春香と制服



作 高良福三

序 しいの実保育園

「ごだいせんせい、たかいたかいして〜」
子供たちの声が弾む。
「よーし。そぉら、たかいたかーい」
「きゃはははは」
「せんせい、つぎ、わたしわたし」
「よしよし。みんな順番にね」
しいの実保育園は、今日も子供たちの笑い声で溢れていた。子供たちが目を輝かせながら、次から次へと五代の許にやってくる。沢山の子供たちに囲まれて、五代はとても楽しそうだった。保父という仕事に、やり甲斐としあわせを感じていた。
「五代くんて、やっぱり人気があるのよね」
園舎では、黒木たちが腰を軽く叩きながら、子供たちを見ていた。散らかったおもちゃを片付けている真っ最中だった。
「くろきせんせい!」
腕白な子供たちが、黒木にも纏わりついてきた。
「ほらほら、よい子は、先生のお仕事の邪魔しちゃダメよ」
黒木は、子供たちを振り払うのではなく、かといって相手をする訳でもなく、優しく促すようにあしらった。昼食が済んで、子供たちは元気一杯なのだ。黒木たちはおもちゃの片づけが終わり、ほっと一息入れたいところだった。
「今日は本当にいいお天気ね」
保母のひとりが空を見上げた。陽が少しだけ傾いていた。時計は13時を過ぎていた。
「あら、こんな時間!そろそろお昼寝の準備しなくちゃ」
「五代くーん!」
「はーい。いま行きます」
五代は、にっこりと微笑んで見せては、子供たちをひとりひとり優しく追いやった。
「あぁ、ひでぇひでぇ」
そして子供たちに汚されたトレーナーを手で払いながら、園舎に入って行った。
「わーい!」
外で元気に遊ぶ子供たちをしり目に、五代たちはせわしなくふとんを敷き始めた。子供たちの蒲団は小さくて敷きやすいが、何といっても数が多い。やっとのことで昼寝の準備ができあがり、子供たちを一人ひとり床に着かせていった。子供たちは、蒲団に入ってもなかなか静かにならなかった。蜂の巣を突ついたとは、まさにこういうことをいうのだろう。蒲団の上は、瞬く間に喧騒(けんそう)の渦と化した。
「はいはい。よい子は早く寝ましょうね」
子供たちを寝かせるのも亦、五代たちにとっては、苦労の多い仕事のひとつだった。一人ひとりを床に着かせ直すと、五代たちも横になって、子供たちに話を聞かせた。子守歌を歌う保母もいた。やがて、ひとりまたひとりと、子供たちが眠りに就いていく。静かになってくると、眠れない子供も、仕方なく黙って蒲団に潜り込む。こうしてしいの実保育園に、ようやく静寂が訪れた。誰もいない砂場、誰もいないジャングルジム。子供たちがいなくなった園庭は、今までの喧騒がうそのように静まり返っていた。
子供たちが寝静まると、やっと五代たちの休憩時間になる。保母たちはみな足を投げ出して肩や腰を叩いていた。
「全く嫌んなっちゃうわよねぇ、この仕事。疲れるし、給料は安いし」
「ほーんと!」
「あぁ、早く寿退社したーい」
「あら、あんたいるのー?」
「失礼ね!」
そんな中、保母のひとりが五代に茶を勧めてくれた。
「どうも」
五代は湯のみを持ったまま軒先に出ると、腰を下ろして空を見上げた。空はどこまでも澄んでいて碧(あお)かった。
「空が高いな…」
五代はそうひとりごちて茶をすすった。キーンという音とともに、白い飛行機雲が高く長く続いていた。園庭の柵(さく)には、おしろい花が涼やかに揺れていた。暑い日々も、どうやら峠を越したようだ。まだ赤くないとんぼが、五代の目の前を横切って行った。五代の目が遠くなった。
「春香、今ごろ何してるのかな」
五代は一刻館に想いを馳(は)せた。



一 一刻館の昼下がり

一刻館でも、響子が春香を寝かせつけていた。あれから二年。春香はすっかり歯が生え揃い、もうひとりで歩けるようになった。ことばも随分と達者になり、色々なことを喋っては、五代と響子を一喜一憂させていた。最近では、自己主張もできるようになった。
「いやっ、いや!」
昼寝をさせようとする響子に、春香ははげしく抵抗していた。
「ダメよ、春香。いま寝ないと、後ですぐグズるんだから」
「さぁ、いい子だから、ママと一緒に寝ましょうね」
「いや!わんわん。わんわん、あそぶー」
春香は惣一郎と遊びたがっているようだ。
「だーめ!惣一郎さんもお昼寝の時間ですよ」
「わんわん!」
春香はなかなか手強かった。頑として、響子のことばに耳を貸そうとはしなかった。
「もうっ!ダメったらダメです!」
響子も負けてはいなかった。
「わんわん!」
ふたりの押し問答が暫く続いた。春香の性格は、どうやら母親似のようだ。そうこうしている間に、時間だけがいたずらに過ぎていった。このままでは昼寝の時間を逸してしまう。そう思った響子は、ついに根負けし、後で惣一郎と遊ばせることを条件に、春香を寝かせることにした。春香は満足したらしく、大人しく横になり、目をつむった。
「世話が焼けるわねぇ。全く誰に似たのかしら?」
響子はほっとため息をつくと、優しく春香の寝顔を見詰めた。興奮したせいか、春香は、おでこに薄っすらと汗をにじませていた。響子は、タオルケットの端でていねいに汗をふき、そっと春香の腹に掛けてやった。
軒先から陽射しがこぼれていた。見上げれば、空はどこまでも澄んでいて碧(あお)かった。ひつじ雲がいくつも並んで穏やかに流れている。やわらかな光がふたりを包んだ。響子は、今日もしあわせをかみしめていた。
「うーん、いいお天気!」
響子は軽くあくびをすると、春香の隣に身体を横たえた。春香は、小さな寝息を立てながら、健やかに眠っていた。響子は優しく微笑むと、いつもの子守歌を口ずさんだ。懐かしい響きが辺りに流れた。ときおり管理人室にあたたかい風が入ってくる。その度にレースのカーテンが管理人室に大きく吹き込んてきた。
 ちりーん、ちりーん…。
しまい忘れた南部風鈴が鳴った。物干し台の下では、二羽のせきれいが、チョンチョンと長い尾で地面を叩いては、楽しそうに何かをついばんでいた。長閑な昼下がりの風景だった。やがて子守歌が途切れ途切れになってくる。時は静かに流れていった。

-*- -*- -*-

「ママ、ママ」
春香が目を覚ました。響子はぐっすり眠っていた。いくら声をかけても、起きる様子がなかった。春香は、初め響子の顔を興味深そうに見詰めていたが、やがて響子の身体をあちこち揺すり始めた。
「ママ、ママ!」
それでも響子は起きる気配がなかった。完全に熟睡しているようだった。しびれを切らした春香は、駄々を捏ねるように響子の頬(ほお)をはたいた。
「ママ、起っき。起っき!」
「うーん…」
春香の気持ちとは裏腹に、響子はただ寝返りを打つだけだった。育児と管理人の仕事で、疲れが溜まっているようだ。最近、春香がひとりで歩くようになってからは、育児にもいろいろと苦労が絶えない。しかし管理人の仕事は、従来どおり変わりがない。動くことが好きな響子にとっては、疲れるのも無理はなかった。
ついに春香は、響子を起こすことをあきらめた。
 ちりーん、ちりーん…。
窓からレースのカーテンが吹き込んできた。初め管理人室の中をうろうろしていた春香は、窓辺に立って外を眺めた。物干し台には、大きなシーツや五代と響子の洗たく物に並んで、春香の小さなよだれ掛けが風に揺れていた。せきれいの姿はもうなかった。春香は暫く洗たく物の動きを目で追っていたが、気がついたように踵(きびす)を返し、再び響子のもとに向かおうとした。
 ちりーん、ちりーん…。
突然レースのカーテンが、ふわぁっと春香の顔をなでた。やわらかい陽射しに、カーテンがキラキラと輝いていた。見たこともない光景に、春香は目をみはった。
「ふわふわ、ふわふわ」
春香がカーテンをつかもうとすると、カーテンは逃げるかのように、春香の手をすり抜けた。春香は躍起になって、またカーテンを掴もうとする。カーテンが逃げる。そうしているうちに、春香は窓から外へ出て行ってしまった。



二 消えた春香

「あら嫌だ。あたし、寝ちゃったんだわ」
響子がはたと我に返った。陽はまだ高かった。
「ふーっ」
響子はほっとして視線を春香に移した。
「春香…?」
響子の傍(かたわ)らには、無造作に寄せられたタオルケットがあるだけだった。響子は血相を変えた。
「春香!」
部屋の中に春香の姿は見えない。押入れの中にもいない。ドアが半開きだ。春香はドアから出て行ったに違いない。響子は慌てて廊下へ走り出した。ピンク電話の角で立ち止まる。一階の廊下には誰もいない。二階か?いや、春香に階段はまだ無理だろう。
《じゃぁどこに?》
《惣一郎さん…そうだ!》 春香は惣一郎さんと遊びたがっていた。そう思い出すと、響子は一目散に玄関を出た。
「惣一郎さん!」
「ばう!ばうばう!」
惣一郎の周りに春香はいなかった。犬小屋の中にも。響子は失意のため息をつき、うなだれて惣一郎の傍(かたわ)らにしゃがんだ。惣一郎は響子の姿を見て、嬉しそうにしっぽを振っていた。響子は、寂しく惣一郎の毛をなでながら、つぶやいた。
「惣一郎さん、春香を見なかった?」
「ばふ〜ん?」
惣一郎は、響子がえさをくれないと分かると、残念そうに犬小屋の中に引っ込んでしまった。
「ふーっ」
響子は仕方なく立ち上がった。やはりここもダメか。一体、春香はどこへ行ったのだろう?とつぜん響子のこころに一抹の不安がよぎった。
《まさか一刻館の外へ?》
いや、そんなことはないだろう。その前に一刻館の敷地内を捜すことが先決だ。そう自分に言い聞かせると、響子は、庭を隅々まで捜し歩いた。犬小屋の裏、塀の周り、植栽の陰。また建物の裏の方へも回ってみた。そして管理人室まで来たところで、響子は、ついに春香の痕跡を見つけた。揃えて脱いだはずの響子の突っかけが、踏み散らかされていたのだ。
《春香はここから外へ?》
響子は急いで辺りをくまなく調べた。しかしそれ以上、春香の痕跡を見つけることはできなかった。響子の不安は確信へと変わった。
《やっぱり一刻館の外へ!》
響子は一心不乱に表に向かって走った。春香の足では、まだそう遠くには行けないはずだ。きっと追いつける。響子は塀(へい)に乗り出すと、辺りを見回しながら叫んだ。
「春香ーっ!春香ーっ!」
すると玄関の扉が突然開いた。響子はびっくりして振り向いた。
「何だい、何だい、さっきから。全く騒がしいねぇ」
「これじゃぁ、おちおち寝れりゃしないよ」
一の瀬がぼりぼりと頭をかきながら、一刻館から出てきた。酔いがまだ残っているのか、頬(ほお)が少し赤かった。持っている一升びんも、半分空になっていた。響子はゆがんだ笑顔を作った。
「あ、一の瀬さんでしたか。あの、春香、見ませんでしたか?」
「え?春香ちゃん?春香ちゃんがどうかしたの?」
響子はきまり悪そうにうつむいた。
「え、えぇ…。さっきまで一緒に寝てたんですけど、ちょっといなくなっちゃって…」
「いなくなった?」
「管理人室にはいないのかい?だってまだひとり歩き、始めたばっかじゃないか」
「それが…」
響子はためらうように口をつぐんだ。
「それが?」
一の瀬がたたみかけた。
「それが、あの…」
一の瀬が響子を厳しい目でにらんだ。
「じゃぁ、春香ちゃんがいなくなったっていうのかい」
響子はすっかり観念してしまった。
「困りましたわ。どうしましょう、どうしましょう」
一の瀬は額に手を当てて、髪をかき上げた。
「う〜ん、困ったって言ってもね。いなくなっちゃったものは、しょうがないし」
響子は切ない目で一の瀬を見た。
「でもきっとすぐ見つかるよ、管理人さん。あたしが一緒に捜してやるからさ」
「済みません。お願いします」
早速、ふたりで春香を捜すことになった。響子は、春香がいなくなったときの様子や、今までの状況について、つぶさに一の瀬に説明した。
「じゃぁ、春香ちゃんは、外へ出て行っちゃったってことかい?」
「えぇ。恐らくそうだと思うんです」
「分かった。じゃぁ、あたしは念のため一階を捜すから、あんた、その間に外の方、見ておいでよ」
「ありがとうございます」
「ばう?」
惣一郎が何かに気がついて屋根を見上げた。ふたりも連られて振り返った。
 ちゅんちゅん、ちゅんちゅん…。
入母屋(いりもや)造りの屋根の上では、二羽のすずめが楽しそうに遊んでいた。響子は、その姿に自分と春香を重ね合わせ、つい見入ってしまった。一の瀬はそんな響子を黙って見守っていた。昼下がりの一刻館は、不気味なほど静まり返っていた。



三 時計坂捜査網

「じゃぁ、一の瀬さん。よろしくお願いします!」
「あぁ、行っといで」
響子が意気込んで出て行った。一の瀬は腰に手を回しながら、悠長に一刻館に入って行った。
「管理人さん、ああ見えても、意外とそそっかしいとこあるからねぇ」
「まぁ、まさかとは思うけど…」
一の瀬は先ず管理人室の捜索から始めた。管理人室には、確かに誰もいなかった。一の瀬は大声を張り上げた。
「春香ちゃーんっ」
もちろん返事はなかった。一の瀬は念のため管理人室をあらためることにした。流し台の下、ちゃぶ台の下、押入れの中、縁側の下、洗たく機の裏、物干し台の周り。しかし春香の姿はどこにも見当たらなかった。
「やっぱいないか。一応うちの部屋も見てみるかねぇ」
一の瀬は管理人室を出て1号室へ向かった。廊下を歩く度に、ギシッギシッと床を踏みしめる音がした。一の瀬はピンク電話の角で立ち止まると、廊下を見渡してひとりごちた。
「管理人さんには悪いけど、こりゃ容易じゃないよ」
「やれやれ」
一の瀬は1号室に入って行った。
一方、響子は時計坂の街を走っていた。
「春香ーっ」
気持ちばかりがはやってどうしようもなかった。走りながら注意深く辺りを見る。短く影を落とした電柱の陰、よそ様の玄関先、細い袋小路、いつも一緒に行く公園。しかし昼下がりの時計坂は、意外と閑散として寂しかった。響子はますます不安にかられた。次の角を曲がれば茶々丸だ。響子は歩を緩めて立ち止まると、ひざに手を突き息を整えていた。すると突然ドアの開く音がした。
「れれー、管理人さんじゃない。どうしたの?こんなとこで」
「あ、朱美さん…」
響子は苦しそうに息を切らしていた。
「おっひさー!相変わらず、元気そうね」
朱美はエプロン姿で、ステンレスのお盆を持っていた。からかうような口調が、何となくうれしそうだった。
響子はそんな朱美に構わず、唐突に尋ねた。
「朱美さん、春香、見ませんでしたか?」
「え?春香ちゃん?」
朱美は怪訝そうな顔をした。
「どうしたの?管理人さん。いきなりなに言い出すかと思ったら」
「春香がここを通りませんでしたか?」
「あたしは見てないわよ」
「ねぇ、マスター?」
すると奥から茶々丸のマスターも顔を出してきた。
「おや、響子さん。久し振りだね」
「ご機嫌いかが?」
響子は茶々丸のマスターに詰め寄った。
「マスター、春香を見かけませんでしたか?」
「え?春香ちゃん?見なかったなぁ」
「それどころか、ひとっこひとり通らなかったよ」
「そうそう。今日は開店休業状態だしね」
「そうですか…」
朱美と茶々丸のマスターは、訳が分からず、顔を見合わせて肩をすくめた。
「ありがとうございました!」
響子はいきなり走り出した。
「あっ、ちょっと!どうしたのよ?管理人さーん!」
朱美たちの心配をよそに、響子は走り去ってしまった。響子は街中を走り回った。しかし春香が見つからないまま、時間だけが無情に過ぎ去っていった。
「春香、一体どこに行ったのよ。みんなに心配かけて」
「春香…」
響子はただただ祈る思いだった。
肩を落とした響子が一刻館に現れたのは、16時過ぎだった。
「ばう!ばうばう!」
惣一郎が何かを主張するように、響子にまとわりついた。響子は惣一郎に振り返ることもなく、とぼとぼと玄関に向かった。惣一郎はあきらめて犬小屋に戻って行った。惣一郎の声を聞きつけた一の瀬が、急いで玄関を出て響子を迎えた。
「お帰り。どうだった?」
響子はまゆをひそめて首を横に振った。
「そうかい…」
一の瀬は気の毒そうな顔で響子に報告した。
「2号室も3号室も捜してみたけど、春香ちゃん、一階にはいなかったよ」
「あ、あとトイレもね」
「そうですか…」
ふたりは互いを見て黙り込むと、大きなため息をついた。響子はすがるように惣一郎の方を見やった。惣一郎は、詰まらなそうな様子で、犬小屋にたたずんでいた。響子は無言のまま惣一郎の傍(かたわ)らにしゃがみ、思い詰めた表情で惣一郎の頭をなで始めた。
「ばう?」
惣一郎はそんな響子を不思議そうに見ていた。
「管理人さん…」
一の瀬は何か言いたげだったが、それ以上、何も言わなかった。
 ちりーん、ちりーん…。
建物の裏から南部風鈴の音が聞こえてきた。庭の植栽の枝々がはげしく音を立てて揺れた。流れる雲の影が、ときおりふたりの頭上をかすめる。一の瀬は、詰まらなそうにタバコを吹かし始めた。タバコの灰が徐々に長くなっていく。惣一郎の頭をなでる響子の手が止まった。瞳がみるみる曇ってきた。
「春香…」
一の瀬は、思わずくわえていたタバコを落としそうになった。
「そんな管理人さん、泣くことないじゃないか。まだ捜し始めたばかりだし」
「……」
「春香ちゃん、きっと見つかるよ。どうせ遠くには行けないんだからさ。安心しな」
「だって春香が。春香が…」
響子は頭(かぶり)を振ると、両手で顔をおおい、完全にうずくまってしまった。小さな肩が小刻みに戦(ふる)えていた。
「五代さんに、何て言えばいいのかしら…」
「だって、しょうがないじゃないか」
一の瀬は切ない表情で頭をかいた。壊れた時計台の下で、ふたりは呆然と立ち尽くした。一刻館の前にふたつの小さな影が並んでいた。



四 明るい5号室

響子たちが捜し回っているころ、春香は5号室でぐっすりと眠っていた。つかまり立ちの要領で、階段を二階まで上ってきたのだ。五代のいなくなった5号室は、今では、五代たちのタンス部屋になっていた。四谷の開けた穴は、真っ先に響子のタンスで塞がれた。隣には、五代のタンスも置かれている。5号室は亦、五代たちの着がえ部屋にもなっていた。春香は響子に連れられて、何度も5号室に来たことがある。いつもは、響子に手をひかれて階段を上がるのだが、今日は初めてひとりで階段を上ってくることができた。そのため春香には、一種の達成感のようなものがあった。5号室は風通しがいいように、雨の日や夜以外、窓もドアも開け放たれていた。これも響子の日課だった。燦々(さんさん)と陽射しが降り注ぐ5号室は、ふたりのタンスに囲まれて、ちょうど心地よい広さの空間になっていた。
「あぁーあ」
響子たちの心配をよそに、春香は全くのんきなものだった。大きな伸びをすると、おもむろに上体を起こして、小さな目を気だるくこすった。まだ少し寝ぼけているようだった。暫くそのままの状態で微睡(まどろ)んだ後、ゆっくりと辺りを見回し、再び大きな伸びをして寝転んだ。天井の木目が複雑な模様に見えた。春香は5号室が大好きだった。それは、パパとママの匂(にお)いがするからだ。ママとお出かけするとき、パパとお風呂に行くとき、春香は必ず5号室に連れてこられて、ふたりが仕度する様子を見ていた。だから5号室にいると、パパとママと一緒にいるようで、やはり安心するのだ。春香はうつ伏せになってあごにひじを突くと、泥だらけの足をバタバタさせながら、窓の外を見ていた。碧(あお)い空が遠くまで広がっていた。突然、春香の瞳に何か動くものが映った。
「ひこうき、ひこうき」
春香は、窓から見える空に向かって、一生懸命、手を伸ばした。飛行機は轟音(ごうおん)とともに、春香の手の届かないところに行ってしまった。
「ひこうき、いっちゃった」
春香は何ともやるせない声を出した。
「そうだ!」
春香は思い出したように立ち上がり、普段は自由に歩けない5号室の探検に乗り出すことにした。春香が最初に目を付けたのは、響子のタンスだった。春香は、見よう見まねで、タンスの一番下の引き出しを開けようとした。しかし両側の取っ手に手が届かなかった。
「うーんっ!」
春香は思いっきり腕を伸ばしてみたが、やはり取っ手に両手が届かない。結局、開けることはできなかった。
「ありゃー、こまったー」
春香はそう言って響子のタンスを簡単にあきらめると、次に五代のタンスに目を付けた。
「よいちょ、よいちょ」
五代のタンスは取っ手がひとつだけだったので、何とかなりそうだった。春香は小さな両手を引き出しの取っ手にさし込み、全身全霊の力を込めて引っ張った。引き出しはかなり重たかった。ちょっとは開いたものの、すき間には手しか入らなかった。
「なーにかな?なーにかな?」
初めは興味津々でのぞき込んでいたが、暗くて中身がよく見えない。結局、こちらもあきらめてしまった。
「ぶーっ!」
春香はふてくされて、その場に寝転んだ。
 ちりーん、ちりーん…。
階下(した)から南部風鈴の音が聞こえてきた。5号室を吹き抜ける風に、春香の前髪がサラサラと流れた。春香は窓の外を見た。白い飛行機雲が長く伸びていた。
「くも!くもだー」
春香の機嫌はすっかり直ってしまった。そして春香のひとり遊びが始まった。
「どんぐりさーんっ♪」
春香は腕を伸ばし、ごろごろと辺りを転がった。目の前がぐるぐる回って面白かった。
「あぶなーい!」
春香はタンスにぶつかりそうになる度に、声を上げてはしゃいだ。春香にとっては、こんなことでも遊びになるのだ。ごろごろ、ごろごろ。春香は暫くあちこちを転がっていた。
「いたっ!」
そうしているうちに、春香は押入れに体当たりしてしまった。春香はぶつけたひじをさすりながら、ゆっくりと起き上がった。目の前には、押入れの襖(ふすま)がそびえていた。春香はしげしげと押入れに見入った。普段は滅多に開けない押入れ。春香は押入れの中を見たことがなかった。中はどうなっているのだろう?押入れは建て付けが悪く、少しだけすき間が開いていた。
「うーん?」
春香はのぞいたが、中は真っ暗だった。
「ひゃー!」
春香はしりもちをついて後退りした。改めて見ると、押入れの襖(ふすま)はとても大きく見えた。何となく怖いもののような気がした。春香は厳しい表情で押入れを遠巻きに見ていたが、意を決したかのように毅然(きぜん)として押入れに近づき、襖をそうっと開けてみた。中は意外と整然としていた。以前とは異なり、響子の管理が行き届いているようだ。するとちょうどいい高さのところに、プラスチック製の衣装ケースが置いてあるのが目に留まった。春香は用心深く衣装ケースに手を伸ばし、衣装ケースのふたをちょっとだけ持ち上げてみた。かすかに樟脳(しょうのう)の香がした。
「わぁー♪」
春香は、ふたが簡単に開いたのがうれしかった。衣装ケースのふたを押入れの外に投げ出し、あれこれと中身をあさり始めた。中の服はみなクリーニングの透明な袋に入っていて、持とうとするとつるつると滑った。
「ありゃー、こまったー」
春香は袋に入った服をかき回しながらぼやいた。すると奥の方に、袋に入っていない服がしまってあった。それは、響子の高校時代の制服だった。響子は、惣一郎との思い出の服を、今でも大切にしまっていたようだ。以前、乱痴気騒ぎのときに袖(そで)を通したままらしかった。春香は、響子の制服を衣装ケースから引っ張り出すと、構わずにブンブンと振り回した。
「あっ」
手がそれて、制服が春香にのしかかってきた。
「んーっ、んーっ」
悲鳴ともつかないうめき声を上げながら、春香は制服の下から脱出した。制服は、ほのかにママの匂いがした。春香は制服の上に突っ伏して、胸一杯に息を吸い込んだ。
「ママ…」
春香は目を閉じて静かにささやいた。
 チッチッチッチッ…。
タンスの上では、五代の目覚まし時計の音が、精確に時を刻んでいた。



五 四谷氏の帰宅

響子と一の瀬は、壊れた時計台の下で考えあぐねていた。
春香は一体どこに行ったのだろう?
そこへ、ダークグレイのトレンチコートに、帽子をまぶかにかぶった男が現れた。男は帽子を取ると、慇懃(いんぎん)にあいさつした。
「管理人さん、ただいま帰りました」
響子は喜んで声の主に振り向いたが、一瞬にして表情の色を失った。
「お、お帰りなさい」
「おや、四谷さん。珍しいねぇ。今日は仕事だったのかい?」
四谷は一の瀬に対抗するように舌を出した。
「なんだい、そりゃ?」
「ひ・み・つ」
「全く。仕事、何やってんだろうねぇ」
一の瀬は不機嫌そうに言い捨てた。ふたりのやりとりを聞きながら、響子は四谷に背を向け、不安気にこめかみに手を当てて考え込んでいた。四谷は響子の様子に気づき、背後からのぞき込むように尋ねた。
「管理人さん、どうかしましたか?」
「いえ…」
響子は、やわらかい表情とは裏腹に、不快感をあらわにした。それと同時に、自分のこころを見すかされたようで、少し恐怖感を覚えた。響子は、春香のことを四谷に話そうかどうか迷っていた。一の瀬が促すように響子を見ていた。響子は、うつむきながら、思い切って口を開いた。
「あの…」
「はい?」
「四谷さんは…」
「あの、四谷さんは、何も知りませんわよね?どうせ…」
「私が管理人さんの何を知っているというのでしょうか?」
「いえ、別にいいんです」
「は、左様ですか。では」
四谷は帽子をかぶり直すと、あっさりと一刻館へ入って行ってしまった。一の瀬がたしなめるように響子を見た。
「やっぱり四谷さんにも、言っといた方がよかったんじゃないかねぇ?」
「でも…」
そう言って、響子は一の瀬からゆっくりと目をそらした。明らかに、四谷に対する訝(いぶか)しさをぬぐいきれない様子だった。
一方、四谷は神妙な面持ちで階段を上っていた。
《最近、五代くんは冷たい!》
《宴会をしようにも、お帰りが遅いので、なかなか宴会ができないではありませんか》
《一体五代くんは、毎晩何を致しておるのでしょう?》
その五代は、秋の運動会に向けて、準備に追われていたのだった。五代が勤めているのは保育園なので、親が引き取りに来る時間帯が遅い。子供たちが全員引き取られるまでは、だれかが子供たちの相手をしなければならない。運動会の打ち合わせは、それが終わってから開かれる。五代の帰りが遅いため、最近では、家族三人そろって食事をとることも少なくなっていた。宴会は、五代が帰って来てから専ら管理人室で行われる。5号室がタンス部屋になる前は、春香のことを考えて、宴会は5号室で行われていた。一方、管理人室は、響子の部屋という印象が強いため、管理人室で宴会をすると、徹夜騒ぎになることはなかった。そこで管理人室を宴会部屋として開放し、代わりに5号室をタンス部屋にしたという経緯があった。管理人室で宴会が行われるときは、春香は5号室に寝かされていた。その意味でも、5号室は春香にとって特別な部屋だったのだ。
「ごだーいくん、お留守ですか?」
四谷は5号室の前に差しかかると、誰もいない5号室にそっとささやきかけてみた。当然返事はなかった。
「永遠のおもちゃ、五代くんがいないと、やはり寂しい」
そうひとりごちながら、四谷は改めて5号室を眺めた。すると半開きになったドアから、響子の制服が看て取れた。
「やや。これは、管理人さんの女子高時代の制服ではありませんか!」
「何でこのようなものが転がっておるのでしょう?」
四谷は訝(いぶか)しがりながらも、5号室に吸い込まれていった。
5号室では、春香がまだ響子の制服の上に突っ伏していた。四谷は、5号室に春香がひとりでいるのを見て、意外に思った。しかし何事もなかったように、春香の前で四つんばいになって見せると、優しく呼びかけた。
「春香ちゅわーん」
春香は四谷に気づき、起き上がった。
「あ、よちゃーしゃん」
四谷は飽くまでも慇懃(いんぎん)だった。
「よちゃーではありません。よつやです。ちゃんと覚えて下さいね」
「あい!」
「それにしてもどうしたのです?春香ちゃん。管理人さんの制服なんか引っ張り出して」
四谷のことばを聞くと、春香は、突然思い出したように四谷の袖(そで)をつかんでうつむいた。四谷は試しに袖を軽く振ってみたが、春香は決して袖を離さなかった。
「おやおや…」
四谷は観念して、暫く春香をそのままにさせておくことにした。
陽は既に大きく傾き、5号室は少し暗くなってきていた。ときおりカァカァというからすのなく声が、風に乗って聞こえてきた。
 ちりーん、ちりーん…。
階下(した)で風鈴の音がした。廊下の戸がカタカタと鳴った。春香は暫く四谷の袖(そで)を握りしめていたが、思い切ったように顔を上げた。つぶらな瞳は涙であふれていた。四谷は少し驚いた。
「ママ…。ママ、どこ?」
四谷は一瞬理解に苦しんだが、取り敢えず、春香をなだめることにした。
「管理人さんを捜しているのですか?」
「よろしい。私が連れてって差し上げましょう」
そしてさり気なく付け加えた。
「それから、代わりに後で、パパにおごってもらいましょ」
四谷は春香を抱き上げると、5号室を出て玄関に向かった。四谷の胸に抱かれながら、春香のこころは、ずっと不安で一杯だった。四谷は、階段を一段一段、確かめるように降りていった。春香はこらえ切れなくなって、べそをかき出した。
「ママ…。ママ…」
「大丈夫です、春香ちゃん。管理人さんはもうすぐですよ」
ふたりが一階の廊下に差しかかると、腹を空かした惣一郎がふたりに気づいた。
「ばう、ばうばう!」
四谷は惣一郎に構わず、玄関の周りを見回した。
「おや?はて。管理人さんはいないようですなぁ」
「さっきまで一の瀬さんとご一緒だったのですが…」
「!」
「大丈夫ですよ、春香ちゃん。管理人さんは、きっとお部屋にお戻りになっているのでしょう」
「ささ、早く行きましょ」
そう言って、四谷は足早に歩いて行った。
「ばうーっ!ばうーっ!」
昼からえさをもらっていない惣一郎は、悲鳴にも近い声を上げた。しかしふたりは、無情にも惣一郎を無視して通り過ぎてしまった。惣一郎は彼らをただ見送るしかなかった。四谷の背中を恨めしそうに目で追っていた。



六 春香の気持ち

春香が見つからないまま、数時間が経った。高かった陽は、既に大きく傾いていた。目にしみるほど碧(あお)かった空の色も薄れ、いわし雲が長くたなびいていた。ときおりカァカァというからすのなく声が、風に乗って聞こえてきた。
 ちりーん、ちりーん…。
しまい忘れた南部風鈴が鳴った。裏庭の秋桜(コスモス)が揺れた。風もほんの少しだけ冷たくなってきた。
管理人室では、響子がちゃぶ台の周りをうろうろしていた。一の瀬は腕を組んで座り込んでいた。ふたりとも焦りと疲れの色を隠せなかった。
「どうしよう。もうそろそろ日も暮れちゃうし」
「春香、本当にどこに行っちゃったのかしら?」
響子はもう落ち着いてはいられなかった。あれから取り敢えず管理人室に戻ってきたものの、春香のことが心配で心配で、居ても立ってもいられなかった。ちょっとでも何か物音がする度に、様子を見に行くということの繰り返しだった。
「やっぱり警察に捜索願を出した方がいいかしら?」
おろおろする響子に、一の瀬がわざとふざけて言った。
「まさか身代金目当ての誘拐とも思えないしね」
「どういう意味ですか!」
響子の目が一瞬釣り上った。
「冗談だよ。でもこんだけ捜していないとなると、残るは二階かね?」
「え?まさか。だって春香は、まだひとりで階段を上がれないんですよ」
「…そんなの、危ないからやらせてないだけだろ?」
「それは…」
「だって。もう二階しか残ってないじゃないか」
響子はちょっと考えてから思い直した。
「そうですね。二階も捜してみないことには、らちが明きませんわね」
「それに、そろそろ5号室の戸じまりもしなくちゃいけないし」
一の瀬の表情が明るくなった。
「じゃぁ、行ってみるか!」
ふたりは一斉にドアに向かった。
「ばうーっ!ばうーっ!」
惣一郎がしきりにほえる声が聞こえた。
《もしかして春香が!》
ふたりは顔を見合わせてうなずいた。響子がノブに手を伸ばし、まさにドアを開けようとしたそのとき、トントンとドアをノックする音がした。ふたりの間に、にわかに緊張が走った。響子は口をこわ張らせた。
「は…い」
「管理人さん、四谷です」
響子は息を呑んだ。
「ど、どうぞ」
響子はゆっくりとドアを開けた。
「ママ…」
ドアの向こうには、顔をくしゃくしゃにした春香の姿があった。
「春香!」
響子の緊張が一気に緩んだ。
「春香!春香なのね。本当によかった…」
「ママ!」
母子の対面だった。響子は春香を胸に抱きしめると、思わず涙ぐんでしまった。そして人差し指で目尻を押さえながら、四谷に向き直り、深々と頭を下げた。
「四谷さん、ありがとうございました。ありがとうございました。ありがとうございました」
「いえ。いざというとき、頼りになる四谷です」
「そこんとこ、よろしく」
四谷の返答は、相変わらず、荒唐無稽(こうとうむけい)だった。
「まぁ、何はともあれ、見つかってよかったじゃないか」
一の瀬は、さっきまでの疲れも吹き飛んで、満面の笑みを浮かべた。響子はにっこりとして春香に尋ねた。
「あなたは一体どこに行ってたの?」
春香は両手をパタパタと何度も合わせながら言った。
「パパ、ママ、いっしょ。いっしょ…」
「?」
「管理人さん、春香ちゃんは5号室にいたんですよー」
四谷が口を挟んだ。響子の目が優しくなった。
「そうだったの。春香は寂しかったのね。本当にごめんなさい」
響子は春香を抱き直すと、少しおどけたように春香の顔をのぞき込んだ。
「そうね。もっと早く帰って来てくれるように、パパにもお願いしなくちゃねーっ」
「ホント五代くんにも困ったものです。これじゃぁ、宴会もできやしない」
「四谷さんっ!」
「まぁ、いいじゃないか、五代くんがいなくたって」
「今日はおめでたいんだからさ、パーっとやろうよ。パーっとさ」
いつの間にか、一升びんを持った一の瀬が乱入してきた。
「いいですな。私もご相伴に預かりましょう。ね?管理人さんも」
「はいっ」
響子は、春香を抱きながら、最高の笑顔で応えた。
「えんかいやろ!えんかい!」
「元気なお子ですな…」
今夜は春香を含めて四人で宴会が始まった。春香はいつになく上機嫌だった。今夜の食事は、五代と三人で一緒にとるのだろう。一の瀬の笑いが高らかに響いた。
「わはははははははは」
「それでは。毎度おなじみ、あ、ちゃかぽこ、ちゃかぽこ」
「まぁ、一の瀬さんたら…」
「えぇ、それでは、五代くんのお帰りを願って、歌を歌いましょう!」
「むぁってましたー!」
「きゃっきゃっきゃ」
管理人室のカーテンには、四つの影が楽しそうに映っていた。外では松虫が鳴き始めていた。秋もこれからが本番になりそうだ。ほんの少しだけ冷たい風が吹く中、管理人室からは、あたたかい光がこぼれていた。時計坂の下には、紅の塵(ちり)がどこまでも広がっていた。
「ばうー、ばうー」
夜の時計坂に、惣一郎の切ない遠ぼえがこだましていた。(完)