抜けるような青空を見上げた。
「あぁ、早くこないかなぁ、クリスマス…」
「あと4つねればすぐだよ」
「そうだね」
ふたりはいつの間にか時計坂の辻(つじ)まで来ていた。
「じゃぁ、春カちゃん。またあそぼうね」
「うん。またあそぼうね」
「ばいばーい」
「またねー」
走り去る周くんの後ろ姿を確認すると、春香はランドセルを背負い直して、再び坂を上り始めた。
一刻館では響子が庭を掃いていた。今までぐでっとしていた惣一郎が急に起き上がる。
「ばうーばうばう」
「ただいま、ソウイチロウさん♪」
「あら。お帰りなさい、春香。今日は早かったのね」
「だって今日で二学キおわりだもーん♪」
「そうね。今日は終業式ですもんね」
《やれやれ。春香がいると、いろいろ忙しくなるわ…》
「春香、おなかすいた!」
「はいはい、分かりました。手を洗ってからお部屋にいらっしゃい」
「はーい♪」
響子は手早く枯葉を集めると掃除を止めて管理人室へ急いだ。管理人室では既に春香がランドセルの中身を広げていた。教科書にノート、作文、道具箱の中には算数セットなど。春香はいろいろなものを並べては自慢気に響子に見せた。特に図画工作で描いた絵はお気に入りらしく、丸まった画用紙を一生懸命平らに展(の)ばしながら、食事の仕度をしている響子を盛んに突付いていた。
「何よ、春香」
「ほら、見て♪」
「ちょっと待ってよ。ママいま忙しいんだから…」
響子は卵を割ってフライパンに落とした。
「んもー。ママ、見て」
「ダメよ、春香。いま卵すぐ炒めるから」
「いいからちょっとだけ。ちょっとだけ見てよ」
「春香!いい加減にしなさい!」
遂に響子の堪忍袋の緒が切れた。春香は渋々絵を見せるのを止めて、丸めた皺(しわ)を大事そうに延ばし始めた。
「春香。ママがお料理している間に、その辺の物、早く仕舞っちゃいなさい」
「……」
「春香?聞こえてるの?」
「はい!」
春香はなかばヤケになりながら、広げた荷物をランドセルに仕舞い出した。でも、絵だけは仕舞わず、座蒲団の下に忍ばせてその上にちょこんと座った。
「はい。出来ましたよ」
響子は炬燵(こたつ)の上に料理を並べ始めた。
「わー…」
さっきまで機嫌の悪かった春香も、御馳走(ごちそう)を前にして急に機嫌が好くなった。よっぽど腹が空いていたのだろう。
「さぁ、戴きましょう?」
「いただきまーす♪」
「あーう、あー」
春香は一心不乱に料理を食べ始めた。冬樹にご飯を食べさせながら、その姿を見る響子も嬉しそうだ。
「ねぇ、ママ」
春香は箸(はし)を休めて突然響子に尋ねた。
「なーに?」
「サンタさんってどこからくるの?」
響子はちょっと考えてから優しく答えた。
「遠い北の国よ」
「きたって、トチギけん?」
春香がいつも見ている天気予報では、栃木県が一番北なのだ。響子は思わず笑った。
「いいえ。もっともっと北の寒い国からよ」
春香は少し考えてから言った。
「それじゃぁ、サンタさんカゼ引いちゃうね」
「大丈夫よ。サンタさんは春香みたいに夜更かししないから」
響子が挑戦的な目で春香を見る。そんな響子の目をよそに、春香は不安気に膝(ひざ)を抱えた。
「サンタさんカゼ引いちゃったら、春香プレゼントもらえないね」
「そうね」
「サンタさん、元気だといいね」
「春香も風邪なんか引かないようにね」
「はい♪」
「じゃぁ、お喋(しゃべ)りはそのくらいにして、全部食べちゃいなさい」
「はい♪」
春香は昼食を旨そうに平らげた。
六 フランスの地酒
12月24日。郁子が待ちに待ったクリスマスイブがやってきた。朝空は東雲(しののめ)色に染まり、冬の優しい太陽がカーテンのすき間から郁子の部屋に一条(すじ)の光を投げ掛けていた。目覚まし時計が喧(けたた)ましい音をたてる。
ジリリリ…。
「…うーん。眠…」
郁子はベッドの上で軽く伸びをした。今日は初めてふたりきりでクリスマスを過ごす日だ。郁子の期待は高まっていた。
《稔さん、あのセーター気に入ってくれるわよね、うん》
郁子は自分に言い聞かせるようにこころの中で呟(つぶや)いた。
「さぁ、仕事仕事」
今日の郁子は早番なのだ。9時前には教室に行かなければならない。郁子は着がえを済ますと食卓へ急いだ。
「おはようございまーす!」
「あら、郁子。おはよう」
郁子の母は既に朝食の仕度をしていた。
「今日は早番なのね?」
「うん、そう。ママ、ご飯急いで」
「はいはい」
郁子は目の前にあるおかずを取り敢えず摘み、ご飯とみそ汁を流し込むとあっという間に家を出た。
「まぁまぁ、あの子ったら…」
郁子の後ろ姿を見送りながら、郁子の母は呆(あき)れていた。
郁子は早番が嫌いだった。朝は早いし、電車は満員だし、昼食は遅いし。でも今日は違った。
《今日は稔さんとふたりっきりでデートだもんね…》
そう考えるだけで郁子は幸せだった。郁子は中野から中央線で新宿に出て、渋谷へ向かう山手線に乗り換えた。新宿駅のホームは通勤ラッシュでひとが溢れんばかりだった。内回りの山手線がホームに滑り込む。ドアーが開くと、電車からは多くのひとびとが洪水のように押し寄せた。郁子はバッグを抱えながらその流れに必死に抵抗する。すると駅員のアナウンスが郁子たちの気持ちを更に急き立てた。
「12番線、間もなくドアーが閉まりまーす」
郁子はひとの波に押されて、ぎゅうぎゅう詰めの車内に押し込まれた。誰かが郁子の靴を踏みつける。
《痛い、痛いよ。信じらんなーい!》
そんな大戦争の車内をよそに、山手線は何事もなかったように静かに走り出した。
「おはようございまーす」
郁子はミーティングの後、真っ先にコンピュータでその日の予約を確認した。その日は火曜日だったが、連休明けのクリスマスイブということもあり、生徒の数はいつもより大分少なかった。
《昼間は生徒さんも少ないし、今日の仕事は楽になりそうね♪》
郁子の予想通りその日は何事もなく、あっという間に17時になった。
「お先に失礼しまーす☆」
遅番の女性スタッフの恨めしい声を背に受けながら、郁子はひとり颯爽(さっそう)と教室を後にした。稔とはキャロットタワーの無料展望台で待ち合わせているのだ。郁子はキャロットタワーのトイレで着がえを済ませると、稔へのプレゼントを大事そうに抱えて、意気揚々とエレベーターに向かった。
チーン…。
エレベーターが来た。数組のカップルらしきひとびととエレベーターに乗る。エレベーターは郁子たちを乗せて急上昇した。
《あれ?》
郁子は一瞬眩暈(めまい)のような不思議な感覚を覚えた。
《エレベーターだもんね。揺れて当然だわ》
チーン…。
最上階だ。体は何ともない。郁子は気のせいだと思いながらエレベーターを降りて右に折れた。
「わー…」
エレベーターブースを出ると、無料展望台が大きく広がっていた。眼下には豊玉の風景が一望できた。長い光の帯のように横たわる環七や、蜘蛛(くも)の巣のように張り巡らされた家々の灯り、そして間近には国道246号線と首都高速3号線の二重立体交叉が見えた。
「すごーい…」
郁子は思わず溜(ため)息を吐(つ)いた。
「やぁ」
その光のイリュージョンを背に稔が郁子に声をかけた。
「稔さん、すごく綺麗(きれい)ね」
「だろう?でもこっちは郊外側だぜ」
「でもとっても綺麗…」
「そうかな?」
「あ!ウチのお教室、あの辺じゃない?」
郁子が光の条(すじ)に指を差す。
「え?どれどれ…」
「ほら、あれ!」
「あぁ!そうだよ、きっと」
「私たち、あんなとこにいるのね…」
郁子は胸に手を当てて呟(つぶや)いた。稔は郁子に花束を渡した。
「郁子ちゃん。メリークリスマス」
「わー。ありがとう☆」
「郁子ちゃん、そろそろレストランに行こうよ」
「うん」
レストランはクリスマスイブということで大層混雑していた。その大半は若いカップルで、楽しそうに何かを話したり、プレゼントを交換し合ったりする光景が垣間見られた。
「ご予約でいらっしゃいますか?」
入口で気取ったウェイターが稔に尋ねた。
「予約した上野ですが…」
ウェイターは予約者リストを見回すと、恭(うやうや)しくお辞儀をした。
「上野様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ…」
ふたりは窓際の特等席に招かれた。
「わー、凄い!」
郁子は更に驚いた。光の条(すじ)が真っ暗な皇居に向かって四方八方から集まっているのだ。手前左には新宿の高層ビル群、正面には渋谷の灯り、そして右奥にはオレンジ色の照明を点けた東京タワーとお台場のレインボーブリッジ。先ほど見た郊外の風景とは打って変わった、眩(まばゆ)いばかりの光のペイジェントが郁子の目に飛び込んできたのだ。唯々ぼーっとしている郁子に稔が自慢気に言った。
「な?こっちの方が眺めが好いだろう?」
「素敵…」
郁子は感動しているようだ。
「失礼します」
ウェイトレスが飲み物のメニューを持って現れた。
「郁子ちゃん。今日はお酒、ちょっとくらいいいだろ?」
「うん」
「じゃぁ、ベビアンの91年ものを」
「畏(かしこ)まりました」
ウェイトレスが去って行く。稔は指を組んでその上に顎(あご)を載せると、得意の薀蓄(うんちく)を傾け出した。
「世間じゃ、ボルドーだのブルゴーニュだっての騒いでいるだろ?」
「でもさ、そういうのって値段が高いだけで、結構踊らされているのが多いんだよね」
「ふーん。そうなんだ」
「その点さ、ラングウッドの田舎町のは結構安くて掘り出し物があるんだよ」
「ラングウッドって?」
「そうだな、フランスがこうあるだろ…」
稔はテーブルクロスに指でフランスの地図を描き出した。
「ここがボルドーでここがブルゴーニュ。ラングウッドはもっと南の方…。この辺かな?」
「へー」
「いやさ、ここのワインが結構旨いんだよ。日本でいえば、そうだな、ボルドーが灘の生一本なら、ラングウッドは越の地酒って感じかな?」
「稔さんって物知りなのね」
「いやぁ」
稔は嬉しそうに頭を掻(か)いた。
「失礼します」
ウェイトレスがワインを持って来た。稔がテイスティングをした後、ふたりは乾杯をした。
「初めてのクリスマスイブに乾杯」
「メリークリスマス☆」
チン…。
《初めて…》
郁子は稔のことばに感銘を受けていた。ぼーっとしている郁子に稔は優しく微笑みかけた。
七 最高の贈り物
クリスマスイブの料理はフランス料理のフルコースだった。可愛らしい前菜から始まり、サラダ、スープ<続いた。郁子は夢を見ているようだった。素晴らしい夜景を眼下に眺めながら、揺らめくキャンドルの灯り、そしてその向こうには稔の優しい笑顔。郁子は考えていた。
《プレゼント、いつ渡したらいいのかしら?食事中はやっぱり失礼よね。でも食事が終わるまで待つのもなんだしな。どうしよう…》
稔は静かにスープを飲んでいた。郁子もスープを口に入れる。
《あれ?濃厚なポタージュのはずなのに味がしない…》
郁子の味覚はおかしくなっていた。次々と出される料理にも、さしたる感動はなかった。
《私ってば、どうしちゃったんだろ?》
稔が楽しそうに話す会話も全然耳に入ってこない。郁子は適当に生返事を繰り返していた。
最後のデザートも終わり、コーヒーが出て来た。
「郁子ちゃん?」
稔が訝(いぶか)し気に郁子の顔を覗き込む。
「どうしたの?何かぼーっとしていて元気がないみたい」
「ううん。そんなことないよ」
「そう?それならいいけど…」
コーヒーを飲む稔の姿を見て、郁子は思い出したようにプレゼントを握り締めた。
「み、稔さん?」
「ん?」
稔は楽しそうに郁子を見る。
「あ、あの…、今日の料理はとても素晴らしかったわ…」
「…それで…」
「それで?」
郁子は意を決したようにプレゼントを差し出した。
「メリークリスマス!」
プレゼントは赤い紙でラッピングされ、緑色のリボンが斜めに掛けてあった。
「え?これを僕に?」
「うん。一生懸命編んだの」
稔の顔に輝きが出る。
「開けてもいいかな?」
「どうぞ」
ガサガサ…。
稔は子供のような顔でラッピングを開けている。郁子はその様子をドキドキしながら見詰めていた。稔が最後の一枚を剥(は)がす。
「わー!セーターだ!」
中から出てきたのは、伝統的な縄目模様のセーターだった。
「凄い!これ、郁子ちゃんが編んだの?」
「うん。遅番の前日に毎晩編んでたの」
「それで食事に誘ってもすっぽかされてたんだー」
「そうよ!だから別に稔さんに疚(やま)しいことは、これーっぽっちもしてないんだから!」
「そうか。ごめんごめん」
稔は満足そうにセーターを裏に返し表に返し眺めた。
「いやー。ホント凄いよ。手編みには見えないなぁ」
「そう?ありがと☆」
郁子は今までの緊張から一気に解放された気持ちだった。
「気に入ってくれた?」
「気に入るも何も…」
稔はセーターを抱き締め、その匂いを思いっきりかいで言った。
「あったかい匂いがする。嬉しいよ。有難う」
「そ、よかった」
郁子も稔にこれだけ喜んでもらえて嬉しくなった。
「さっそく明日から着なきゃな」
「あら、でも明日からお教室お休みじゃない」
「そういえばそうだな」
「ねぇ、いま着てみてよ」
「え?今?」
稔は辺りを見回し、小声で叫んだ。
「ここじゃ拙(まず)いよ」
稔は恥ずかしがり屋のようだ。郁子はいたずらっぽく哂(わら)った。
「じゃ、出ましょ?」
ふたりはレストランを出て無料展望台に立った。
「ここなら大丈夫でしょ?」
しかし稔は辺りを気にしてなかなか着ようとしない。
「…いや。やっぱ拙いよ」
「んもう!せっかく編んだのに着て見せてくれないの?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど…」
「だったら着てよ」
そんなやりとりを繰り返しているときだった。郁子は急に悪寒を感じた。
「ねぇ、ここって寒くない?」
「そうかな?あったかいよ」
「え?だって寒いじゃない」
郁子は体がガタガタと震えるのが感じられた。最初不思議そうに郁子を見ていた稔は、あることに気がついたようだった。
「郁子ちゃん、ちょっといい?」
「え?」
稔は郁子の額に手を当てた。
「…やっぱり」
「どうしたの?」
「郁子ちゃん、熱があるよ」
「え?」
郁子の熱は相当高かった。道理でさっきから体の感覚がおかしかった訳だ。
「今日は早く帰んなきゃ」
「だって…」
「いいから。早く寝なきゃ駄目だ」
稔は郁子を抱きかかえるようにして地上に降りると、流しのタクシーを捕まえた。
「山手通りを中野に向かって下さい」
ブーン…。
タクシーの中は暖房が効いていた。稔に抱きかかえられ、稔のあたたかい体温を感じた郁子は、安心して次第に意識が薄れていった。
「……」
「…氷枕を…」
「…おい、行火(あんか)だ…」
何やらひとびとが騒いでいる様子が幽(かす)かに聞こえる。
《何?》
「…ほら、そーっとそーっと…」
《あれ?私、浮いてるの?》
何が何だか分からないまま、郁子はうす目を開けてみた。
《ここはどこ?私のお部屋?》
《…天井?何か変…》
「おぉ!やっと気がついたようだ」
音無老人が涙ぐみながら郁子の顔を覗(のぞ)き込んだ。
《おじいちゃん?どうして?》
「郁子、大丈夫?」
郁子の母の声も聞こえた。
《あれ?私ってば、どうしちゃったんだろう…》
郁子は稔と家族に囲まれ、自分の部屋でベッドに寝かされていた。
「ほら、郁子。これ、飲みなさい」
郁子の父が解熱剤を渡す。郁子は無言のまま頷(うなづ)くと、解熱剤を辛そうに微温湯(ぬるまゆ)で飲んだ。
「これで一安心だな」
稔がほっとして溜(ため)息を吐(つ)く。郁子はやっと状況が掴めてきたようだった。
「稔さん。それじゃぁ、私…」
「そう。キャロットタワーからタクシーを飛ばして来たんだよ」
「よく眠っていたようだから、稔さんがあなたを部屋まで運んで下さったのよ」
《え!》
郁子は慌てて自分の恰好(かっこう)を確かめた。気がつかないうちにパジャマに着がえさせられていた。郁子は気が動テンしていた。
「まさか、これも稔さんが?」
「なに言ってんのよ、あなたは。私がちゃんと着がえさせました」
郁子の母は半(なか)ば呆(あき)れ顔で溜(ため)息を吐(つ)いた。
《そりゃそうだわ。そうよね…》
恥らう郁子の不審な挙動に、みな不思議そうな顔をしていた。
「とにかく今日はよく寝て、明日さっそく医者に行かなきゃな」
郁子の父が腕を組んだ。
「はい」
郁子は素直に頷(うなづ)いた。稔は郁子の様子を確認すると立ち上がった。
「それじゃぁ、僕はもうこれで失礼します」
「まぁまぁ、ホントに今日はありがとうございました」
「いえ。こちらこそ郁子ちゃんを連れ回したりして、本当に申し訳ありませんでした」
「いやぁ、稔くんがいてくれて助かったよ」
「そんな…。じゃぁ、郁子ちゃん。お大事に」
家族に見送られて稔が部屋を出ようとしたそのときだった。
「稔さん!セーターは?」
郁子が蒲団から跳ね起きた。
「大丈夫。ここにあるって…」
稔はセーターを郁子の目の前に見せつけた。
「ねぇ、着て見せて。ねぇ、ここで着て見せてよ」
郁子があまりに執拗(しつよう)に迫るので、稔は仕方なくジャケットを脱いでその場でセーターを着た。
「これでいいかい?」
緑色のセーターはスーツのズボンには似合わなかったが、寸法は誂(あつら)えたように精確だった。その姿を見て何を思ったのか、突然郁子が笑いだした。
「ふふ…ふふふ…」
「お、おい。大丈夫か!」
音無老人が詰め寄る。
「ふふ…ふふふ…」
郁子はパジャマの袖を口に当てて笑っている。稔と家族が心配そうに見守る中、郁子は満面の笑顔だった。
「稔さん、私のもの。ふふ…」
郁子はひとり悦びを噛みしめていた。
「何だ…。いいからお前は早く寝なさい。電器、消すぞ」
郁子の父がそう言って部屋の電器を消すと、みな郁子の部屋を後にした。郁子はその夜、稔の夢を見た。(完)