音無家のひとびと
作 高良福三
序 一刻館にて
また桜の季節がやってきた。昨日までぐずついていた空は穏やかに晴れ、きぬ雲が高く浮かんでいた。雨で桜が散らなかったことが何より幸いだった。
一刻館の玄関で、五代は革靴のひもを結んでいた。
「響子さん、そろそろ行きますよ」
「はーい」
響子は春香を抱いて管理人室から出てきた。
「ごめんなさい。春香の支度に手間取っちゃって」
「いやぁ」
五代は照れくさそうに笑った。響子は五代のかたわらに座ると、うかがうような視線で言った。
「あの五代さん、本当に無理しなくてもいいんですよ」
「いいんですよ。これもけじめですから。さぁ、行きましょう」
そう言って五代は響子を促した。
今年の桜は今が見頃だった。春とは思えないほどの強い日差しに、家々の甍が光の波となって、どこまでも続いていた。その光の波に桜の木々が島のように浮かび上がっていた。
響子と並んで歩いていた五代は、初めて音無家で家庭教師をした日を思い出していた。郁子のアルバムに見た響子の安らかな笑顔を重ね合わせると、五代はなぜかうれしくなった。
「今日はいい天気ですね」
「本当。昨日までのお天気がうそみたい。何だかワクワクしてきますね」
「はい。今日はいいことがありますよ、きっと!」
三つの影が時計坂を下って行った。
一 春の墓
五代たちは、小高い丘を登って行った。こんもりとした一面の草むらの上から、桜並木が近づいてきた。電車のクラクションが風に乗って聞こえる。見下ろせば、街はもう春一色だった。
「ここに来るのも、2年振りですね」
手おけを持つ五代の顔が遠くを見ていた。
「本当。去年は、春香の出産で大変でしたから」
響子は恥ずかしそうにうつむいた。
「でも五代さん、本当にこれでよかったのかしら?」
五代の目が優しくなった。
「初めて会った日から、響子さんの中に惣一 郎さんがいて、そんな響子さんを僕は好きになった。だから惣一郎さんは、響子さんの一部なんだ。結婚しても、それは変わらないと思う。今日はそのために来たんです」
「ごめんなさい…」
「なにも謝ることないのに」
五代は、墓前に花と線香を手向け、手を合わせた。響子の髪がときおり風になびく。
「惣一郎さん、安心してください。響子さんは、幸せに暮らしています。春香も、おかげさまで健康です」
五代の面持ちは泰然として、どこか余裕すら感じられた。
「さぁ、響子さんもお参りを」
「ええ」
響子は、墓前にひざまづき、黙ったまま頭を垂れた。手に持った数珠が静かに揺れている。桜の花がふたひら手おけに浮かんだ。春香は五代に抱かれ、ときおり小さな口を開けては微睡(まどろ)んでいた。響子は五代の方に向き直ると、深々と頭を下げた。
「五代さん、今日は本当にありがとうございました」
「惣一郎さんとは、もうお別れしたつもりだったんですけど、こころのどこかで、五代さんと惣一郎さんを重ね合わせていたんです。全然似てないのに…」
響子は、犬の惣一郎が失踪したときのことを思い出していた。真っ赤に燃える夕日の中で、時計坂を登る五代の姿に、在りし日の惣一郎を見たのであった。あのときの気持ちは、いまの自分の姿を予感させていたのかもしれないと響子は思った。
「ごめんなさい。私、何言ってるのか分かりませんわね」
五代は春香を抱きなおすと、響子の肩に手を掛けた。
「いいんですよ。僕も前々から考えていたんです。春香のことも、ちゃんと報告しなければいけないんじゃないかってね」
「私…あなたにあえて本当によかった…」
響子の声がくぐもった。響子は、五代の優しさに改めて感謝した。
二 音無家のひとびと
五代たちの足は、自然と音無家に向かっていた。それが当然のことであるかのようだった。ときおり吹く風に、桜の花びらが舞い降りてきた。のどかな午後の風景だった。「音無」の表札の前で、五代は立ち止まった。見慣れた門扉が少しだけ大きく見えた。
「ごめんください」
「よぉ、五代くん」
「あらあら春香ちゃんまで。いらっしゃい」
音無家のひとびとは、いつものように三人を迎えてくれた。
「今日はどうしたのかね?」
音無老人は、腰を擦りながら、春香にニッコリと笑って見せた。
「いやぁ、今日は惣一郎さんのお墓参りに行ったので、こちらにもご挨拶をと思いまして、寄らせてもらいました」
「そうかそうか。まぁ、立ち話もなんだから、お上がりなさい」
「はい。では、お邪魔します」
「お邪魔いたします」
音無家の庭先では、やまぶきが咲きはじめていた。季(とき)は間違いなく、音無家にも春を知らせていた。
「昨日までお天気がはっきりしなかったのに、惣一郎のお墓参りの日は、天気がよくて助かるわね」
郁子の母が響子に茶を勧めた。
「ええ、本当に」
そこへ音無老人が奥から小さな籠を持って現れた。
「響子さん、これね…」
「はい?」
「いや、惣一郎の遺品だよ」
響子の表情がこわばった。その視線は、明らかに五代を意識しているのが看て取れた。五代は仏間の方を見ながら、茶をすすっていた。
「以前、これをあんたから返してもらったときは、惣一郎が本当に遠くに行ってしまったようが気がしてね」
音無老人は、おもむろにタバコに火をつけようとしたが、春香の姿を見て手を止めた。五代は、音無老人の方に向き直ると、訥々(とつとつ)と言った。
「僕もね、それ、無理して返さなくてもいいって言ってたんですよ」
「でも、けじめつけなきゃって私が言ったんです。五代さんと暮らすためには、そうしなければいけないと思って…」
音無老人はふと立ち上がると、ふたりの話を聞いていないかのように縁側にたたずんだ。
「ななえやえ はなはさけども やまぶきの みのひとつだに なきぞかなしき」
「は?」
「響子さん、やまぶきって花はね、花が咲いても実が生らないもんなんだよ。でも違うじゃない。響子さんには、春香ちゃんがいる」
響子は、音無老人の真意を悟り、はっとした。
「もう、惣一郎のことは忘れなくちゃいけないよ」
「そんな、お義父さま…」
「いいんだよ、響子さん。確かに惣一郎は、遠くに行ってしまったかもしれない。だけどね、あんたたちがこうして来てくれると、孫がひとり増えたような気がしてね」
音無老人は、満足そうに春香をひざに抱いた。その顔は慈愛に満ちていた。
三 時計坂で
春の陽は、それほど長いものではなかった。駅に着く頃には、陽は大きく傾いていた。駅前商店街は、夕食の買い物客でにぎわっていた。喧騒の中で、五代は、春香をぐずらせないようにあやした。豆腐屋の笛の音が聞こえてきた。夕日に照らされた時計坂に、三つの長い影がさしていた。
響子は迷った。音無老人のことばも、理性では理解できた。しかし自分のこころの中から惣一郎を消し去ることは、不可能だった。いや、むしろ今では、惣一郎と五代が自分の中でドンドン重ね合わされていくのが感じられた。それが現実だった。
響子は五代を見た。五代は、優しく春香を抱いていた。春香は、五代の腕の中ですっかり眠っていた。五代が響子に気がついた。
「響子さん、どうかしましたか?」
「いえ、別に」
響子は、うつむき加減に前を見た。
「そうですか?何か元気ないみたいですけど」
「そんなことないですよ」
三人は坂の途中までさしかかった。唐突に五代が口をついた。
「も、もしかして、惣一郎さんのことですか?」
「ええ、まぁ…」
気のない返事をして、響子は再び五代を見た。五代は意外にも清々(すがすが)しい顔をしていた。
「僕、考えたんですけど、音無の家って僕らの何なんでしょう?」
「何って?」
「いや。響子さんが音無家から籍を抜いて、五代響子になった訳だから、響子さんは、もう音無家の人間ではありませんよね?」
「はぁ、そうなりますね」
「そしたら、音無家って、僕らにとって何なんでしょう?」
暫く沈黙が続いた。
「む、無関係ってことですか?」
響子は口ごもった。そのことばを口にするのが空恐ろしかった。
「今日、惣一郎さんにお参りした後、僕らは音無家に向かいました。それって実に自然なことだったと思うんですよ」
「まぁ、習慣みたいなものでしょうか?」
「習慣か…そうですね。でもそれ以上の意味があるんじゃないかと思うんです」
「それ以上の意味…」
五代は春香を抱きなおすと、時計坂の街を見下ろした。陽はとっぷり暮れていた。空には、一番星が輝いていた。
「音無のじいさんも言ってたでしょ。春香のこと、孫みたいだって」
「……」
「僕たちは、音無家といつまでも一緒なんです」
電車のクラクションが聞こえてきた。行き交う電車の灯りが見えた。ふたりは、暫く灯りを目で追っていた。
「それで…いいんでしょうか?」
響子は五代を見上げた。
「それでいいと思います」
五代は、響子に微笑んで見せた。響子は、何だか肩の荷が下りたような気がした。星空の中を三人は一刻館に帰っていった。(完)