寒風の狭間(はざま)に


作 高良福三


序 一緒に住もうね

 ヒュー…。
電線が風に鳴っている。ちぎれた新聞紙とともに、乾ききった枯葉が数枚、カサカサと地面を競い合うように通り抜けていく。空には雲ひとつなく、水に溶いた青色の水彩絵具を零(こぼ)したようだ。行き交う自動車の音までもが、どことなく乾いている。最近は、日中もめっきり冷え込みが厳しくなってきた。時計坂の街では、生垣の山茶花(さざんか)の赤い花が、濃く緑色に照る葉と好対照をなしていた。
 ジリーン…、ジリーン…。
一刻館の管理人室では、電話がさっきからひっきりなしに鳴っていた。響子が窓を締切にして、裏庭で洗たく物を干しているからだ。室内でその様子をじっと見ていた春香が、三度目の電話に応対した。
 「もしもし」
 「あっ、やっとつながった。いやー、よかった」
 「あの、五代さんね、朗報ですよ!」
 「…えっと。あたしのなまえは、ごだいはるかです♪よんさいです♪」
 「あ…?困ったな。子供だよ…」
電話の主はかなり狼狽(ろうばい)していた。
 「あのー、もしもし?お母さんはいるかな?」
 「います♪ちょっとまってくらさーい」
春香は受話器を脇へ置くと、窓をドンドンと叩いた。
 「ママ、ママ。おでんわですよ、おでんわ!」
 「あっ、春香。ありがとう」
響子は大慌てで電話を代わった。
 「お電話代わりました。五代でございますが…」
 「あぁ、五代さんですか?お世話様です。時計坂不動産ですが…」
 「あ、不動産屋さん?これはこれは。こちらこそお世話になっております」
 「いや、それよりね、五代さん。朗報なんですよ、朗報!」
 「は?」
 「そちらにね、入居したいっていうひとが、今日来たんですよ!」
 「まぁ!本当ですか?それは助かりますわ」
 「いや、まだ若い女性なんですがね、何でも三友商事にお勤めだそうで、お家賃の方の問題はないと思います」
 《三友商事?まさか八神さんじゃないでしょうね》
 「じゃぁ、今日にでも入居審査書を送りますから…」
 「あの…恐れ入ります。ちなみに、その方のお名前だけでも伺って宜しいですか?」
 「はいはい。えーと…三茅裕代(みがやひろよ)、25歳ですね」
 《みがや…?みがや、みがや…。何かひっかかるわね。でも、ま、いいか》
 「あら、そんなにお若い方なんですの?こんなボロアパートでびっくりしないかしら?」
 「いやぁ、それは大丈夫ですよ。何しろ最初っから一刻館(おたく)を指名してきたんですから」
 「まぁ!わざわざ一刻館(うち)を?」
 「えぇ。まぁ、世の中、奇特なひともいるもんですな」
 「え?」
 「…いや、ははは。失敬、失敬」
 「ほほほ…」
 「それでは直ぐに送りますので、書類審査の方、よろしくお願いします」
 「はい。分かりました。ありがとうございました。…それでは失礼いたします」
 チン…。
《驚いた。最初っから一刻館(うち)を指名するだなんて、一体どんな方かしら?まぁ、いずれにしても、八神さんじゃなくて安心したわ。またあのひとをひっかき回されたんじゃ、こっちも堪んないもんね》
《さぁて、何号室にしようかしら?まだお若い方だし、四谷さんと同じ階っていうのは、絶対によくないわよね、絶対。う〜ん…かといって、一の瀬さんのお隣っていうのも何だし…。そうだ!3号室がいいわ。3号室にしましょう》
数日後、響子は3号室の掃除をして風を入れ、畳をぞうきん掛けしていた。不動産屋から、新しい入居者が今日にでも来るとの連絡を受けたからだ。
 「ママ、なにしてるの?」
 「お掃除よ」
 「おそうじ?」
 「今度ね、新しいひとが引っ越してくるの」
 「ねぇ。それって おとこのひと?おんなのひと?」
 「女のひと。しかもおねえさんよ」
 「わーい!おねえさんだ♪おねえさんだ♪」
 《ふふふ…。春香、そんなに嬉しいのかしら?でも久し振りよね、新しい入居者が来るなんて。店賃(たなちん)が増えて助かるわ》
 「ねぇ、そのひと どんなひと?」
 「さぁ?でも優しいお姉さんだと好いわね」
 「うん♪」
 「ばうー」
惣一郎の声とともに、玄関の扉が開く音がした。
 「ごめんくださーい」
 「あらっ、もういらしたんだわ!」
 「はーいっ」
響子は手の周りのものを片付けて玄関に向かった。



一 ジャブ&うっちゃり

玄関に立った響子は、愕然(がくぜん)とした。そこには、笑顔を振りまく八神の姿があったからだ。八神は、身長こそ高校時代とあまり変わらなかったが、福よかで物腰もだいぶ大人びていた。それでいて溌剌(はつらつ)で闊達(かったつ)とした雰囲気は、三十路の響子を脅かしていた。春香は、響子が八神の前で固まっている訳が分からず、響子のエプロンの裾をしっかりと握り締めて、後ろに隠れていた。
 「お久し振りです。管理人さん☆」
やっと我に返った響子は、いぶかしそうに八神に尋ねた。
 「今日は、一体何のご用件ですか?」
響子は凄んで見せた。
 「ご用件も何も…」
八神は、そんな響子に構わず、深々と頭を下げた。
 「今日からこちらにお世話になります。三茅裕代でーす☆」
 「三茅さんて、あなたのことだったの?」
 「はい☆」
 「あ、あなた、偽名を使ったのね!」
 「だって、もし契約書に『八神いぶき』って書いてあったら、管理人さん、OKしました?」
 「だっても何も。あなた、これは私文書偽造じゃないの!」
 「でも契約書は正式なものですよ。それとも管理人さん、私を追い出します?」
八神は響子に対して不敵な笑みを見せた。
 「今すぐにでも追い出したいわよ!」
響子の剣幕は凄まじかった。しかし八神は平然と言ってのけた。
 「えへへー、残念でした☆契約しちゃった以上、大家は店子(たなこ)を簡単には追い出せないんですよ☆」
 「何ですって?」
 「だって法律で決まっているんですもの。一度契約したら、賃借人は借地権を保護されるんです。つまり管理人さんは私を追い出せないって訳☆」
 「だって、あなたは私文書偽造…」
 「じゃぁ、裁判所にでも訴えます?」
響子は二の句が継げなかった。
 「じゃ、決まりね☆」
 「お世話になりまーす☆」
この日から、八神は一刻館の新しい住人になった。
 「ばうー、ばうばう」
惣一郎がしきりに吠える。
 「どうしたのかしら?」
響子が突っ掛けを履いて玄関を出た。
 「ちわー、引越しセンターです。3号室はどちらですか?」
すると後ろから八神が声をかけた。
 「まぁ、早かったのね。こっちです、こっち…」
 「それじゃぁ、管理人さん。私、引越しの荷ほどきがありますので…」
八神は、響子にいたずらっぽくウィンクすると、運送屋に荷物の運び込みを指示しだした。
 《またしてもやられた…》
響子はしっぽを巻いて管理人室に帰るしかなかった。
 《何が三茅よ。「やがみ」を逆さまにしたんだわ。何で今まで気付かなかったんだろ…。「裕代」だってあのひとの名前を逆にしたんじゃない。全く他人(ひと)をバカにしてるわ》
 《でも今ごろ何しに来たんだろう?八神さんは、あたしがあのひとと結婚して子供までいること、知っているはずなのに…》
響子の懐疑は募る一方だった。炬燵(こたつ)に当たって春香と遊んでいても、3号室で作業する音が気になって仕様がない。
 「ママ、どうしたの?」
 「何でもないのよ。何でもないの…」
響子は春香に心配される始末。八神は、そんな響子の気持ちを知る由もなく、楽しそうに荷物の整理をしていた。一刻館の間取りに合わせたのか、荷物は妙齢の女性にしては少なめだった。陽が暮れる頃には、3号室はもうすっかり女性の部屋らしくなっていた。響子は五代の帰りを待ちわびていた。
 「ばう!」
 「ただいま〜」
五代が帰って来た。
 『お帰りなさい☆』
出迎えたのは響子と八神だった。五代は慌てた。
 「な、何で八神がいるんだ?」
 「今日からこちらでお世話になることになりました☆」
 「何だと?そんなこと、ちっとも聞いとらんぞ」
 「じゃぁ、三茅裕代って言ったら、分かっていただけます?」
 「えっ?じゃぁ、三茅って…あれはお前だったのか!」
 「はい☆そういうことになります☆」
 「そういうことになりますって。それじゃ、お前。私文書偽造だろ?」
 「管理人さんとおんなじこと言うんですね」
五代は口を真一文字に結び、静かに目を閉じてこころを落ち着かせた後、きっと目を見開いた。
 「お前のお父さんは、このことを知っているのか?」
 「私はもう社会人です。父の制約は受けません」
 「そういう訳にもいかんだろう」
 「それでなくたって、こっちは迷惑してるんだから…」
八神は少し意味深なことを言い掛けて口を噤(つぐ)んだ。五代は響子の目を確認すると、気合を入れて八神に言った。
 「いいから。今すぐ出て行ってもらおうか!」
 「嫌です」
 「本人が嫌がっている以上、法律でできないんだそうです」
響子が怒りをかみ殺しながら補足した。
 「それにしたってなぁ、八神…」
 「もう、荷物も運び込んじゃいました。こんな状態ではもう出て行けません☆」
八神は3号室をふたりに披露した。3号室には、可愛らしいベッドやドレッサー、ファンシーケースなどが配置され、石油ファンヒーターの暖かい風が、一刻館の寒々しい部屋を、快適な空間に一変させていた。すっかり八神の部屋になってしまった3号室を見て、五代が肩を落とした。
 「へ?そんな…」
そこへ一の瀬が割り込んできた。
 「という訳で、今日はこれから管理人室で八神さんの歓迎会やるからね」
 「ちょっと!一の瀬さん、いきなり何を…」
 「四の五の言わずに、あんたもちゃんと参加するんだよ」
 「おばさん!誰の部屋だと思ってるんですか!」
 「わははは…」
 「五代くん。朱美さんもちゃーんと呼んでありますから、ご安心くださいましね」
四谷が背後からぬっと現れた。
 「え?朱美さんも来るんですか?何でまた?」
 「そりゃ当然でしょ、五代くん。一刻館に新住人が来るなんて、こんなおめでたいこと、滅多にないんですから」
 「あ、あんたらなー…」
 「きゃー☆うれしいわ☆皆さんで私を歓迎して下さるのね☆」
 「ささ、五代くん。こちらへどうぞ」
四谷が五代の背中を無理やり押した。
 「ほら、管理人さん。あんたもむすっとしてないで。こっちへ来な」
五代と響子はまたもや住人のペースにはめられてしまった。管理人室では、春香が面々を出迎えた。
 「パパ、おかえりなさい」
 「あぁ、春香。ただいま」
五代は春香の目の位置までしゃがんで、試みに尋ねてみた。
 「これからこのおねえさんの歓迎会をするんだけど、春香はどうする?」
 「かんげいかいって なーに?」
 「春香ちゃん。こうやってねぇ、パーっとやるんだよ。パーっとさぁ」
一の瀬が扇子を振り回した。それを見て、春香は目を輝かせた。
 「…えんかい?はるかも やる」
 「へ?」
五代と響子は、驚きのあまり、思わず顔を見合わせてしまった。春香はどうやら宴会が好きらしい。
 《一体誰に似たんだろう?》
五代は思いめぐらせたが、見当がつかなかった。春香は、八神のスカートの裾をしっかりと握ると、目を輝かせて顔を見上げた。
 「おねえさん、とってもきれい♪」
 「まぁ、ありがとう☆春香ちゃん☆」
 「うん♪」
すると四谷が首を突っ込んできた。
 「春香ちゃん、またおじさんとにらめっこしましょうね」
 「うん♪」
 「こんちゃーす」
 「お。朱美さんの登場ですな」
朱美は管理人室に入るなり、不機嫌そうに言った。
 「あれ?何よ。まだ全然準備できてないじゃない」
 「何だよ。他人(ひと)の部屋に勝手に上がりこんできて」
 「まぁまぁ。五代くん、そう剥れないでさ。これ、亭主(マスター)の差し入れね」
 「朱美さん。いつも悪いですなぁ。我々にまで気を遣っていただいて…」
 「いいってことよ。ほら、五代くん。さっきからぼさっとしてないで、きりきり準備しないさいよ」
 「朱美さん!もうあんた一刻館(ここ)の住人じゃないだから、我が物顔しないでよ」
 「あーら、五代くん。冷たいことゆーのね。あたしたち、一緒に寝た仲じゃない」
 「それは寒いからって、朱美さんが強引に…」
そのとき背後から響子の強烈なオーラが五代を包んだ。腕を組み、仁王立ちになった響子の姿が大きくメラメラと燃えていた。
 《あ、あかん。こりゃ、何を言っても無駄だな…》
 「あなたっ!」
 「そんな!響子…さん。誤解ですよ、誤解…」
 「ママは怖いねぇ」
四谷がしんみりと春香に耳打ちした。春香も響子の劇(はげ)しさに萎縮していた。
 「だいじょぶよ、春香ちゃん。こんなの日常茶飯事だからさ」
 「にちじょうさはんじ?」
朱美が春香をなだめた。
 「いいっていいって。もうすぐ分かるようになるわよ」
一刻館の面々は、そんな五代と響子を無視して、宴会の用意を粛々と進めた。ひと通りできあがったところで、四谷は大きなせき払いをした。
 「うぉっほん!え、それでは…」
響子と五代が四谷の方を見る。
 「新しい住人、八神いぶきさんに歓迎の意を込めまして…」
 『かんぱーいっ』
今日も宴会が始まった。
 「あら、えっさっさー…」
一の瀬のチャカポコ踊りが炸裂した。
 「きゃー☆こんな楽しいお酒は久し振り☆」
八神が旨そうに酒を飲み干した。
 「あら、八神さん。いい飲みっぷりじゃない。こんど茶々丸(うち)で働かない?ねぇ?」
朱美が八神の肩を抱いた。
 「いえ。遠慮しておきます」
一方、流し台の前では、四谷と春香がにらめっこをしていた。
 「にーらめっこしましょ。あっぷっぷ!」
 「あっぷっぷ♪」
春香はいつになく真剣だった。ふたりの緊迫した空気が、ふたりの間にだけ立ち込めた。
 「わははは…」
扇子を持って踊る一の瀬が、ふたりの間を何事もなくよぎった。
 「ぷ♪ぷぷぷ…」
暫くして、春香は笑い転げてしまった。やはり四谷の百面相は侮れない。響子は、窓際に凭(もた)れかかってコップ酒を手に一の瀬の踊りを見ていたが、心中は穏やかでなかった。
 《この子、今度は何を考えてるのかしら?あのひとに指一本でも触れたら、許さないんだから》
五代も歓迎会が始まってから、ずっと厳しい顔をしていた。
 《あいつ、どういう料簡なんだ?今頃になって一刻館(こっち)に乗り込んで来たりして、一体どうしようっちゅーんじゃ》
すると、グラスを持った八神が、危なっかしい足取りでよろよろと五代に近づいて来た。
 「五代先生☆」
 《そら来た!》
五代と響子が身構える。八神は五代の横にぺたんと座ると、意外なことを口にしだした。
 「社会人っていうのは、分別のある大人のことをいうんですよね?」
五代は八神の言う意味が解(げ)せなかった。
 「そ、そうだ。お前、ちゃんと分かってるじゃないか」
 「だからお前も大人しく家に帰れ」
 「嫌…」
八神の目が一気に曇った。
 「嫌なの」
 「お、おい。何も泣くこと…」
五代は大いに焦った。
 「私、このままじゃ家に帰れないのよ!」
八神の激しい口調に一同が注目した。和やかな宴に緊張が走った。その機を見計らって響子がすっくと立ち上がった。
 「はい、皆さん。今日はこれでお開きにしましょう」
 「そ、そうだねぇ…」
気まずい雰囲気を察した一の瀬が同意した。
 「では我々もここらで退散しますかな」
 「そ、そうね…」
四谷も朱美もきまり悪そうに管理人室から出て行った。
住人達が出て行った管理人室では、すすり泣く八神を五代一家が囲んでいた。
 「一体どうしたんだ?八神」
 「八神さん。あなた、何があったの?」
五代と響子が心配そうに八神の顔をのぞき込んだ。
 「いいんです!」
八神はいきなり立ち上がった。泥酔しているため転びそうになる。
 「危ない!」
五代が慌てて抱きかかえようとすると、八神は五代の手をすり抜けて3号室に走った。
 「八神!」
五代が追うように手を伸ばした。
 「放っといてください」
八神はあっという間に廊下の闇に消えて行った。
 「八神…」
五代がやるせなくつぶやいた。



二 娘の父親なんて…

次の朝。
 「はい、あなた。お弁当」
 「ありがとう。いってきます」
 「いってらっしゃーい」
いつもの朝の風景だった。五代は響子の目を盗むようにして、ちらっと3号室の方を見た。3号室は水を打ったように静まり返っていた。
 《あいつ、何があったんだろう》
五代は何となく後ろ髪を引かれるような気持ちで保育園に向かった。
しいの実保育園では、職員の朝礼が行われていた。最後に園長から連絡事項があった。
 「えー、それでは最後にボランティアの人を紹介します」
 《ボランティアのひと?》
保母たちは互いに顔を見合わせた。園長はにこにこと微笑みながら続けた。
 「今日から皆さんと一緒に働いていただきます…」
すると園長の後ろのドアから女性が現れた。
 「八神いぶきさんです」
 「八神!お前!」
五代が思わず叫んだ。
 「あら、五代くん。知り合いなの?」
保母たちが口々に尋ねた。
 「いや、知り合いっていうか、何ていうか…」
五代は、ごにょごにょと口ごもりながら両手の指を組んだ。
 「私、五代先生のアパートに住んでいるんです☆」
 「じゃぁ、五代くんとこの住人なんだぁ」
 「それだけじゃないでしょ?先生☆」
八神が流し目で五代を見る。保母たちも五代に注目する。
 「わぁ、なになに?」
 「い、いやぁ…」
相変わらずはっきりしない五代だった。すると園長が満足そうにうなずいた。
 「そうか。五代くんの所の住人か」
 「それじゃぁ、五代くん。彼女をひとつ宜しく頼むよ」
園長がぽんと五代の肩を敲(たた)いた。五代は冷汗をかいた。

 「わー!」
子供たちがやって来た。園庭はいつものように子供たちで溢れていた。
 「ごだいせんせーい!たかいたかいしてー!」
 「よぉし。そぉれ、たかいたかーい」
 「きゃははは…」
そんな五代の様子を八神は羨ましそうに眺めていた。すると背後からドタドタと床を踏み鳴らす音がした。
 「おねえさん、いっしょにあそぼ♪」
八神は笑顔を作った。
 「はいはい、何して遊ぶ?」
あっという間に昼食の時間が終わった。昼下がりは子供たちの昼寝の時間だ。五代たちはしばし子供たちから解放される。だるそうに肩や腰を叩く保母たち。五代は茶を啜りながら、鋭い視線を八神に向けた。
 「どういうことだ?」
 「どうもこうも。これはボランティアですから」
 「そうじゃなくって!」
 「お前、今日は会社じゃないのか?」
八神はひざを抱えながら空を見上げた。
 「私…会社、辞めちゃおうかな」
 「何言ってるんだ。せっかく三友商事に入ったのに。我がままも大概にしろ」
 「それにお前のお父さんだって心配してるだろうが」
 「だから嫌なんです」
五代は厳しい表情になった。
 「とにかくお前は家に帰れ!」
 「嫌です!」
八神は頑として譲らなかった。五代は溜息を吐(つ)くと、表情を緩めて静かに尋ねた。
 「どういうことなのか説明してくれないか?」
八神は俯くだけで、何も言わなかった。目は園庭のある一点を見詰めていた。
 「お父さんと何かあったのか?」
 「何にもありません」
 「うそだ」
五代は言葉で八神を押さえ付けた。
 「何もなければ、今さら一刻館(こっち)に来ることもないだろ?」
 「なぁ、一体どうしたんだ?」
八神はすっくと立ち上がると、ぱんぱんとお尻の塵埃(ほこり)を払い、縋るように柱に倚(よ)りかかって遠くを見た。
 「五代先生…」
 「ん?」
 「誰にも言わないって約束してくれます?」
 「あぁ、もちろんだとも」
八神は視線を地面に落とし、訥々(とつとつ)と話し始めた。
 「実は私…」
 「五代くーん、ちょっと手伝ってくれるー?」
保母のひとりが助けを求めてきた。
 「じゃぁ、八神。続きは一刻館(うち)で…」
五代は八神の顔色を窺いながら隣の部屋に応援に向かった。
 「ふーっ…」
八神は大きな溜息を吐いた。
 《どっちにしても、どうにかしなくちゃ…》
八神は自分自身を励ました。
その日の夜。
 『ただいま』
 「お帰り…なさ…い」
響子は唖然(あぜん)として出迎えた。
 「おふたりともご一緒だったんですか?」
 「あぁ。これから八神は会社には行かず、しいの実保育園で働き始めるんだそうだ」
五代が不愉快そうに説明した。
 「何ですって?ちょっと八神さん、どういうことなの?」
響子がにじり寄った。
 「これからおふたりにお話しようと思ってたんです」
 「じゃぁ、八神さん。管理人室でゆっくり伺いましょうか」
 「はい」
管理人室に入ると、春香が三人を迎えた。
 「パパ、おかえりなさーい♪」
 「あぁ、ただいま。今日もいい子にしてたかな?」
 「うん♪」
 「あっ!おねえさんもいっしょなの?」
春香は目を輝かせた。
 「…もしかして、えんかい?」
五代は焦った。
 「い、いや春香。違うんだよ。今日は宴会じゃないんだ」
 「なんだ…つまんないの」
 「あはあは…」
五代は、さっきまで張り詰めていたものが一気に緩んだ気がした。
 《春香のノリの良さは、ばあちゃんに似ている…気がする》
そう思うと、身の毛もよだつ五代だった。響子が春香の目の高さまでしゃがんだ。
 「パパとママは、これからお姉さんと大事なお話をするの」
 「春香は向こうの方でいい子にしててちょうだいね?」
 「うん♪」
さっそく春香はミッフィーの絵本を取り出して、ひとり楽しそうに眺め始めた。響子は腕組みをして八神を見据えた。
 「さぁ、八神さん。そろそろお話してくれてもいいんじゃないですか?」
 「そうですね…」
八神はいつになく素直だった。
 「その前に言っておきますが、これから私が話すことは、他言無用にしていただけませんか?」
 「いいでしょう」
響子は目を閉じて念ずるように言った。すると五代は管理人室のドアを開けて、こそこそと廊下をあらためた。
 「どうしたんですか?あなた」
 「いやぁ。穿鑿(せんさく)好きな連中が多いもんだから、一刻館(ここ)は…」
我ながら、ちょっとみっともなかったかなと思う五代だった。五代が炬燵に当たると、響子は茶をいれて八神に水を向けた。
 「それで?八神さん」
八神は湯のみに目を落としながら、ことばを選ぶように話し出した。
 「実は私…会社でいじめにあってるんです」
 「何だって?」
五代は思わず大声を上げた。春香が反応した。
 「パパ、どうしたの?」
 「あ、ごめんごめん。何でもないから…」
五代は手を振って春香を制した。
 「大丈夫だよ、春香。ごめんな」
春香は再び絵本を眺め出した。
 「それで?」
響子が八神に詰め寄った。
 「いじめっていうのは、どういうことなの?」
 「みんなパパが悪いの!五代先生の就職のときだって、直ぐつぶれるような会社を紹介したり…」
 「八神、それは過ぎたことだ。俺はもう何とも思ってないし、今の仕事も気に入ってる」
 「お前のお父さんとは関係ないよ」
 「大ありなのよ!」
八神は興奮して息を荒げた。
 「どれもこれも、みーんなパパが悪いのよ…」
八神は激昂のあまり、嗚咽してしまった。真っ赤に腫らした目には涙が溜まっていた。ふたりは困ったように顔を見合わせた。響子がなだめるように優しく八神の肩を抱いた。
 「そんな、泣かないで。八神さん」
 「なぜお父さんが悪いの?」
八神は泣いて乱れた息を整えながら言った。
 「…パパは今度、三友商事の役員になるかもしれないの」
ふたりは八神の言うことを一つひとつ確かめるように聴いていた。
 「ところが専務の祭田(まつりだ)さんっていうひとがそれに反対で、学閥をバックにパパに意地悪してるのよ」
 「それでね、パパは人事部長でしょ?いろいろと社内に敵が多いらしくて、私がパパの娘だと判った途端、みんなから話しかけられなくなったわ」
 「どうやらこれには、祭田専務が一枚かんでるらしいの」
五代は暫く考えてから尋ねた。
 「何かそれ以外に直接的な被害を受けたことはあるのか?」
八神は少し時間をおいてから徐ろに首を振った。
 「いいえ、特には…」
響子はわざと明るく振舞った。
 「じゃぁ、あなたの思い過ごしかもしれないじゃない」
八神は炬燵をダンと敲いて立ち上がった。
 「そんなことないわ!」
ふたりは思わずたじろいだ。
 「だって現に彼は…」
八神はそこまで言って口を噤んだ。
 「彼って?」
ふたりは怪訝(けげん)そうに八神の顔をのぞき込んだ。
 「いえ…。何でもありません」
八神は手の甲で涙をぬぐうと、「おやすみなさい」という言葉を残して管理人室を飛び出してしまった。五代と響子は呆気(あっけ)に取られ、走り去る八神を見送ることしかできなった。



三 あの子とスキャンダル

凍てつくような朝。寒風が吹きすさぶ中、響子は惣一郎の散歩に出掛けていた。公園では、公孫樹(いちょう)の黄葉が一葉、疾風にあおられ、梢(こずえ)に懸命ぶら下がっていた。銀杏の実は、全て近隣の住人たちが拾って行ったようだ。黄色く乾いた絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたような早朝の公園には、人影も疎らだった。吐く息だけが白く凍り、いのちの息吹を象徴していた。散歩から帰ると、響子は惣一郎を犬小屋につないだ。
 「そろそろあのひとを起こさなくっちゃ」
どこまでも抜けるような青空に、カタカタと突っかけの音がこだました。
 「管理人さん、おはようさん」
一の瀬が廊下に顔を出した。
 「あら、一の瀬さん。おはようございます」
一の瀬はにやにやと企み顔で近づいてきた。
 「で、八神さんとの一件、どうなったんだい?」
 「え?」
 「え?じゃないよ。あの子と話したんだろ?」
 「昨日の夜さ、えらく騒いでたじゃないか」
響子は頬杖(ほおづえ)を突き、あまり浮かない顔をした。
 「えぇ。話したことは話したんですけど、何か今ひとつひっかかるところがあって…」
 「ひっかかるところって?」
 「あの子、まだ何か隠してるんじゃないかしら?」
 「何、隠してるんだい?」
 「さぁ…」
すると3号室のドアが開く音がした。
 「おはようございまーす☆」
 「おぉっと、噂をすれば…」
一の瀬がそそくさと1号室に引っ込んだ。響子も咄嗟(とっさ)にどう反応していいか分からなかった。
 「お、おはようございます」
 「今日もいい天気ですね☆」
 「本当ね」
 「それじゃぁ、あたし、主人を起こしに行きますので…」
 「どうぞ☆」
 《あぁ、びっくりした。それにしても、何か辛そうな顔ね。何があったのかしら?》
響子は五代と春香を起こし、食事を済ませ、五代を玄関まで見送った。すると3号室から八神が出てきて、ちゃっかりと五代の腕に抱きついた。
 『いってきまーす☆』
五代の顔に戦慄と嫌悪の様相が顕われた。響子は鋭い目つきでふたりを見送った。
 「いってらっしゃいませ!」
その日の昼下がり。響子は春香を昼寝かしつけようとしていた。相変わらず、春香は劇しい抵抗を見せた。
 「春香!ちゃんとお昼寝しないと、どうせまた後でグズるんだから」
 「いや!いや!」
 「ほら、早く寝なさい!」
 「ごほんみるのー、ごほんー」
 「ご本は逃げません。お昼寝が終わったらママが読んであげるから」
 「いやなの、いやなのー」
 「もうっ!じゃ、パパが帰ってきたら、きつーく叱ってもらうわよ」
 「え…パパ?」
春香は五代に怒られるのが怖かった。
 「いいのね?春香」
 「はるか…やっぱり…ねる」
漸(ようや)く春香が床に着いた。すると玄関から声がした。
 「ごめんくださーい。書留でーす」
 「はーい、今行きます」
響子は慌てて部屋を出た。配達夫は黒い大きめの封筒を持っていた。
 「えーと、三茅裕代さんはこちらですか?」
 「はい。いま外出していておりませんけど…。あの、あたしでよければお預かりしますが…」
 「ではお願いできますか?」
 「はい。ご苦労様でした」
配達夫が去った後、響子は黒い怪しげな封筒を日に翳(かざ)して見てみた。中には掌(てのひら)大の物が入っているようだが、封筒が黒いのでよく分からない。それに黒い封筒自体、頗(すこぶ)る怪しいではないか。響子は取り敢えず封筒を管理人室で預かることにした。
その日の夜。
 『ただいまー』
五代たちが帰ってきた。
 「お帰りなさい」
響子は黒い封筒を持って、憮然(ぶぜん)としてふたりを迎えた。
 「あの、八神さん?こんな物が届いてますけど…」
 「何ですか?この黒い封筒は」
 「知りませんっ!」
八神が差出人を検(あらた)める。
 「あら?差出人が書いてない。それに何で黒いのかしら?」
八神は訝しがりながら封筒を手に部屋に入って行った。響子は五代を促した。
 「さぁ、あなた。もうご飯ができてますよ。行きましょ?」
 「あ、あぁ」
五代は黒い封筒が気になるようだった。八神が部屋に入るまで、後ろを繰り返し見やっていた。
食事が終わって一息つくと、五代は春香と食後の運動をしながら言った。
 「なぁ、響子。あの封筒の中身、何だったんだろうな?」
 「あたしが受け取ったときは、写真じゃないかと思ったんですけど…」
 「写真?でも差出人不明で、何であんな黒いんだ?」
 「さぁ?」
五代は春香の頭を優しくなでると、ひとりで管理人室を出ようとした。
 「あ、あなた。どちらへ?」
 「ちょっと八神の様子を見に…」
3号室では、八神が怒りと不安でわなわなと震えていた。
 「何でこんな物が一刻館(ここ)に届くのよ…」
そこへドアをノックする音がした。
 「八神、五代だけど…いいかな?」
 「五代先生?どうぞ」
八神がドアを開ける。床一面に散乱した写真の山。
 「ん?何だこれは?」
そこにはしいの実保育園で五代と一緒に写っている八神の写真があった。
 「これはきっと祭田専務の仕向けた興信所の仕業だわ」
 「だってこんな写真、ただ八神が保育園にいるだけのことじゃないか。どうってことないだろ?」
五代は何気なく一枚の写真を取って、興味なさそうに眺めた。
 「そうじゃないわよ。五代先生と一緒に写っているのが問題なんじゃない」
 「この写真を三友商事でばらまかれたら、娘のスキャンダルということでパパの立場が無くなるわ」
 「絶対、祭田専務の差金だわ。悔しいー!」
 「なるほど…」
五代は、もしかして自分がバカなんじゃなかろうかと思った。
 「ね?だから私、パパのせいでいろいろと嫌な目にあっているの。分かるでしょ?」
 「う、うん。お前の状況はよく分かった」
 「だが、それと一刻館(ここ)に住むことは、どういう関連があるんだ?」
 「それは…」
と言いかけて、八神は黙ってしまった。
 「それは、どうしたんだ?八神」
 「あの…」
 「どうしたんです?八神さん」
響子が3号室に入って来た。五代のことが心配で様子を見に来たのだった。
 「いや、八神が会社の学閥闘争の餌食になっているらしいんだ」
 「まぁ、この写真!」
響子は写真を見て驚いた。
 「こちらの動きは全てお見通しって訳だ」
五代はやれやれという風に頭(かぶり)を振った。寒風が建て付けの悪い窓ガラスをガタガタと鳴らした。五代が窓を開けて空を見上げると、青白い廿日(はつか)月が昇り始めていた。風が冷たかった。



四 誤解の方程式

あれから一週間、八神は当然のことであるかのように保育園に通い詰めた。子供たちも徐々に八神に懐(なつ)いてきた。
 「やがみのおねえさん、いっしょに”おままごと”しようよ」
 「いいわよ☆」
 「わーい♪」
八神の仕事振りは保母たちの間でも認められ、保育園で過ごす時間がより充実したものになっていった。子供たちの人気者ということでは、五代も負けてはいない。今日も五代は、砂場でいたいけな子供たちに服を汚されていた。
そろそろ昼寝の時間だ。保母たちは園舎で蒲団を敷き始めた。五代と八神も蒲団を敷いていた。これから子供たちを寝かせるという一大事が始まる。なかなか蒲団に入らない子供や、枕を投げる子供。「おしっこー!」と周囲を騒がせる子供。保母たちは必死になって子供たちを寝かしつけた。漸く静かになったしいの実保育園。保母たちの休憩時間が始まった。
 「八神さん、あなた随分と手際がいいのね」
 「そうそう。ボランティアっていうよりむしろ本職って感じ?」
 「言えてるー」
 「そんなことないですよ☆」
八神の顔が日に日に明るくなってきている。五代も、八神の会社生活を忘れかけていた。そのとき、しいの実保育園にひとりの男が現れた。
 「ごめんくださーい」
 「はーい」
保母のひとりが応対した。
 「こちらに、八神いぶきさんはいらっしゃいますか?」
 「えぇ。八神さんなら、いま向こうでお茶飲んでますけど…」
 「ちょっと失礼」
 「あ、ちょ…そんな勝手に。あの…どちら様ですか?」
男は応対した保母を無視してずかずかと園舎内に乗り込んできた。
 「いぶきちゃーん!」
男は八神を捜しながら、園舎内をうろつく。その声を聞いた八神は、はっとして五代の後ろに隠れた。
 「ん?どうした、八神」
男は遂に八神のいる部屋まで辿り着いた。
 「いぶきちゃん、こんな所にいたのか」
 「真田さん…」
男は八神の元気な姿を見てひと安心したようだった。
 「いぶきちゃんには辛いことが多かったが、もう大丈夫だ。一緒に行こう」
 「嫌!」
 「…どうして?」
 「だってあなたは、初め私の状況に全く無理解だったわ。だからあなたの言う”大丈夫”は、私にとって本当に大丈夫なのか、保証がないんですもの」
男は弱った顔をして、無造作に髪を掻き上げた。
 「うーん。じゃぁ、とにかく君の部屋に戻ろう。それならいいだろう?」
 「私の部屋はいま一刻館にあるの。あのアパートには帰らないわ」
 「そんな。僕を困らせないでくれよ」
 「迷惑したのは私じゃない!」
 「ちょっと待ってくれ!」
五代がふたりの間に入った。
 「ふたりともお互いに誤解があるようだ。ここは俺に任せてくれないか?」
 「五代先生…」
 「あ、あなたは?」
 「俺は八神が高校生のとき教鞭を執った者だ。決して八神を困らせるようなことはしない」
男は不敵な笑みを浮かべた。
 「どうやら信用に足るようですね。分かりました。この場はあなたにお任せしましょう」
 「ありがとう。八神もそれでいいな?」
八神は五代の後ろに隠れながら黙ってうなずいた。
 「先ずは事の発端から教えてもらおうか」
男は自己紹介を始めた。
 「僕は三友商事で八神さんと同じ課で働いている真田祐(ゆう)といいます。八神さんと僕は会社の同期で、新人研修のときは、一緒のグループになることが多かったんです。それで半年も経った頃には、気さくに打ち解ける仲になりました。そして一年間の新人研修が終わると、僕は彼女と同じ課に配属が決まりました。それまで僕らは、ただの仲間だったんです」
 「ところが二年目の夏、大きな人事異動が行われました。そのとき八神さんのお父さんが人事部長だということを知りました」
 「じゃぁ、それまでは八神は平穏無事だったという訳か」
 「えぇ、少なくとも同期の間では…」
真田が小さな溜息を吐いた。
 「ところがその後、八神さんの周囲で不可解なことが起きるようになりました」
 「不可解ってどんな?」
 「そうですね…。例えばロッカーの中の物がゴミ箱に捨てられるとか、パソコンの画面に八神さんを中傷するようなポストイットが貼られるとか…」
 「うーん。結構陰湿だな」
 「僕は八神さんに相談を持ちかけられました」
 「でもそのとき、僕は事態がこれほど深刻なものだとは思ってもいなかったんです」
 「そうよ。あのとき私は助けてって言ったのに、あなたはそれを無視したんだわ」
 「それは悪かったと思ってる」
真田は神妙な面持ちで答えた。
 「その頃からでしょうか、八神さんへの誹謗中傷が公認されたのは…」
 「それはどういうことだ?」
 「同期ですら、平気で八神さんを中傷し始めたのです。上長や他部署の人間なら尚更でした」
 「みんな、今まで楽しい仲間だったのに。あのときは本当に辛かったわ。でもあなたはそれに応えてくれなかった」
 「僕はのんぽりな方なので、異変に気づかなかったんです」
 「それで、八神さんが会社を休みがちになり、査定もどん底に下げられたのです」
 「でもそんなことがあれば、八神のお父さんが黙っていないだろう?」
 「はい、確かに八神部長はそのことに気づきました。しかし八神部長自身も窮地に立っていたんです」
 「窮地というのは?」
 「役員への昇進です」
 「それが何で窮地なんだ?」
真田は俯きながら呟(つぶや)いた。
 「三友商事って、実は同族会社だったんです。つまり役員は、そのほとんどが祭田家によって牛耳られているんです」
 「なるほど。そこで祭田専務が出てくる訳だ」
 「えぇ。僕も当初は知らなかったんですが、調査を進めて行く内に事実を知らされたのです」
 「それで祭田専務っていうのはどんなひとなんだ?」
 「元々彼は祭田家の人間ではありません。小暮という一介のサラリーマンだったんですが、ひょんなことから社長令嬢に婿入りし、祭田姓を名乗るようになりました。そして重役コースを邁進していたのです」
 「そのひとが何で八神部長を敵視するんだ?」
 「詳しいことは分かりませんが、八神部長の人柄が祭田専務と折り合わなかったんではないかと聞いています」
 「なるほどな。確かにあの親父さんなら敵は多そうだ。それで祭田専務は八神親子を目の仇にしたと…」
 「はい」
真田は残念そうにうなずいた。
 「その後八神さんは、お父さんの火の粉をかぶりたくない一心で自宅を離れ、独り暮らしをするようになりました」
 「そしてこの一年、僕が八神さんの味方として活動していたのですが、八神さんは僕の気持ちを理解してくれないというか、恐らくもう誰も信じられなくなっていたと思うんです」
 「そうよ。私はぎりぎりまで追い詰められていたわ。だから一刻館で五代先生と一緒に過ごせたらって思ったの」
五代は半ば諦めた口調で言った。
 「そういう理由で一刻館(うち)に来た訳か」
 「いけませんか?」
 「いぶきちゃん、僕と一緒に帰ろうよ」
 「嫌!私、もうあの会社には居られないわ」
 「そうじゃない。僕の部屋にお出でよ」
 「え…?」
 「僕と一緒に暮らそう」
八神は俯いた。家々の生垣にある山茶花が風に揺れた。冷たい風が園舎にも吹き込んできた。五代はふたりの様子を黙って見守っていたが、暫くして奥の部屋に入ると、三人分のお茶をいれて持って来た。
 「真田くん、寒いだろう」
 「あ、ありがとうございます」
八神はずっと俯いたままだった。空には、古綿色の雲が俄かに立ち込めてきた。北の方から、ごろごろという遠雷がかすかに聞こえる。冬の嵐が近づこうとしていた。



五 パジャマとネグリジェ

五代は茶を啜りながら八神の表情を観察していた。八神は先ほどから湯のみを持ったまま、微動だにしなかった。長い沈黙の後、真田が堪りかねて八神に語りかけた。
 「いぶきちゃん、僕の部屋にお出でよ」
八神の反応はなかった。
 「もう会社になんか行く必要はない。僕の部屋にいてくれるだけでいいんだ」
すると、八神の眼がわずかに動いた。
 「真田さん、ありがとう。でもパパが許すはずないわ」
 「いや、八神部長もきっと理解してくれるよ」
 「いいえ。真田さんは父を知らないから、そう言えるんです。父が真田さんのことを知ったら、激怒するに決まってるわ」
真田の目が優しくなった。
 「大丈夫だ。それくらい僕が説得してみせるよ」
 「真田さん…」
八神の表情にやや明るさが戻ってきた。五代も話が快方に向かい、ほっとしていた。
 「それじゃぁ、真田くん。八神は君のもとに預けても大丈夫なんだな?」
 「えぇ。僕は八神さんを愛していますから」
空は群雲(むらくも)が切れてひとすじの光が差し込んでいた。五代は時計を見た。もう既に15時を回っていた。職員室にいる保母たちがひとりまたひとりと出て来た。
 「五代くーん、そろそろ子供たち、起こしてくれるー?」
 「はーい、分かりました」
五代の声には張りがあった。
 「それじゃぁ、真田くん。八神を宜しく頼むよ」
 「えぇ、任せて下さい」
真田の表情はやる気に満ちていた。
 「さぁ、いぶきちゃん。一緒に僕の部屋に行こう?」
 「待って。まだ行く訳にはいかないの」
 「どうしたの?」
 「どうした、八神?」
 「私、管理人さんと話がしたいんです。前にいた部屋から一刻館に引越したのは、五代先生に会いたかっただけじゃなくて、管理人さんともじっくりお話がしたかったからなんです」
 「五代先生、私の我がままにもう少し付き合っていただけませんか?」
 「え?…あぁ。もちろん」
 「じゃぁ、真田さん。本当にありがとう。私、もう暫く一刻館にいます」
 「分かった。いぶきちゃんがそう言うのなら、僕がとやかく言う筋合いはないもんな」
 「真田さんの愛、大切にするわ」
真田は照れを隠すように言った。
 「じゃぁ、いつでも連絡くれよな。迎えに行くから」
 「ありがとう。またね」
 「うん。では五代さん、失礼します」
 「あぁ、君も一度、一刻館に遊びに来るといいよ」
 「はい。そうします」
真田は満足気に帰って行った。
隣りの部屋では、保母たちがせっせと蒲団をしまっていた。五代と八神は慌てて作業に合流した。
 「済みません。遅くなって」
 「五代くん。そんなことはいいから、早くお蒲団しまうの手伝って。八神さんも」
 『はい』
園庭は、再び子供たちで溢れ返った。子供たちが纏わりつく。
 「ねぇ、ごだいせんせい。いっしょににあそぼうよー」
 「ごめん、ごめん。これが終わってからな」
 「えー?つまんなーい」
 「いいわ。じゃぁ、おねえさんが遊んであげる☆」
 「わーい。やったー!」
 「八神、あんまりはしゃぎ過ぎるなよ」
 「はーい☆分かってますって☆」
五代はふっと溜息を吐きながら微笑んでいた。
 《これで八神の一件は落着か。それにしても、響子と話がしたいって何なんだ?》
五代は、子供たちと遊ぶ八神の横顔を眺めて考えていた。
その日の夜。食事を終えた五代一家。響子が洗い物をしているときだった。トントンとドアをノックする音がした。
 「はい」
響子が濡れた手をエプロンで拭いながら応対する。春香と遊んでいた五代も、ドアの方を見る。
 「あら、八神さん…」
 「こんな時間に済みません」
 「いえ、それはいいんですけど…」
 「今日は管理人さんとお話がしたくて来ました」
 「あぁ、昼間言ってたやつか」
五代が口を挟んだ。
 「はい。管理人さん、少しお時間を戴けないでしょうか?」
 「え?あたしに?」
 「はい。あまりお時間を取らせませんから…」
響子は八神を炬燵に招いた。
 「あの、どうぞ…」
 「ありがとうございます」
八神は招かれるまま炬燵に当たった。
 「それで、あたしにお話って何かしら?」
 「私、前々から気になっていたことがあるんです。今日はそれを確かめたくて…」
 「?」
 「管理人さんが結婚する前、茶々丸で一緒にクリスマスパーティをしましたよね」
 「えぇ。あなたがまだ未成年だったときね」
響子の言い方には、ちょっとトゲがあった。
 「あのとき、管理人さん、”このままじゃみんな嘘になりそうで怖い”って言いましたよね」
 「言ったわよ。そうしたらあなたが”弱虫”って言ってきたんじゃないの」
 「嘘ってどういう意味ですか?」
 「あなたには言っても解らないと思うわ」
響子は冷たく八神を突き放した。しかし八神は続けた。
 「私、担任から聞きました。あのとき五代先生のこと、旦那さまと同じくらい好きだったんでしょ?」
 『え…』
響子と五代は衝撃を受けた。五代がすかさず響子の表情を見る。響子は硬直して沈黙を守っていた。
 「ねぇ、管理人さん。いつから五代先生のことが好きだったんですか?」
 「私と五代先生が出会った頃はもう遅かったんですか?」
暫く沈黙が続いた。八神と五代が見詰める中、響子は徐ろに口を開いた。
 「…そうね。何て言えばいいのかしら」
 「あのとき、あたしのこころの中には、まだ惣一郎さんが生きていたのよ。だから三鷹さんも五代さんも、あたしのこと好きだって言ってくれたけど…もしどちらかとお付き合いすることになれば、あたしの惣一郎さんへの思いは、どこかに捨ててこなきゃならないでしょ?」
 「どうしてですか?ひとりのひとを好きになったら、永遠に他のひととはお付き合いできないんですか?」
 「私は嫌いだな…そういう考え方」
 「まぁ、あなたには解らないでしょうね」
 「ずるいわ」
 「…ずるい?」
 「管理人さんは、そうやって解った振りして、本当は、三鷹さんや五代先生から、いいえ、結婚という現実から逃げていたんじゃないですか?」
 「だって管理人さんは、私と五代先生が知り合ったとき、既に五代先生を好きだったんでしょ?それを愛してない振りして愛されようなんて、ちょっと虫がよ過ぎるんじゃないですか?」
 「八神!もういい加減にしないか!」
 「五代先生は黙ってて!私は今、管理人さんとお話をしているんです」
響子は俯いたまま、湯のみを手に回していた。そして小さな溜息を吐くと、自分を嗤(わら)うかのように口角を上げた。
 「そうね…。あなたの言うように、あたしは結婚という現実から離れ、一刻館という鎖(とざ)された別世界に逃げ込んでいたのかもしれないわね」
 「五代さんが教育実習を始めたころは、あたしもいろいろ気持ちが揺れてたけど…あなたの家庭教師をやってた頃には、既に五代さんに決めていたんじゃないかしら」
 「でもね、あたしのこころの中に、生きているひとびとが入ってくるとき、あたしは、あたしの惣一郎さんをこころの奥底へ沈めちゃうんじゃないかって本気で思ってたの」
 「綺麗事(きれいごと)じゃなくて、それが本当に怖かったのよ」
 「だからあなたみたいに、まだひとりのひとしか好きになっていないのが羨ましかったの」
 「本当に…」
響子はそう言うと、静かに目を閉じた。脳裏の惣一郎を懐かしむかのように。その横顔は泰然として気高く、気品に満ちていた。八神は漸く納得したようだった。
 「では改めてお伺いしますが、私が五代先生と出会った頃は既に遅かったんですね?」
 「あのとき、あたしは随分混乱してたけど、大筋であなたが言っていることは正しいと思うわ」
響子のことばを聞いて、五代は内心、欣喜雀躍していた。初めて響子と迎えた夜明けのキスで、響子は初めて五代に愛の告白をした。しかしいつから五代を好きになったのかについては、響子は最後まで明かさなかったのだ。五代は改めて暗く長かった独身時代を振り返っていた。
 《そうか。あのとき、既に俺のことが好きだったんだ》
そう思うと照れずにはいられない五代だった。そんな五代の様子を、八神は抜け目なく観察していた。八神の目は遠くを見るように穏やかだった。
 「そうでしたか…」
 「私のひとり相撲だったってことね」
次の瞬間、八神の目から大粒の涙がこぼれ落ち、膝を濡らした。
 「八神さん…」
響子はどうしていいか分からなかった。とにかく必死に八神をなだめようとした。しかし八神は気丈だった。涙を流しながら響子の方を向くと、満面の笑顔を作って見せた。
 「管理人さん。今日はお話できて本当によかったです」
 「八神…」
五代も八神を心配しているようだった。
 「五代先生、いいんです。私、このことを確かめたくって…」
 「真田さんとはいずれ結婚することになると思います」
 『……』
 「そのときは盛大にお祝いして下さいね☆」
 「あ、あぁ…」
 「それじゃ、さよなら」
八神はふたりに微笑み掛けると、逃げ出すように管理人室を出て行った。残された響子が呟いた。
 「…五代さん。あたし、これでよかったんですよね?」
 「あぁ。本人も自分のこころが整理できたみたいだし、響子が悩むことではないよ」
 「そう…だといいけれど」
五代は大人しくしていた春香の頭を撫でた。
 「春香、いい子にしてて偉かったね」
 「うん♪」
 「それじゃぁ、あなた。今日はこの辺で休みましょうか」
響子は肩の荷が降りたように、いつもの響子の表情に戻っていた。
 「そうだな。今日はもう寝よう」
鼓(つづみ)星オリオンが南の空に炯炯(けいけい)と瞬いていた。明日も冷え込みが厳しくなりそうだった。一刻館の灯りが落とされた。



六 特別応接室

三友商事の役員室に八神氏はいた。来週開かれる役員会議の資料を作成するため、管掌する本部長と打ち合わせを行っていたのだ。役員室は完全な個室なのだが、八神氏は、社内の風通しをよくするためと言って、いつもドアは開放していた。そこへ秘書の女性が入って来た。
 コンコン…。
 「失礼いたします」
 「ん?どうした」
 「はい。常務宛に業務部の真田さんという方からお電話なのですが、お繋ぎしても宜しいでしょうか?」
 「業務部の真田?…今は梶本くんと打ち合わせ中だ。後にしてもらってくれないか」
 「畏まりました」
真田の名前を聞いてから、八神氏の態度が急に落ち着きを失った。本部長の梶本は、八神氏の変化にいち早く気づいた。
 「では、常務。この件は私にお任せください。進捗状況は、夕方にでもご報告しますので」
 「ん、そうか。悪いね。宜しくお願いするよ」
 「はい。では…失礼します」
梶本が部屋を後にするや否や、八神氏は秘書を呼んだ。
 「杉崎くん。先ほどの真田とかいう男の番号は?」
秘書の杉崎は少し驚いたが、念のためにメモした真田の内線番号を渡した。八神氏は、いつも開けているドアを閉めながら、杉崎に言った。
 「私がいいと言うまで、部屋に入ってこないでもらいたいんだが」
杉崎は心得たという表情で慇懃に頭を下げた。八神氏はなにやら神妙な面持ちで真田に電話をかけた。
昼過ぎ。真田は常務室に呼び出された。杉崎がふたりに茶を出そうと給湯室に向かおうとすると、八神氏は慌てて制止した。
 「杉崎くん。ちょっと社外で打ち合わせがあるから、お茶は結構だ。悪いな。1時間ほどで戻る」
杉崎が不思議そうに見ている中、八神氏と真田は連れ立って社外へ出て行った。
 「いらっしゃいませ」
ふたりは、八神氏が馴染みの喫茶店に落ち着いた。八神氏は、テーブルに着くなりコーヒーを2つ注文した。
 「で、君の言うことは本当なのかね」
 「はい。いぶきさんは、いま一刻館に住んでいて、五代さんが勤めるしいの実保育園で働いています」
 「まったく。いぶきは一体なにを考えておるのだ。よりによって、あんな男が働いている保育園なんぞに」
八神氏は、胸の内ポケットから煙草を取り出し、落ち着きなく吹かし始めた。真田はその様子をじっと凝視していた。
 「あんな男って。常務は五代さんをご存知なんですか?」
 「あぁ。勿論だ。いぶきは昔、あいつに誑(たぶら)かされてな。ホントにいい迷惑だったよ」
 「誑かす?あの五代さんがですか?僕にはそんなひとには見えないんですが」
 「見えないだと?君も家内と同じ事を言うな。みんなそうだ。みんなしてわしに逆らいおって」
八神氏は煙草を思い切り吸い込み、吸殻を手荒に押し潰した。真田は表情を変えずに言った。
 「”みんな”って祭田一族のことですか?」
八神氏の手が止まった。
 「常務。いや、敢えて”お父さん”と呼ばせていただきます。今日は大事な話があってお呼び立てしたんです」
 「お父さんだと?」
八神氏は顔全体で不快感を露わにした。真田は八神氏に構わず、間髪入れずに喋り続けた。
 「いぶきさんとの結婚を許していただきたいのです」
 「何だと!駄目だ駄目だ。いぶきはそんじょそこらの奴には遣れんぞ」
 「お父さん。僕は本気です。いぶきさんを幸せにします」
 「いーや。信用できんな。君には、今までいぶきの情報を寄せてくれたことに対して感謝はするが、結婚となると話は別だ」
 「そんなこと言わないで下さい。僕はいぶきさんを愛しているんです」
 「愛してるだと?抜け抜けと言いくさってからに」
 「お待たせいたしました」
ふたりが白熱しているところへウェイトレスがコーヒーを運んできた。コーヒーカップを置いている間、真田は八神氏の目を正面から見据えていた。八神氏は、真田の顔とコーヒーカップを見比べるように交互に見ていた。ウェイトレスが去ると、八神氏はまくし立てた。
 「大体だな。いぶきのことを愛してるとか幸せにするとか抜かす奴は、何か裏がある」
 「どうしてそんなことを。僕は清廉潔白です。裏も表もありません」
 「嘘をつけ。人間、誰だって表や裏がある。わしにはそれが分かるんだ」
 「じゃぁ、訊きます。僕にどういう裏があるんですか?」
 「う…それは…」
 「言ってみてください、お父さん。僕は祭田専務と違って何も疚しいことはありませんから」
八神氏は水を口に含んでから身を乗り出した。
 「なんで専務のことを、君は知っているんだね?」
真田はコーヒーを啜り、一息ついた。
 「お父さんは、いぶきさんが今どういう状況に陥っているのか、ご存知ないのですか?」
 「なんでそこにいぶきが出てくるんだ?専務といぶきは無関係だろうが」
 「甘い!甘いですよ、お父さん」
 「なんだと!」
八神氏は激昂するかと思ったが、拳を握り締めたまま動かなくなった。勝機を見た真田は、八神氏に畳み掛けた。
 「お父さんは今、祭田専務のことで大変こころを痛めています。しかしいぶきさんは、それ以上に苦しんでいるんです。それもお父さんの所為で。お父さんはそれをご存知ではないのですか?」
 「……」
 「僕は、いぶきさんから相談を受けました。いぶきさんは今、業務部内のみならず、社内の至る所でいじめに遭っているんです。他部署の人間はもとより、部長やそれに同期からも毎日のように蔑まれているんです。分かりますか?これがどういうことか」
 「あの土井くんが…なんでいぶきをいじめるんだ?可愛い部下の筈だろうに。それがどうしてそんな…」
 「僕は聞いてしまったんですよ。土井部長と祭田専務が近くの定食屋で話しているのを」
 「何だ?何と言ってたんだ?」
 「土井部長は祭田専務の大学の後輩らしいですね。会社ではそんなに知られていませんが、結構仲がいいみたいですよ。で、僕は聞いたのは、祭田専務が如何にお父さんを目の仇にしていたかということです」
 「なに!専務はそんなことを土井くんに?」
 「そうです。土井部長は付和雷同に聞いていましたよ。そして祭田専務が最後に一言。”君の部下の八神さんは彼の娘なんだ”ってね」
 「!」
真田はそこまで言って、またコーヒーを口に運んだ。八神氏は驚きのあまり、2本目の煙草を持ったまま火を点けずにいた。
 「どうです?事態はお父さんが考えているより深刻なんです。想像していましたか?いぶきさんは、お父さんの派閥争いの犠牲になっているんですよ。彼女がどんなにこころを痛めているか、お分かりになりますか?」
八神氏はすっかり肩を落としていた。
 「君は、今までいぶきのことについていろいろ報せてくれた。あいつがわしに黙って会社をサボっていたことも教えてくれたし、休みの日にはいぶきに電話もしてくれてたみたいだな」
 「……」
 「今回だってそうだ。いぶきがぷいっと家を出たきり帰ってこなくなった。わしは心配してもどうする術もなかったのに、君はちゃんといぶきの居場所を突き止め、わしに教えてくれた。何故なんだ?なぜ君はそんなにいぶきのことを知っているんだ?」
 「それは…」
真田は言いかけてから思い直した。
 「それは、お父さんがいぶきさんのことを誰よりも大事にしていることが分かるからです」
 「……」
 「僕は、いぶきさんに幸せになってもらいたい。そのためには、いぶきさんを誰よりも大事にしてくれているお父さんに、いぶきさんの苦しみを知って欲しかったんです」
 「わしに…」
 「いぶきさんと話をしていれば分かります。いぶきさんは、いつもお父さんのことを気に懸けていました。お父さんが最近会社で何かあったんじゃないかと真剣に考えていたのは、いぶきさんだったんです。だから僕もいぶきさんに相談を持ちかけられたとき、本当の意味での解決は、いぶきさんとお父さんと双方が今置かれている状況を理解し協力することなんだと確信しました」
 「君はそこまでいぶきのことを…」
 「お父さんも今は辛い立場に立たされていると思いますが、それはいぶきさんだって同じこと。そのことを分かっていただきたくて」
八神氏はコーヒーを口に含んだ。
 「君の言いたいことは分かった。わしは君という人間を少々誤解していたようだ」
 「分かっていただけましたか」
 「あぁ」
八神氏は真田から視線を逸らした。しかし思い直したように寂しそうな顔で真田の手を取った。
 「いぶきを頼んだよ」
 「はいっ」
真田は八神氏の手を強く握り返した。八神氏は時計を見た。
 「君は先に社に戻りなさい。わしはもう少しここにいるよ」
 「でも…」
 「いいんだ。君と一緒にいるところを専務方の輩に見られでもしたら、君にも火の粉が降りかかるだろう。これからは社内でも気軽に連絡をしないようにしたまえ」
八神氏はにっこりと微笑んで見せたが、真田には癌の告知を受けた患者のような顔に見えた。真田は席を立つと3歩下がり、八神氏に対して最敬礼をして店を去った。



七 暁に鐘は鳴る

 「ごめんください」
ひとりの男が一刻館に現れた。
 「はーい」
響子が応対すると、男は間髪入れずに尋ねた。
 「こちらに八神さんはいらっしゃいますか?」
 「えぇ。でも今ごろは保育園に行ってるんじゃないかしら」
 「それはしいの実保育園ですか?」
 「そうですけど」
 「分かりました。ありがとうございます」
男はそう言うと、一目散に走っていった。
 《誰だろう?それに、あんな説明でよかったかしら?》
響子は今ひとつ釈然としなかったが、男がしいの実保育園のことを知っていたので、あまり深くは考えなかった。
 《しいの実保育園には五代さんもいるし、別に問題ないわよね》
一方、五代たちは子守りにおおわらわだった。
 「五代くん、そっちの子、おしっこだから!」
 「はいっ」
 「八神さん、おしめの洗たく、お願い!」
 「はいっ」
せわしない時間が過ぎ、昼寝の時間になった。保母たちは疲労の色が隠せなかった。五代も肩を回しては、伸びをしていた。五代と八神が軒先で茶を啜っていると、ひとりの男が入口に立った。
 「八神さんはいらっしゃいますか?」
応対に出た保母が言った。
 「えぇ。八神さんなら奥の部屋に…」
 「失敬」
男は制止する保母を省みず、ずかずかと園舎に入って来た。
 「いぶきちゃん」
 「あ、真田さん…」
 「迎えに来たよ、いぶきちゃん」
 「え?」
八神はうろたえた。
 「だって私、会社に辞表を出さなきゃいけないし、父にも事情を説明しなくちゃしけないし…」
 「それは大丈夫だ。君のお父さんとも既に話は付けてある」
 「え?…父は何て?」
 「いろいろあったけど、とにかく後のことは僕に任せるって」
 「本当?本当に父はそう言ったの?」
 「あぁ。確かに」
八神の表情が見る見る明るくなった。しかし思い出したように顔を背けた。
 「でも駄目よ。私が専業主婦になったら、これからの生活に困るんじゃない?」
 「それは僕が一生懸命働いて稼ぐよ。結婚するまで、そして結婚してからも、いぶきちゃんは僕の部屋にいて欲しい」
八神は真田の顔を見上げた。
 「いぶきちゃん…」
 「真田さん…」
ふたりは手を取って見詰め合っていた。五代は自分の居場所がないこころもちだった。
 「まぁ、何だな。八神も落ちつき先が決まったということで、めでたしめでたしって感じかな?」
八神は五代の方を見て、深々と頭を下げた。それを見て、真田も恭(うやうや)しく頭を下げた。
 「五代先生、今までいろいろとご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
 「い、いや…」
 「これからは真田さんと、人生を伴に歩んで行こうと思います」
 「うん。心配はしていないよ。地道に頑張りなさい」
 『ありがとうございます』
そして冷え込みが厳しい朝。3号室では荷物の運び出しが行われていた。
 「これで最後だな」
引越しセンターの作業員が確認する。
 「おう!」
作業を見守っていた八神に運転手が尋ねた。
 「それで後は、こちらの住所へ運べば宜しいでしょうか?」
 「はい。お願いします」
そこへ何も知らない一の瀬が顔を出した。
 「え!八神さん、引越しちゃうの?」
 「えぇ。短い間でしたけど、皆さんには随分お世話になりまして…」
 「なんだい、残念だねぇ。もう暫く面白い生活が満喫できると思ってたのに」
 「その面白いっていうのは何ですか、面白いっていうのは!」
五代が口をとがらせた。一の瀬は五代の声が聞こえない振りをした。
 「そうかい。引越しちまうのかい…」
 「あの、ご挨拶(あいさつ)には後ほど伺いますから…」
 「いいっていいって」
 「でも私の気が済みません」
 「まぁ、どっちでもいいけど…」
すると響子が管理人室から出て来た。
 「八神さん、もうお引越しの作業、済みました?」
 「はい。管理人さんには、ひとかたならぬご厚意をいただいて…」
一の瀬は訳が分からず、ふたりを見比べてちょっ不服そうだった。
 「ご厚意って何だい?」
八神はやんちゃっぽくごまかした。
 「内緒です☆」
そこへ男が手を振りながら時計坂を走って来た。
 「いぶきちゃん!」
 「あっ!真田さん」
 「管理人さん、誰だい?あの子は」
一の瀬が興味深々で尋ねた。
 「まぁ、一の瀬さんにも、知らないことがあってもいいんじゃないですか?」
響子は淡々とはね退けた。五代も日ごろの恨みを晴らしていた。
 「そうだよな。おばさんが知らないことがあってもいいよな」
一の瀬を除いた四人が楽しそうに微笑んだ。
 「全く、揃いも揃って水臭いじゃないかっ!」
滅多に見られない一の瀬の恨み節だった。真田と八神は五代たちの方に向き直った。
 「あの、五代さん。本当にお世話になりました」
 「いや。あのくらいのことだったら、いつでも相談に来なさい」
響子が八神の腕に手を添えた。
 「八神さん。とにかくお幸せに…」
 「管理人さん。ありがとうございます」
 「何かあったら、またお出でよ。今度はあたしも応援するからさぁ」
 「一の瀬さん。ありがとうございます」
引越しセンターのトラックが轟音(ごうおん)を立てて走り出した。
 「それじゃぁ。僕たち、これで失礼します」
 「またご挨拶に伺いまーす☆」
 「あぁ、達者でな」
ふたりは、何度も振り返り振り返り、時計坂を下って行った。行く手に大きな冬の太陽が昇っていた。
 「前途洋々たり…」
晴れ晴れした顔の五代が呟いた。
 「ホントとに…」
響子が五代により添った。(完)