春香の遠足


作 高良福三


序 晴れたらいいね

 「こんばんは。天気予報です。では、初めに概況です…」
テレビから流れる天気予報に、春香は釘(くぎ)付けになっていた。明日は幼稚園の秋の遠足で、川越に芋掘りに行くのだ。
 「ママー。かあごうぇって、なにけん?」
 「『かあごうぇ』じゃなくって『か・わ・ご・え』よ」
 「かわごえ?」
 「そう。川越は埼玉県よ」
 「さいたま、さいたま…」
春香は「埼玉」ということばを忘れまいと、念ずるように小声で唱えていた。
 「次に南関東地方です。埼玉県は晴れでしょう…」
アナウンサーの淡々とした声とは対照的に、喜び勇む春香の黄色い声が。
 「ママー。さいたまけんは、あしたはれだってー」
 「わーい、わーい♪」
 「よかったわね、春香」
 「じゃぁ。ママもお弁当、頑張んなくっちゃ」
響子は腕を捲(ま)くってポーズを作った。
 「やったー、やったー♪」
あまりの嬉しさに、テレビの前でぴょんぴょんと跳ねる春香。それを楽しそうに見て笑う響子。今日の晩ご飯は、さぞかし美味しくなりそうだ。
 「ばうー、ばうばう」
 「ただいま」
 「あら、あなた。お帰りなさい」
楽しそうな響子の様子に、五代も敏感に反応した。
 「ん?何かいいことでもあったの?」
 「えぇ。まぁね」
微笑む響子に、五代も何だか嬉しくなった。
 「そいつは楽しみだ」
ふたりは足取りも軽く、管理人室に向かった。
 「パパ。おかえりなさい」
 「ただいま、春香。今日もいい子にしてたかな?」
 「はいっ」
 「お!いいお返事だ」
 「明日はね、川越もお天気だそうよ」
 「川越?」
 「ほら、こないだお話したじゃありませんか、お芋堀りですよ」
 「あ?…あー。あれか」
 「そうか、明日か…」
 「よかったな、春香」
 「はるかね、いっぱいいっぱい おいもほってくるから たのしみにまっててね」
 「じゃぁ、明日の晩ご飯は天麩羅(てんぷら)にしましょうか。ね?あなた」
 「そうだな。でも芋天だけとかは勘弁してくれよな」
 「さぁ、どうなることやら…」
 「こら、響子!」
 「あん!」
春香の前でこの夫婦は何をしているのだろうか?最近、響子のお腹がまた少しだけふっくらとしてきた気がする。春香は呆然(ぼうぜん)とふたりのじゃれあいを眺めていた。
 「…ママ。ごはんは?」
冷静な春香の横槍(やり)に、響子が我に返る。
 「あら、ごめんなさいね」
 「もう直ぐ出来ますから…」
管理人室からは、今日も旨そうな匂いが漂ってきた。
 「ばうー」
まだ晩ご飯を貰(もら)っていない惣一郎の遠吠えが聞こえた。



一 クリより旨い十三里

天気予報は大当たりだった。旻天(あきぞら)は高く晴れ上がり、羊雲の群れがどこまでも列を成して、遠く朝靄(もや)の中に消えていた。いつもより早く起きた五代と春香は、朝食を食べながら話していた。
 「春香。お前、芋、掘ったことあるか?」
 「おいも?」
 「うん」
 「…ない」
五代は意地悪そうな顔をした。
 「そんなんでちゃんと掘れんのか?」
 「今日の晩ご飯は、お前の双肩に懸かっているんだぞ」
 「そうけん?」
 「そう!つまりお前が頑張って芋を掘らないと、俺たち、晩ご飯が食べられないんだぞ?」
 「えっ!わかった。はるか、がんばる!」
 「よぉし!頑張って来い!」
春香の仕度をしていた響子がふたりに注意を促す。
 「ほら、あなたたち。お喋りばっかりしてないで。遅れますよ」
 「やべっ。いけね!」
 「ママ、リュック。はるかのリュック!」
 「はい。遠足の栞(しおり)は持ったわね?」
 「うん」
 「”うん”じゃなくて…」
 「はい、ママ」
 「そう。お利口さんね」
春香は最近、平仮名が読めるようになった。遠足の栞は全て平仮名で書かれていた。それを読むのが春香は嬉しくて、前日まで枕許(もと)に置いて読んでいたのだ。春香は字を読むことが好きだった。昔買ってもらった絵本はもう全て読めるし、外出先でもいろいろな平仮名を読む訓練を始めた。だから幼稚園からの帰り途は、ちょっとしたクイズ大会だ。春香は平仮名の看板を探しては、大きな声で読み上げる。勿論、漢字の部分は飛ばして読む。響子はそれを優しく見守る。ところが難しい単語が出てくると、春香は響子の顔を窺(うかが)いながら自信なさそうに読んでみる。響子はにっこり笑って優しく指導する。春香の語彙(ごい)力は、同年代の他の子供より高いかもしれない。
 『いってきまーす』
嬉しさ一杯の春香。その手を牽(ひ)く五代。幼稚園の前には、もう大型バスが待機していた。
先生が子供たちを組毎に並べて点呼を取る。返事をする子供たちは皆、いつもより元気だった。
 「五代春香さん」
 「はいっ」
春香も他の子と同様、嬉しくて嬉しくて堪らないという感じだった。
大型バスが出発した。バスは快調に川越街道を北進した。バスの中ではバスガイドが子供たちと童謡を歌っていた。童謡の後は、しりとり大会だ。次のことばがなかなか思い付かなくてうんうん唸(うな)る子供を余所(よそ)に、春香は活発に発言していた。日頃の訓練の成果だろう。
大型バスは1時間程で川越に到着した。市街地を抜け、欅(けやき)や檜(ひのき)の屋敷林を越えると、雑木林の向こうに広大な芋畑が垣間見られた。芋畑は、こんもりとした黒土から青い葉が幾列にも連なって、ずっと続いていた。
 「わー!はたけだー」
 「おいもだー」
子供たちは口々に叫んだ。
目的の観光農園では、農家の方々が優しく子供たちを迎えてくれた。特に一番年配と思われるおじいちゃんは、子供が大好きといった感じだった。
 「はーい。よい子はきちんと並んでねー」
先生に誘導されて、子供たちは念願の芋畑に立った。後は芋を掘るだけだ。先程のおじいちゃんが実演を交えて、子供たちに芋の掘り方を教えてくれた。この道60年のおじいちゃんは、芋を面白いほど簡単に掘り出した。
 「わー。すげぇー」
 「おいも、いっぱーい」
子供たちは口々に感嘆の声を漏らしていた。さぁ、今度は春香たちの出番だ。春香は、おじいちゃんに手伝ってもらって芋の蔓(つる)を掴(つか)むと、ゆっくりゆっくり引っ張っていった。
 もりっもりっ…。
大小いくつもの芋が正に芋蔓式に出て来た。春香は大喜びだ。確かな手応えを掴んだらしい。芋が掘り起こされるときの脈打つような感覚が堪らなく楽しかった。
 「おじいちゃん。はるか、こんどは、ひとりでやってみる♪」
 「あぁ。やってみれ」
おじいちゃんは、絶えずにこにこと微笑んで、子供たちが芋を掘る様子を見守っていた。遠巻きの農家の主婦たちも、芋掘りの後に振舞う焼き芋の準備で大忙しだ。
 「とれたー」
 「おれのほうが、でっかいぞー」
 「わたしもー」
子供たちの喜びの声があちこちから聞こえてきた。そんな声を耳にする度、おじいちゃんは、満足そうに静かに頷(うなづ)くのだった。
芋を掘り始めて小一時間経っただろうか、子供たちは次第に疲労の色を表し始めた。中には、芋掘りに飽きて芋蔓を振り回す子供もいた。こうなると先生の出番だ。
 「ほらほら、みんな。これからお芋を食べましょうね」
 『はーい』
 「それでは、一列に並んで手を洗って下さーい」
 『はーい』
子供たちは井戸の前に一列に並んで、手を洗い始めた。初めて見る井戸。ここの井戸は川村式といって、シリンダーの先に鶴(つる)首の形をした柄が付いていた。
 「おい、おめぇたち。よぉっく見てろよ」
おじいちゃんが呼び水を入れて小刻みに柄を動かす。
 キュッキュッ…。
柄を動かす振幅が徐々に大きくなると、井戸から冷たい清冽(せいれつ)な水が迸(ほとばし)った。
 「あっ!みずだー」
 「みずがでてきたー」
 「なんでー?」
井戸水を見た子供たちは、一様に驚いた様子だった。春香も井戸水は初めて見た。でも、井戸を見たのは、初めてではなかった。実は、一刻館の横には井戸があったのだ。一刻館の井戸は、今はもう使われてないため、コンクリートの蓋(ふた)がされていた。春香はそれを井戸とは知らず、丸い踏み台だと思って、上ったり下りたりして遊んだものだった。おじいちゃんの井戸は、その蓋に不思議な形の筒が出ていて、柄を動かすと水が出て来る。春香にとって、それは非常に不思議な出来事だった。
 「すげー。おじいちゃん、おれにもやらせてー」
男の子は我先にとおじいちゃんの周りに群がった。おじいちゃんは嬉しそうに子供たちを窘(たしな)めた。
 「みんな、順番にな。順番、順番…」
井戸の柄は、幼稚園生には重かった。子供たちは三人掛かりで井戸の柄にぶら下がった。
 ギーッコ、ギーッコ…。
 「やったー!みずがでてきたー!」
子供たちは大喜びだ。
こうして全ての子供が冷たい井戸水で手を洗い、主婦たちが用意した焼き芋に舌鼓を打った。
 「あまーい」
 「あつっあつっ…」
 「きいろいー。きれい」
女の子は、紫色の皮と身の濃い黄色のコントラストに興味があるようだった。
 「おめぇら。オラんとこの芋は旨ぇべ?」
おじいちゃんは誇らしげだった。子供たちが喜んで芋を食べるのを、こころの底から喜んでいるようだった。
 『おいしーい』
子供たちは思わず斉唱してしまった。
 「うん、うん…」
遠足は無事終わり、遂におじいちゃんともお別れするときがきた。
 「おじいちゃん、げんきでね」
 「ありがとう、おじいちゃん」
子供たちは、異口同音に感謝と労いのことばを掛けて、観光農園を後にした。



二 芋取物語

時計坂幼稚園では、既に保護者たちが迎えに出ていた。交通渋滞の関係で、到着は予定時刻より遅れていた。心配して園長先生に掛け合う保護者もいるくらいだった。響子は特に心配はしていなかった。それよりも、春香が怪我をしていないかの方が心配だった。
陽が傾いて小学校の鐘が聞こえる頃、漸く大型バスの姿が見えた。口々に子供を迎える保護者たち。
 「ママ、ただいまー」
 「春香、お帰り。怪我しなかった?」
 「うん。だいじょうぶ」
 「それよりママ、これみて」
春香が自分の体ほどあろうかという大きな袋を引き摺(ず)っていた。
 「春香。これ、まさか全部お芋?」
 「うん♪」
響子は愕然(がくぜん)として二の句が継げなかった。一体どのくらいあるのだろう?
 「あのね、おじいちゃんがね はるかといっしょにね いっぱいいっぱい おいもとってくれたの」
 「まぁ、どこの方?」
 「しらない。はたけのおじいちゃん」
 「それはきっと観光農園の方ね」
 「すっごくしんせつでね、はるかといっしょに おいもをひっぱってくれたの」
 「そしたらね、いっぱいいっぱい とれたの」
 「ほら、みて!」
袋の中には立派な紅東(べにあずま)がびっしり詰まっていた。
 「まぁ!立派なお芋…」
 「今日の晩ご飯は、腕に撚(よ)りをかけて作らなくちゃ」
響子は目を輝かせた。
 「やったー♪」
春香が跳び上がって喜んだ。
ふたりは先生に挨拶(あいさつ)すると、帰りの途に就いた。
 「よっこいしょ」
響子は片手に春香の手を牽いて、もう片方の手で芋を担いだ。結構重い。響子も、結婚してから春香を抱えながらよく米袋を担いでいたが、この重さは只者(ただもの)ではない。響子は、春香がよくこんなものをここまで引き摺って来れたものだと感心した。響子はほうほうの体で一刻館に辿(たど)り着いた。
 「ばうー」
 「惣一郎さん、ただいま」
 「よっこいしょ」
 「あー、腕が痛いわ」
響子が袋を置いて肩を回していると、一の瀬が玄関まで迎えに来た。
 「お帰り。どうだった?芋堀りは」
 「あ、一の瀬さん。春香が凄いんですよ」
 「見て下さい。このお芋の山…」
響子は袋の口を開けて見せた。
 「んまー、こりゃ立派なお芋じゃないか!」
 「春香ちゃん、大変だったろ?」
 「ううん、おじいちゃんがとってくれたの」
 「おじいちゃん?」
 「どうやら観光農園の方に手伝っていただいたようなんです」
 「それにしたって、凄い量だよ」
 「どうすんの?管理人さん」
 「あんたのとこだけじゃ、いつまで経っても食べ切れないよ、こりゃ」
一の瀬が企み顔で響子を見た。
 「えぇ。勿論、一の瀬さんにもお裾分け致しますわ…」
 「家だけじゃ、とてもとても…」
 「そう?何か催促したみたいで悪いね」
 「そんなことないですわ」
 「じゃぁ、家は賢太郎にも送ってやるから、10本も貰えるかね?」
 「えぇ。どうぞどうぞ」
その後、響子は四谷と朱美にも芋を遣ったが、それでもまだ食べ切れる量ではなかった。
 「ばうー、ばうばう」
 「ただいまー」
 「お帰りなさーい」
管理人室に入った五代が、流し台の脇に置かれた芋の袋を一瞥(いちべつ)した。
 「お、春香。いっぱい採ってきたな」
 「それがあなた、これだけじゃなかったんですよ」
 「見て下さい、この袋」
響子は芋が半分になった袋を見せた。袋は口の方まで泥が付いていた。
 「何?これ全部に芋が詰まってたのか?」
 「そうなのよ」
 「春香って意外と意地汚いのよ」
 「ちがうもん。はるか とってもたのしかったの」
 「まぁまぁ、いいじゃないか」
 「でもこれ全部芋天にされても困るぞ」
 「どうしましょう」
 「一の瀬さんと四谷さんと、それから朱美さんにでもあげたら?」
 「もう配り尽くしましたよ」
 「それじゃぁ、音無の家にでも持って行くか」
 「あぁ、そうね。それがいいかもね」
 「お義姉さんも郁子ちゃんも、芋は好きだろ?きっと」
 「えぇ。あのふたり、お芋、大好きなんです。きっと喜ぶわ」
 「それに初物だし、お義父さんも喜ぶだろう」
 「そうね…」
音無老人は去年の手術以来、順調に体力が恢復(かいふく)し、今ではほぼ通常の生活に戻っていた。最近では健康に留意するようになり、食べ物にも気を遣っているのだ。
 「お義父さま、健康志向ですしね」
 「そうだな。芋は健康食だからな」
五代は早速、音無家に芋を持って行くことに決めた。
 「今度の日曜日に持ってくことにしようか」
 「春香も来るか?」
 「うん♪はるかもいくー」
 「これ、春香!”うん”じゃなくて…」
 「はーい。はるかもいきまーす♪」
 「よし、決まりだ」
晩ご飯になった。天麩羅といえば、普通お目当ては海老天だが、今日は違った。
 「芋、芋」
 「おいも、おいも」
ふたりは芋天を食べるのに夢中だ。天麩羅を揚げている響子が呆(あき)れる。
 「ちゃんと他の具も用意したんですから、冷めない内にちゃんと食べて下さいよ」
 『はーい』
早速五代が海老に手を付ける。
 「あっ!それ、はるかがたべようとおもってたの」
 「あ?そうか。ごめんごめん」
春香は海老天を食べてご満悦だ。次に五代が蓮根(れんこん)に手を伸ばす。するとまた、春香の声が。
 「それも、あたしんの!」
 「おい、春香。いい加減にしてくれよ」
そんなふたりの様子を笑って見ていた響子が、五代に助け舟を出した。
 「まだまだ、あなたの分もありますよ」
 「あはあは…」
その日の芋天の味は最高だった。
そして次の日曜日。
 「じゃぁ、あなた。宜しくお願いしますよ」
 「ちゃんとご挨拶してね」
 「響子、分かってるよー」
 「ほら、襟が変に折れてる…」
響子の世話女房振りは今でも変わらなかった。春香は、自分が無視されているようで、面白くなかった。
 「ママ!はるかは?はるかは?」
 「春香、ちょっと待ってなさい!駄々を捏(こ)ねるんじゃありません」
五代の仕度が終わると、響子は優しく春香の髪を撫で付けた。
 「春香は可愛くできてますよ。だって春香は、ママが仕度したんですから」
 「うん♪」
 「”うん”じゃなくて…」
 「はい。ママ」
 『じゃ、いってきまーす』
 「行ってらっしゃーい」
大小の影が時計坂を降りて行った。



三 腹はらホール

 「ごめんくださーい」
 「はーい」
ふたりが音無家に到着したのは昼過ぎだった。
 「よぉ、五代くん。それに春香ちゃんも…」
 「そんなとこに立っていないで、上がりなさい、上がりなさい」
 「では、お邪魔します」
 「おじゃましまーす♪」
ふたりは居間に通された。縁側から見る庭には、萩(はぎ)が赤く色付いていた。
 「いやぁー、もうすっかり秋ですね」
 「そうだな。それで今日はどうしたのかね?」
 「はい。春香が幼稚園の遠足で芋掘りに行きまして…」
 「ほう?」
 「それで少なくて申し訳ないですが、もし宜しければお召し上がりにならないかと思いまして…」
五代は芋の入った袋を音無老人に渡した。老人はその場で袋を開け始めた。
 「いやぁ。これは立派な紅東じゃないか」
 「しかもこんなに沢山…」
 「春香ちゃん、掘るのに大変だっただろう?」
 「いいえ。おじいちゃんが いっしょにとってくれたんです」
 「おじいちゃん?」
 「どうも、行った先の観光農園の方のようで、随分親切にしてもらったみたいなんですよ」
 「ほう。そうかそうか」
 「いや、それにしても立派な芋だ」
音無老人はにこにこして骨董(こっとう)品のように芋を眺めた。そして奥の方に声を掛けた。
 「おい。五代くんから芋を戴いたぞ」
すると奥から郁子の母が出て来た。
 「あら!まぁまぁ、これは立派なお芋だこと」
 「これ、全部春香ちゃんが?」
 「はい♪」
 「春香ちゃん、大活躍ね」
 「えへへ…」
 「五代さん、ありがとうございます」
 「家は皆、お芋に目がなくてね…」
 「早速、今夜は天麩羅ね」
 「でも儂(わし)は油物はちょっと…」
 「大丈夫ですよ、お父さん。リノレン酸入りの油で揚げますから」
 「そうか。それなら健康にも好さそうだ」
 「五代さん、聞いて下さいよ」
 「お父さんったらね、ガンになってから、健康食品に凝っちゃってね。本当に煩(うるさ)いのよ」
 「お前、そんなことはないだろう」
 「いやぁ、お義父さんが健康に気を遣うことは好いことですよ」
 「あれからお加減は如何ですか?」
 「うん。この間君たちと会ったのは、確かお彼岸だったかな?」
 「えぇ」
 「あれから、大学病院の方からは、特に異状は言われてないよ」
 「そうですか。それはよかったです」
 「月に一度、血液検査もやっとるし…」
 「PSA値も基準値の範囲内に戻ったままだ」
 「よかったです。ほんとによかった…」
 「医者も、この分なら大丈夫だと言っとるよ」
すると台所の方から郁子の母の声がした。
 「じゃぁ、お父さん。今夜は天麩羅ですからね」
 「あぁ、分かった。そうしてくれ」
 ガラガラ…。
そこへ引戸の開く音がした。
 「あれ?おにいちゃん?おにいちゃんが来てるの?」
 「あぁ、郁子ちゃん。お邪魔してるよ」
 「いらっしゃい。春香ちゃんも」
郁子は膝(ひざ)を屈めて、春香の目の高さで挨拶した。
 「吃驚(びっくり)したー。おにいちゃん、急に来るんだもん」
 「春香ちゃんも随分おっきくなったのねぇ」
 「そう。そのお蔭でここに来れたんだよ」
 「え?おにいちゃん。それ、どういうこと?」
 「春香が遠足で芋を沢山掘ってきてね…」
 「え?お芋?」
郁子の目の色が変わった。
 「見せて見せて!」
郁子が芋の入った袋に跳び付く。
 「うわー。立派なお芋…。美味しそう…」
郁子は思わず溜息(ためいき)を漏らした。
 「ね?五代さん。だから家はお芋には目がないって言ったでしょ?」
郁子の母が茶の替えを持って来た。
 「はぁ…」
五代は喜んでもらえて嬉しかったが、何と返事をしていいか分からなかった。
 「おにいちゃん。今日は家でご飯、食べていくんでしょ?」
 「いや、そのつもりは…」
 「そんなこと言わないで食べようよ、お芋」
 《また芋か…》
春香も五代の袖を引っ張った。
 「パパ?おいも、たべようよ」
 「五代くん、どうかね?春香ちゃんもこう言っとることだし…」
 「じゃぁ、決まりだー☆」
 「まぁ、郁子ったら…」
 「あのね、ママ。今日、稔さんも来ることになってるの」
 「あら?そうなの?」
 「そ。ね?ママ。稔さんも一緒にいいでしょ?」
 「まぁ、大勢で食卓を囲むのはいいことですけど…」
 「やったー☆」
五代は湯呑(ゆのみ)を手に郁子に尋ねた。
 「…稔さんて?」
 「えっへへー。誰だと思う?実は、私の彼氏なの」
郁子は少し勿体(もったい)ぶった言い方をした。
 「同じ会社の方なんですよ」
郁子の母が補足した。
 「あー、語学学校の?」
郁子は大学卒業後、語学学校に就職した。五代に教わっていた英語が楽しくて、英語に携わる仕事に就きたかったからだ。女性スタッフが多い職場ではあるが、別の教室から新しく配属された男性マネージャーの稔と意気投合したのだった。稔は、音無老人曰(いわ)く好男児で、音無家にもよく出入りしていた。いわば両親公認の彼だ。一緒に食事をすることも珍しくないという。
 「そうか、稔くんていうのか…」
 「郁子ちゃんに彼氏がいるのは、話には聞いてたんだけど、実際に見たことはないなぁ」
五代は天井を見上げるようにして、想像を逞(たくま)しくしていた。
 「おにいちゃん。見てみたいでしょ?」
 「あぁ。拝見させてもらえるならね」
 「では、どうぞご覧下さーい」
郁子が手を差し伸べると、縁側から男性が入ってきた。
 「どうも…。お邪魔してます」
 「よぉ、稔くん」
 「あら、稔さん。もう来てたの?」
 「えぇ。さっき郁子ちゃんと一緒に」
 「そしたら、郁子ちゃんに玄関で待ってろと合図されて…」
 「郁子、駄目じゃないの。そんな所でお待たせして…」
 「だーって、おにいちゃんが来てたんだもん。吃驚させたくて」
 「まぁまぁ、稔さん。本当に済みませんねぇ。この子ったら…」
 「いえ。いいんですよ」
稔は居間の入口に座ると五代に挨拶した。
 「私、郁子さんと交際させて戴いています、上野稔と申します」
五代は慌てて座り直した。
 「私、五代といいます。こちらは娘の春香です」
 「ほら、ご挨拶しなさい」
 「こんにちは。ごだいはるかです」
 「こんにちは。春香ちゃん」
 「稔くんの噂はかねがね伺っていますよ」
 「そんな…。僕、何かしましたっけ?」
 「いえ。郁子ちゃんに彼氏がいると、そんな程度で…」
 「そうですか」
 「五代さん、失礼ですが、郁子ちゃんとはどんなご関係で?」
郁子が口を挟んだ。
 「私の英語の家庭教師だったんだよ」
 「へぇ。家庭教師…」
 「いえ。大したことは…。三流大学のスチャラカ学生でしたから…」
するとそこへ郁子の母が大皿に盛った芋を持って来た。
 「あの、さっきのお芋、薄切りにしてバターで炒めてみたんですけど…」
大皿には黄色く照り耀(かがや)く芋が旨そうに並んでいた。郁子の母は、菜箸(さいばし)で芋を小皿に分け始めた。
 「やぁ、これは旨そうだな」
音無老人が感嘆の声を漏らした。
 「どうぞ。お父さん」
 「ん。ありがとう」
 「はい。五代さんも」
 「へぇ、こんな料理法もあるんですね…」
 「はい、春香ちゃん。大丈夫?ちゃんと持てるかしら?」
 「ありがとうございます♪」
 「あら、お利口さんね」
 「それから稔さん」
 「済みません」
 「私の分は?」
 「これ、郁子。そんなにがっつくんじゃありません。」
 「どうぞ」
 「ありがとう。ママ」
芋のバター炒めは、バターの塩味が芋の甘みを抽(ひ)き出して、最高の味わいだった。
 「おいしーい☆」
郁子は何杯もお代わりをしていた。
 「今夜は天麩羅なんだから、そんなに食べなくても大丈夫よ」
郁子の母が笑いながら窘(たしな)めた。
 「だって、お芋は別腹なの」
 「あははは…」
 その夜、音無家の食卓は、笑いが絶えなかった。



四 井戸の中

 「はーるかちゃーん、あーそびーましょー♪」
春香の友達が来た。春香は幼稚園の友達とよく遊んでいた。一刻館は玄関と管理人室が離れているため、春香の友達は、いつもこうして大声で春香を呼ぶのだ。
 「はーいー♪」
 「春香、車に気を付けるんですよ」
響子はいつもこう言って春香を送り出す。
 「はい、ママ。いってきます」
 「行ってらっしゃい」
 ドタドタ…。
春香が廊下を踏み鳴らしながら玄関に向かう音が聞こえる。響子は、ピンク電話の角を曲がる春香の姿を見届けると、管理人の仕事に戻った。
玄関では、春香が友達と遊びの相談をしていた。
 「はるかちゃん、きょうは なにしてあそぶ?」
 「はるかねー、すごいこと しってるの」
 「すごいこと?それ なーに?」
 「えへへー」
 「ずるい!はるかちゃん、はやくおしえてよー」
 「えんそくのとき、みんなでてをあらったでしょ?」
 「うん、それがどうしたの?」
 「あれ、うちにもあるの♪」
 「えー!?ほんとー?」
 「あたし むかしからしってたんだけど、みずがでるなんて しらなかったの」
 「じゃぁ、きょうはそれであそぼ♪」
 『そうしよー』
子供たちは一刻館の井戸探検をすることに決めたようだ。
一刻館の井戸は、管理人室とちょうど反対側にあった。一階のトイレの外側と言った方が分かりやすいだろうか?井戸の直径は1m弱で、高さ60cm程の古いコンクリートの枠の上に、やはりコンクリートの蓋が置かれていた。コンクリートの蓋は若干脆弱(ぜいじゃく)になっており、中央に亀裂が入って真っ二つに割れているようだった。
 「これよ♪」
春香は得意そうに井戸を友達に披露した。
 『あれ?』
春香の友達は口々に訝(いぶか)しがった。
 「みずがでるとこ ないじゃない」
 「そうだよ。ぼうもないじゃん」
春香は躍起になって反駁(はんばく)した。
 「だって、このまるいの おじいちゃんのところと いっしょじゃない!」
 「だけどさ、なんか ふたがしてあるよ」
 「そうだよ、そうだよ」
春香はたじろがなかった。
 「ふたのなかにあるのよ」
春香は自信満々だった。一刻館の井戸は、シリンダーの部分がないだけで、観光農園の井戸と形が全く一緒だったからだ。シリンダーは蓋を開ければ中にある筈だと堅く信じていた。
 「じゃぁ、ふたをあけたら、ほんとにあるんだな?」
眼鏡を掛けた子供が半信半疑で訊いた。
 「そうよ」
春香はしれっと言ってのけた。
 「じゃぁ、みんなでちからをあわせて このふたをあけようよ」
 「そうしよう」
子供たちは先ずコンクリートの蓋の端を持ち上げようとした。蓋はもう古いため、枠との間に泥が詰まって、シーリングの役割をしていた。子供たちが指を挿し込もうにも、指が入らない。
 「あー、ゆびどろどろー」
 「きたなーい」
子供たちは流石(さすが)に諦めてしまった。するとひとりが何かを思い付いたようだ。
 「まんなかに”ひび”がはいってるよ」
 「ほんとだ」
 「まんなかにゆびをいれて ふたをうごかせばいいんだよ」
 「そうか。あっちゃん、あったまいー」
 「えへへ…」
あっちゃんと呼ばれるこの子供は、春香の友達の中でも一番背が高くて体格がガッチリしていた。体力にも多少自信があるらしかった。
 「じゃぁ、おれがうごかしてみるよ」
あっちゃんは真ん中の亀裂に指を挿し込むと、全身全霊の力を込めて引いた。
 「あっちゃん、がんばれ」
 「がんばれ、がんばれ」
 「う……ん」
そのときコンクリートの蓋からパリンッという乾いた音がした。子供のひとりがその音に気が付いた。
 「いま なんか へんなおとがしたよ」
 「へんなおと?」
子供たちが亀裂を覗き込む。あっちゃんも亀裂を覗き込むため、指を外そうとしたそのときだった。
 「あ!いててて!」
 「どうしたの?」
 「どうしたの?あっちゃん」
子供たちが驚いてあっちゃんの方を見る。あっちゃんは、何故か蓋から離れない。
 「いてぇ…、いてぇよ」
どうやら蓋の亀裂に指が挟まったらしい。先程の乾いた音は、蓋の一部が欠けた音だったのだ。その隙間(すきま)に指を深く挿し込んでしまったらしい。
 「あっちゃん、ゆびをぬけばいいんだよ」
 「そうだよ、ぬけば?あっちゃん」
子供たちも原因に気付いたようだ。だがあっちゃんは苦渋の顔をして言った。
 「ゆびが…ゆびがぬけないんだ」
 「えー!」
 「あっちゃん、ゆびぬけないのー?」
 「よし。みんなで、あっちゃんのうでをひっぱるんだ」
 「そーれ。よいしょ、よいしょ…」
 「いてぇよ、いてぇよ」
 「おい!うごかすなよ!」
あっちゃんは皆を制した。
 「どうしよう」
ひとりが心細そうに呟(つぶや)いた。
 「いてぇよー、いてぇよー」
あっちゃんは盛んに痛がっていた。
 「お、おれ、しーらんべっと」
ひとりが後退(あとずさ)りをした。
 「おれもー」
 「はるかちゃんがわるいのよー」
 「そうだ。はるかちゃんがわるいんだ」
 「はるかちゃんが、ふたをあければいいっていったから いけないんだ」
子供たちが口々に春香を非難し始めた。春香は焦りだした。
 「いーけないんだ、いけないんだ。せーんせいにいってやろ」
誰かが春香を囃(はや)しだした。その声は次第に斉唱に変わっていった。あっちゃんは痛みのあまり遂に泣き出した。春香はパニックに陥った。
 「マ、ママ。ママ よんでくる」
 「みんな、ちょっとまってて!」
春香はあっちゃんを背にして走り出した。
 「にげるのかよー」
子供たちの非難の声が春香の後を追って来た。春香はべそをかきながら、管理人室に走った。



五 救急車119

 「ママー、ママー!」
春香は管理人室に走った。しかしそこに響子の姿はなかった。そういえば、廊下が少し湿っている。響子は館内清掃に出たのだった。春香はそれに気付かず、取り乱して館内を捜す回った。
 「ママー、ママー!」
春香が2階の4号室の角を曲がった所で、モップ掛けしている響子の姿を見付けた。
 「ママー!」
 「どうしたの?春香」
 「ママ!」
春香は泣きじゃくってなかなか話せなかった。やっとのことで息を呑むと響子に窮状を訴えた。
 「あっちゃんが、あっちゃんが…」
 「えっ!篤史くんが怪我!?」
響子はモップを投げ捨てると、春香に連れられて井戸へ向かった。井戸の周りでは子供たちが途方に暮れていた。
 「篤史くん!」
響子は夢中で篤史の指を引っ張った。
 「いてぇよ、いてぇよ」
しかしあっちゃんは泣きじゃくるばかりだった。このままではいけないと思った響子は、管理人室に戻ると、大き目の釘抜きを持ち出した。釘抜きを亀裂に挿し込んで蓋を持ち上げようというのだ。
 「篤史くん、もうちょっと待っててね!」
響子は釘抜きを亀裂に挿し込むと、慎重に力を加えていった。
 ググッググッ…。
確かな手応えが感じられたその瞬間、また乾いた音が。
 パリンッ!
井戸の蓋は、またしても欠け落ちてしまった。その反動により、あっちゃんの指は更に強い力で挟み込まれた。
 「ぎゃー!」
あっちゃんは、堪らず叫び声を上げた。響子はおろおろするばかりだった。
 「そうだ!救急車!」
響子はそう思い付くと、一目散に館内へ走った。
 「もしもし…」
 「火事ですか?救急ですか?」
 「子供が井戸の蓋に手を挟まれてもがいているんです!」
 「早く救急車を!」
 ピーポーピーポー…。
それから10分くらい経っただろうか。一刻館に救急車が到着した。
 「子供は?」
 「こちらです!」
響子は救急隊員を井戸へ案内した。あっちゃんの指は、青紫色に腫(は)れていた。救急隊員は大きなバールのようなものを亀裂に挿し込んだ。
 ググッググッ…。
十分バールの先端が挿し込まれたところで、救急隊員は慎重に慎重に井戸の蓋を持ち上げていった。
 ググッ、ゴゴゴ…。
井戸の蓋は鈍い音を立ててゆっくり上がって行った。
 「篤史くん!指を!」
響子が叫ぶと、あっちゃんは指を蓋の亀裂から引き抜いた。
 ガンッ!
救急隊員が蓋を落とした。あっちゃんは無事解放された。
 「やったー、やったー」
 「あっちゃん、だいじょうぶ?」
子供たちが騒ぐ中で、救急隊員は任務を遂行し、ほっとした表情を見せた。
 「どうやら軽い内出血で済んだようですね。氷か保冷剤で暫く冷やしてあげて下さい」
 「どうもありがとうございました」
 「お母さん、子供の悪戯には気を付けて下さいよ」
 「どうも済みませんでした」
 ブーン…。
救急車が去って行く。響子はその後姿に何度も何度も深くお辞儀をしていた。解放されたあっちゃんは指を押さえて七転八倒していた。
 「いってぇ、いってぇ」
響子が空かさず氷水を入れた氷嚢(ひょうのう)を用意した。
 「篤史くん、これを当てて暫く我慢してくれる?」
 「…うん」
これで漸く事件は一段落した。
 「あっちゃん、よかったね」
 「あっちゃん、だいじょうぶ?」
口々に心配する子供たち。春香はあっちゃんに合わせる顔がなかった。ずっと下を向いたまま、響子の後ろに隠れていた。
 「春香…」
響子は春香を促した。春香は暫くの沈黙の後、あっちゃんの指を両手でそっと覆い、涙を流した。
 「あっちゃん。ごめんなさい、ごめんなさい」
春香の態度があまりに意地らしかったためか、あっちゃんは怒った様子もなかった。
 「いいんだよ。ゆびをつっこんだのは、おれのせいだし…」
 「ほんと、ごめんね。あっちゃん、いたくない?」
 「へいきだよ」
 「ほんと?」
 「そうさ。おれはつよいからな」
あっちゃんは春香に気を遣って、胸を張って見せた。すると子供たちは安心したと見えて、あっちゃんをからかい始めた。
 「あっちゃん、さっきないてたくせにー」
子供のひとりは泣きじゃくるあっちゃんの真似をした。
 「いてぇよー、いてぇよー」
 「あははは…」
 「やっちゃん、うまーい」
子供たちは上機嫌だ。響子はあっちゃんの指を優しく撫でた。
 「篤史くん、ごめんなさいね」
 「痛かったでしょう?」
 「だいじょうぶだよ、おばさん」
 「おれ、おとこのこだから…」
あっちゃんは大見得を切った。その様子に響子も安心したようだった。
 「篤史くん、強いのね」
 「そんなことねぇよ」
その様子を見たやっちゃんが、またあっちゃんの真似をした。
 「いてぇーよ、いてぇーよ」
 「あっちゃん、よわむし なきむし けむし」
ひとりがまた囃し始めた。
 『あっちゃん、よわむし なきむし けむし』
 『けむしははさんで なげすてろー』
あっちゃんは憮然(ぶぜん)とした。
 「うっせぇな!おまえら、だまってろよー」
 「わー!あっちゃんがおこったー」
子供たちは元気に駆けて行った。響子はそんな様子を優しく見守っていた。
 「ママ…」
後に残された春香は、非常に惨めな顔をしていた。
 「春香、どうしてこんなことしたの?」
優しく質(ただ)す響子に、春香は訴えた。
 「だって、おじいちゃんのとこのみず つめたくて きもちよかったんだもん」
 「うちのみずも きもちいいんだもん」
春香は思わず、響子のエプロンに顔を埋めた。
 「そうね…。井戸水は気持ちいいものね」
響子は、優しく春香の頭を撫でてやった。



六 親不知子不知(おやしらず こしらず)

その夜、管理人室の電話が鳴った。
 ジリーン、ジリーン…。
 「はい、五代でございますが…」
 「五代さんのお宅ですか?私、篤史の母でございます」
響子は一瞬肝を冷やした。
 「これは篤史くんのお母さま。この度は春香がご迷惑をお掛けして…」
篤史の母親の剣幕は尋常ではなかった。
 「まぁ!ご迷惑だなんて!宅の篤史が内出血で済んだからいいものを。もし爪から黴菌(ばいきん)が入って、ヒョウ疽(そう)にでもなったら、どうしてくれるんですか!」
 「はぁ、誠に何と申し上げてよいやら…」
響子は只管(ひたすら)謝るしか方法がなかった。しかし篤史の母親の怒りは、そう簡単には治まりそうになかった。
 「今度、幼稚園の先生にお話して、幼稚園側からも厳しく追及していただきますからね!」
 「そんなお母さま、追及だなんて…」
 「いいえ。篤史は将来ピアニストを目指してますの」
 「今回の騒動で指が使えなくなったら、どうして下さるんですか!」
 「…分かりました。何(いず)れにしましても、主人と伴にお宅にお詫(わ)びに伺わせていただきたいのですが…」
 「お詫びのことばなんて聞きたくもありません!」
 「では、どのようにすれば?」
 「お宅の春香ちゃん、幼稚園でも結構な人気者とか…」
篤史の母の声色が妙に皮肉っぽく変わった。
 「えぇ。皆さんから仲良くさせていただいていますが…」
 「春香ちゃん、幼稚園を辞めていただけないかしら?」
 「えっ?春香が幼稚園を辞めるんですか?」
 「そうでございます!」
 「こんな危険な子供がいるような幼稚園に、宅の篤史はお任せできません!訴追されるが嫌だと仰るのでしたら、これくらいのことは当然でございましょ?」
 「でも春香も悪気があって篤史くんの指を挟ませたのではありませんし…」
 「宅の篤史は春香ちゃんに唆(そそのか)されたんでございます!」
 「唆すだなんて、そんな言い方、あんまりじゃございませんの?」
響子も、もう下手には出ていられなかった。ここまで言われては、もはや引っ込みが付かなくなってしまった。
 「春香に質(ただ)しましたが、井戸の蓋を持ち上げようと言い出したのは、篤史くんの方だったそうじゃございませんか!」
 「んまぁ、宅の篤史がそんな野蛮なことする訳ございませんわ!」
 「どうせ、春香ちゃんが篤史に頼んだんでしょうよ」
 「全く…。お宅は娘さんにどういう教育をなさっているんですか?」
 「どういうもこういうも…。とにかく春香は悪くありません!お宅の篤史くんが勝手に始めたことですわ!」
 「勝手にですって!」
 「春香はそれをあたしに知らせてくれて、救急車を呼べたんですから、感謝されてもいいと思いますが!」
 「宅の篤史が勝手に?よくもまぁ、そんなことが、いけしゃあしゃあと言えるもんでございますこと!」
 「これは、お宅の娘さんの問題というより、親御さんの問題じゃございませんか?」
 「何ですってぇ!」
 「ばうー、ばうばう」
 「ただいまー」
そこへ何も知らない五代が帰って来た。響子は五代に縋(すが)る思いで抱き付いた。
 「五代さん、あたし、悔しい!」
 「ちょっと、響子、どういうことなんだ?」
 「電話中じゃないのか?」
 「電話なんか、もうどうだっていいわ!」
 「そんなことも言えんだろう」
五代は訝(いぶか)しがりながらも、電話を代わった。
 「もしもしお電話、代わりました。五代と申しますが…」
 「もしもし?春香ちゃんのお父さんでいらっしゃいますか?」
 「はぁ…」
 「春香ちゃんが宅の篤史に何をしたか、ご存知なんでしょうか?」
 「いえ。今帰宅したばかりなもので…」
 「まぁ、母親が母親なら、父親も父親でございますのね!」
 「あの、どういったご用件でしょうか」
五代は少しずつ腹が立ってきた。
 「今日ですね、宅の篤史が、春香ちゃんに唆されて、指を内出血したんです」
 「え?家の春香が?」
 「そうでございます!」
 「それで篤史くんのお怪我の方は?」
 「えぇ。お蔭様で軽傷で済みましたが、この責任、どういった形で取っていただけるんでしょうか?」
 「責任っていってもねぇ。要は子供の遊びでしょ?そんな責任も何も…」
 「そ、そんな!お蔭で宅の篤史は内出血したんですよ!」
 「内出血などは、腫れの初期の段階から冷やしておけば、大事には至りません」
 「数週間もすれば完治しますよ」
 「完治がどうとかいう問題ではないんです!」
 「お宅の教育方針はどうなっているんですか?」
 「他人に傷を負わせても宜しいと教えているんですか?」
この一言には、五代も流石に怒りが心頭に発した。
 「失礼ですが、今日はこの辺で失礼させていただきます。明日、幼稚園で本人たちも交え、お話し合いをしませんか?」
 「…そうですわね。そのご様子じゃ、今日は到底埒(らち)が明きそうにありませんことね!」
 「では明日で宜しいでしょうか?」
 「えぇ!明日、きっちり話を付けさせていただきます!」
 「それでは失礼します」
 「ふん!」
 ガチャン…。
 「…ふー」
 「まぁ、何という不躾(ぶしつけ)な親なんだろう。最近の風潮かね」
 「あなた。あなたまで嫌な思いをさせちゃって、ごめんなさいね」
 「いや、いいよ。それよりも篤史くんのこと、聞かせてもらえないか?」
 「そうね。私たちが知らないことには話にならないし…」
 「春香、ちょっといらっしゃい」
 「はい…」
春香は意気消沈し、見ているだけでも可哀想なくらいだった。今日の出来事は自分が悪いのだということを、しっかりと反省しているように見えた。だから五代たちも春香のことを叱(しか)れない。それよりも今は、篤史くんのお母さんとの問題の方がずっと大きくなってしまっている。何とか今夜中に打開策を練らねばならなかった。
五代は優しい声で春香に訊いた。
 「今日、どうして篤史くんは指を挟んじゃったのかな?」
 「あのね、はるかね おじいちゃんのところで てをあらったときね すごくきもちよかったの」
 「それでね、それとおなじものが うちにあってね みずをだそうとしたの」
 「それって井戸水のことね?春香」
響子が助け舟を出した。
 「でも春香。家の井戸は使えないだろうが」
 「うん。でもはるか それをしらなくてね ふたのしたに みずがでるところがあるとおもったの」
 「それで?」
 「それでね、みんなでふたをあけようとしたんだけど、おもくてあかなかったの」
 「そしたらね、あっちゃんが まんなかにひびがはいっているから、そこからあけようっていってね…」
春香の声が段々と涙声になってきた。
 「それでね、あっちゃんがゆびをいれたら、いたいってね… いたいって…」
春香はそれ以上、何も言うことができなくなってしまった。五代たちは、大体の状況を理解することができた。
 《やっぱり単なる子供同士のトラブルだ。親が出る幕じゃないな。さぁて、どうするか。あの母親を宥(なだ)めるのは容易じゃないな》
春香は先程からずっと啜(すす)り泣いていた。響子は優しく春香に言い含めた。
 「春香は悪くないわ。大丈夫よ」
 「でも、あっちゃんが…」
 「あっちゃんも、きっと解ってくれるわ。春香の気持ちが」
 「ほんと?」
 「ほんとよ。だから今日はママと一緒に寝ましょうね」
 「う、じゃなかった…はい!」
春香の表情に、少しだけ明るさが取り戻された。五代は明日のことを考えていた。



七 天国と地獄

次の日。五代はしいの実保育園に連絡して少し遅刻する旨を伝えた。響子も留守を一の瀬に頼んだ。後は春香と幼稚園に行くだけだ。
 「春香ー?早くいらっしゃい」
春香は幼稚園に行くことを躊躇(ちゅうちょ)していた。今日幼稚園に行ったら、パパやママが怒られると考えていたからだ。でも、今日幼稚園に行かなかったら、パパとママはもっと怒られる。そう考えて春香は幼稚園に行く準備を始めた。
いつもの時間より少し遅く三人は出発した。春香は、両手を五代と響子に牽かれて嬉しい筈だったが、今日はそんな気乗りはしなかった。三人は寡黙に幼稚園に向かった。幼稚園には黒塗りのベンツが横付けされていた。時計坂幼稚園にしては珍しい出来事だった。もしかしたら、これに篤史の母親が乗って来たのかも知れない。三鷹との接触以来、お金持ちに弱気な五代にとっては、今日の談判は条件が悪そうだ。
 「あなた、行くわよ」
毅然(きぜん)とした口振りの響子に励まされ、五代は幼稚園の門を潜った。いつも通い慣れた幼稚園が、今日は何故か広く感じられた。五代は取り敢えずふたりを外に待たせ、園長室に挨拶に行った。園長先生は、いつもと変わらずにこにこと迎えてくれたが、応接セットのソファーには、腕組みをした女性が腹立たしそうに座っていた。豪華なドレスに派手なアクセサリー。如何にもお金持ちを絵に描いたような出で立ちだった。その横には利発そうな体格のいい子供が座っていた。
 《これが篤史くんとその母親か…》
五代はこれだけで、もう負けそうだった。篤史の母親は五代に気が付くと、社交辞令で苦虫を噛(か)み潰(つぶ)したような顔でお辞儀をした。
 「では家内と娘を呼んで来ますので…」
そう言って五代はその場を後にしたが、やはりどうもいけない。今日の談判は嫌な予感がしていた。
 「あなた、どうでした?」
五代は諦めたように言った。
 「篤史くんとお母さんは、既にお待ち兼ねだ」
 「さ、春香。行こう」
五代は、春香に心配を掛けまいと、必死で笑顔を作った。春香は、そんな五代の顔をじっと見ていた。
園長室に六人が揃(そろ)った。今日の談判は、特別に園長先生に司会進行を任せることにした。というよりも、雰囲気を察した園長先生が自ら買って出たのだった。
 「では、そろそろ始めましょうね」
園長先生は、なるべく和やかに和やかに話し合いを進行させようとした。
 「こちらが春香ちゃんのお父さんとお母さん」
 「そしてこちらが篤史くんのお母さん」
 「本日は私、園長が司会を進めさせて戴きます。では、宜しくお願い致しますね」
六人は園長先生に丁寧に紹介され、多少畏(かしこ)まってお辞儀をした。
 「それで、今回の一件なのですが、どちらか経緯をお話し下さるかしら?」
 「では私の方から説明します」
篤史の母親はやる気満々だった。
 「昨日、春香ちゃんの家の古井戸に、宅の篤史が呼ばれまして、古井戸の蓋を開けて欲しいと言われたそうなんでございますの。そこで宅の篤史は体力に自信がありましたから、蓋に入った亀裂に指を挿し込んだところ、春香ちゃんに煽(あお)られまして、指を深く挿し込み過ぎて抜けなくなったんでございます。それで、ここにいらっしゃるお母さまが応急処置をして下さったそうですけど、逆に悪化させてしまいましたようで、救急車が出動する程の騒ぎとなったとか」
 「とにかく、宅の篤史は、春香ちゃんに唆されたんですわ!こんな問題児は幼稚園を辞めるべきです!」
そこへ園長先生が宥(なだ)めた。
 「まぁまぁ、篤史くんのお母さん。冷静に冷静に」
 「ところで春香ちゃんのお父さん、今の説明に間違いはございませんか?」
 「ちょっと宜しいでしょうか?」
五代は静かに話し出した。
 「確かに家には古井戸があります。そのことを友達に教えたのは春香です。しかしその蓋を開けると言ったのは、篤史くん自身だと聞いています。別に春香が煽った訳でも何でもありません。ですから今回の一件は、子供の遊びの中で起きたちょっとしたトラブルなんじゃないでしょうか」
 「ちょっとしたトラブルですって!」
篤史の母親が顔を真っ赤にして怒鳴った。
 「宅の篤史は、救急隊員に救助されるようなことになったんでございますよ!それが”ちょっとしたトラブル”というのは、信じられませんことよ!」
五代は続けた。
 「子供には好奇心があります。そして未知のものをこころから積極的に享受しようとする感性があります。今回の場合、遠足で見た井戸がそうだったんでしょう。春香が家の古井戸を友達に教えたのも、篤史くんが蓋を開けようとしたことも、その感性から発せられていることだと思うんです。これは子供だけに与えられた感性です。大人には理解の及ばないことでしょう」
 「ところがこの感性にはブレーキがありません。従って今回のような危険な事態に陥ることもあります。では、危険なことがあるからといって、大人がこの感性を無理やり抑えたらどうなるでしょうか?その子の人生は、きっと何の面白味もないものとなるでしょう。だから親は、その感性をあたたかく見守ってやらねばならないと思うのです」
 「しかし子供は、経験の少なさから、なかなか危険を予期することはできません。子供を危険から守るのは、大人の役目です。響子がいながらこのような事故が起きてしまったことに対しては、こころからお詫び申し上げます。ですが、春香に唆されたとか幼稚園を辞めろとかというのは、論点がずれているのではないでしょうか?このような形で事故の責任を追及することが、本当に子供たちのためになるのでしょうか?」
 「それよりも、子供たちの感性を尊重し、それを実生活の中で旨く育むことの方が、重要なんじゃないでしょうか?」
篤史の母親は、唖然(あぜん)として五代を見詰めていた。そして暫く沈黙が続いた後、園長先生が切り出した。
 「春香ちゃんのお父さんが仰ることも、非常に有意義なことだと思います。篤史くんのお母さんはどう思われますか?」
篤史の母親が憮然として何かを言おうとしたとき、横で聴いていたあっちゃんが初めて口を開いた。
 「かあさん、やめろよ!」
 「篤史ちゃん、どうしたの?」
 「おれは いどがどんなものだったのか このめでみたかったんだ。みんなも そうだった。だから おれがふたをあけるって いったんだ。はるかちゃんが わるいんじゃない!」
 「はるかちゃんのおとうさんは とってもいいひとだよ。そんなひとと けんかをするのは、かあさんらしくないよ」
 「もう、やめてくれよ!」
このことばに一番驚いたのは篤史の母親だった。
 「篤史ちゃん…。それでいいの?あなたは指を怪我したのよ。内出血したの。それでもいいの?」
 「いいよ。これはおれがわるいんだ。ちょうしにのって ゆびなんかつっこんだから」
あっちゃんは春香の方を見た。その顔は晴々として力強かった。園長先生はその様子を確認すると、優しく説くように話し始めた。
 「天国と地獄では、同じ食事が出されているのだそうです。でも、天国のひとは丸々太っているのに、地獄のひとはガリガリに痩(や)せています。どうしてなのでしょうか?」
 「それは食事に出された箸(はし)が必要以上に長かったからです。天国のひとは、その長い箸で向かい側の席のひとに食べさせます。食べさせてもらった向かい側の席のひとは、お返しに長い箸で食べさせてくれます。だから食事ができるのです」
 「一方、地獄のひとは、己(おの)が食べたい一心で、ひとりで箸で食べようとします。ところが、長い箸では自分自身の口に食べ物が運べません。だから、地獄のひとは、食事があってもガリガリに痩せているのです」
 「春香ちゃんは、自分の家に古井戸があることを知りました。そのことを自分だけではなく、みんなに知らせようとしました。篤史くんは、春香ちゃんに代わってその井戸をみんなに見せるため、蓋に手を掛けて怪我をしました。ふたりのこころには、”自分だけではなくみんなのため”という思いやりの気持ちがあったんじゃないかと思います」
 「ところが私たち大人は、どう対処したでしょうか?自分の子供可愛さから互いに諍(あらそ)い、今日このような場を設けることになりました」
 「親御さんの皆さんは、どうお考えになりますか?」
五代は園長先生の話を大いに愧(は)じた。
 「園長先生…」
 「春香ちゃんのお父さん。春香ちゃんはとてもいい子です。素敵な女性に育てて下さいね」
 「はい。ありがとうございます」
 「そして、篤史くん」
 「はい」
 「さっきあなたが言ったことは、大変素晴らしかったわ。でもね、誤解しないでちょうだい。あなたのお母さんは、春香ちゃんのことが嫌いなんじゃないのよ。あなたのことを心配して下さったの。お母さんにお礼を言いましょうね」
 「うん!かあさん、ありがとう」
 「篤史くんのお母さん、これで宜しいかしら?」
篤史の母親は、息子の反応に少々戸惑っていたが、園長先生に対して恭しく頭を下げた。
 「はい。私も、少々大人気なかったようでございます。これからも、春香ちゃんには仲良くしていただきたいと存じます」
篤史の母親は、丁寧に響子にお辞儀をした。
 「い、いえ。こちらこそ。この度はいろいろご迷惑をお掛けしまして…」
 「もう、いいんでございますのよ」
 「今日はご主人さまとお話できて、とても宜しゅうございましたわ。宅の篤史が悪さをしましたら、どうぞお叱り下さいましね」
 「あら、そんな…」
 「いいえ。子供のすることですもの」
 「おほほほ…」
篤史の母親は、園長先生と五代一家に深々と頭を下げた。
 「本日はこれで失礼致します。ありがとうございました」
 「では先生、篤史をお願い致します」
そう言うが早いか、篤史の母親は、幼稚園の横に乗り付けたベンツに乗ると、逃げるように走り去って行った。
 「何なんだ…」
五代が呟いた。
 「あなた。まぁ、いいんじゃないですか?」
 「そうだな。まぁ、いいか」
ふたりは顔を見合わせた。何だかふたりとも嬉しかった。すると下からパタパタ音がした。
 「パパ、ママ。はるかも なかまにいれて」
春香がふたりの仲間に入りたくて、ジタバタしていたのだ。
 「あ、ごめんごめん」
 「じゃ、三人で笑おうか」
 「そうしましょ」
 「うん♪」
 『わははは…』
園長室から楽しそうな声が木霊した。(完)